第六話:苦渋の選択と見えない交渉相手
月詠朔からの「最終通告」メールは、日本政府を未曾有の窮地に立たせた。
「名無しの守り人(仮)」――今や「スカイフォール・スナイパー」として、その存在と圧倒的な力を(不本意ながらも)認めざるを得なくなった彼らは、その理不尽とも言える要求を前に、まさに内部分裂寸前の激論を交わしていた。
「ふざけるな! 国家が、正体も分からぬ個人の勝手な要求に屈するなど、あってはならんことだ!」
「しかし、現実に〇〇市がどうなったかを見ただろう! あの『守り人』の不在が、どれほどの悲劇を招くか!」
「だが、要求を全て飲めば、国家の威信は失墜する! それに、孤児支援施設の設立運営など、予算はどうするのだ!」
「威信で街を、人々を、護ることはできません!何が重要な事なのか、見誤らないで頂きたい!」
内閣府地下の対策本部は、連日連夜、怒号とため息と、そして疲労困憊の官僚たちの溜息で満たされていた。
そんな中、交渉の全権を委任された小野寺拓海は、ただ一人、冷静に状況を分析し、そして、見えない交渉相手とのコンタクトを試みていた。
彼がまず行ったのは、朔の要求の一つである「指定慈善団体への寄付」の実行だった。
もちろん、全額ではない。まずは「誠意」を示すため、そして何よりも、この寄付行為が「守り人」に認識されるかどうかを確認するためだ。
彼は、朔がメールで示唆したであろういくつかのキーワード(例えば「子供たちの未来」「見捨てられた命」など)から、複数の候補となる団体をリストアップし、政府の予備費から、極秘裏に、しかし確実に追跡可能な形で、少額の寄付を行った。
――その数時間後。
小野寺の元に、再び暗号化されたメールが届いた。
『件名:Re:Re:Re: 「誠意」は確認いたしました
小野寺拓海様(で、よろしいでしょうか?)
貴殿の迅速なご対応、拝見いたしました。
どうやら、ようやく話の通じる方が交渉の窓口になっていただけたようで、当方としても安堵しております。
寄付の件、確かに確認いたしました。ただし、金額については、当方の要求額には遠く及びません。まあ、今回は「挨拶代わり」ということにしておきましょう。
さて、本題ですが、孤児支援施設の設立運営、及び当方への活動資金の提供について、具体的な計画と金額の提示を早急にお願いいたします。
時間はあまり残されておりません。
世界の他の地域が、今どのような状況になっているか、貴殿もご存知のはずです。
名無しの守り人(仮)』
(……やはり、見ているのか。こちらの行動を、リアルタイムで)
小野寺は、メールの文面に、改めて相手の底知れぬ能力を感じ、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
そして、「世界の他の地域が、今どのような状況になっているか」という一文。
それは、決して誇張ではなかった。
第四次大襲撃以降、飛行型怪異「スティンガーバット」の出現は、世界の戦況を一変させていた。
これまでの地上戦に特化した防衛体制は、空からの奇襲に対してあまりにも無力だった。
多くの都市で、高層ビルが次々とスティンガーバットの巣窟と化し、そこから無数の怪異が地上へと降り注ぐ。もはや、地上を歩くことすら危険な状況だ。
食料や物資の輸送は完全に麻痺し、都市機能は崩壊。多くの国で、暴動や略奪が頻発し、治安は悪化の一途を辿っていた。
そして、その犠牲となるのは、いつも最も弱い立場の人々――老人、病人、そして、親を失った子供たちだった。
朔が「限定的な介入」を行った〇〇市南々東エリアと、新たに関与を始めた××県△△市北部周辺エリアだけが、まるで嵐の中の孤島のように、かろうじてその平穏を保っている。
その異常なまでの対比は、もはや隠しようもなく、世界中のメディアが、これらのエリアを「神に選ばれた地」あるいは「最後の楽園」と報じ始めていた。
その「神」が、一人の引きこもりの少女だとは誰も知らずに。
(……このままでは、日本も、世界も、本当に終わってしまう)
小野寺は、モニターに映し出される、海外の都市の惨状から目を逸らさずに、固く決意した。
国家の体面も、予算の制約も、今は二の次だ。
何としても、この「名無しの守り人」との交渉を成立させ、彼の力を、最大限に活用しなければならない。
その頃、月詠朔は、自室の「聖域」で、いつものようにネットを巡回していた。
モニターには、海外のニュース映像が流れている。炎上する摩天楼、スティンガーバットの群れに追われる人々、そして、瓦礫の中で泣き叫ぶ子供たち。
彼女は、その映像を、特に表情を変えることなく眺めていた。
他人事だ。自分には関係ない。そう言い聞かせるように。
だが、時折、彼女の指が、無意識にマウスのスクロールを止めることがあった。
それは、決まって、幼い子供たちが、絶望的な状況の中で、それでも必死に生きようとしている姿を捉えた瞬間だった。
その小さな手、怯えた瞳、か細い声。
それらが、彼女の心の奥底にある、固く閉ざされた何かを、ほんの少しだけ揺さぶる。
(……別に、同情なんかじゃない。ただ、効率が悪いと思うだけだ。あんな小さな子供たちが、無駄に死んでいくのは)
朔は、そう自分に言い聞かせると、再びブラウザのタブを切り替え、小野寺からの次のメールを待つことにした。
彼女の「ゲーム」は、まだ続いている。
そして、そのゲームのルールは、彼女自身が作り上げていくのだ。
たとえ、その先に、どんな結末が待っていようとも。
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