第二話:宣戦布告(暗号化メールにて)
大家からの理不尽な通知に、月詠朔の怒りは静かに、しかし確実に沸点に達していた。
だが、彼女は決して感情的に行動するタイプではない。
むしろ、怒りが頂点に達した時ほど、その思考は冷徹に、そして効率的に回転を始めるのだ。
(……家賃十倍、半年後、ね。まあ、猶予があるだけマシだけど、問題の本質はそこじゃない)
朔は、自室のメインコンソール(複数の大型モニターと高性能PCで構成された、彼女専用の情報司令塔だ)の前に座り、指先をキーボードの上で踊らせ始めた。
彼女が今から行うのは、単なるメールの作成ではない。
それは、一方的な要求に対する、彼女なりの「宣戦布告」であり、そして、周到に計算された「交渉」の第一手だった。
まず、送信先の選定。
特定の個人や部署に送っても、握り潰されるか、まともに取り合ってもらえない可能性が高い。
狙うべきは、この「奇跡の街」の安全保障に直接的な責任と利害を持つ、政府の中枢。そして、その中でも、実質的な決定権を持つであろう、ごく少数の人間に確実に届くルートだ。
朔は、この数週間で収集・解析してきた政府機関の内部情報(もちろん、全て合法的な手段で入手したわけではない)の中から、最も効果的と思われる複数のメールアドレスをリストアップした。首相官邸、内閣情報調査室、そして、あの小野寺拓海が所属する災害対策本部の上層部などだ。
次に、メールの内容。
ここで、朔は巧妙な情報を織り交ぜることにした。
彼女は、ネット上に溢れる「奇跡の街」以外の地域の情報を徹底的に調査していた。そこでは、能力を持つ住人に対し、法外な家賃を要求したり、あるいは不当な理由で立ち退きを迫ったりする悪質な家主や不動産業者が横行しているという事例が、少なからず報告されていたのだ。
その「よくある悲劇」を、あたかも自分の身に起きたことのように装う。
『件名:〇〇市南々東エリアにおける居住権の危機、及びエリア防衛に関する緊急提案
関係各位
私は、〇〇市南々東エリアに居住し、これまで陰ながら当エリアの防衛に微力ながら貢献してきた者です。
この度、当マンションの所有者より、現行家賃の二十倍という法外な賃料への改定、及び、これを承諾しない場合は即刻退去するよう、一方的な通告を受けました。
皆様もご存知の通り、当エリアは、度重なる怪異の襲撃にもかかわらず、奇跡的に安全を保ってまいりました。その一翼を、私が担ってきたという自負もございます。
しかし、このままでは、私はこの地を離れざるを得ません。
もし、私がこのエリアから去った場合、今後の防衛体制に何らかの影響が出る可能性も否定できませんが、それは私の関知するところではございません。
つきましては、貴殿らに以下の提案をさせていただきます。
1.当方の現住居における居住権の保証(現行家賃での継続、あるいは貴殿らによる差額負担)。
2.上記が不可能である場合、当方がこのエリアから安全かつ平穏に退去するための全面的な支援。その場合、今後の当エリアの防衛に関して、当方は一切の責任を負いません。
上記いずれかの回答を、72時間以内に、本メールアドレス宛にご連絡ください。
誠意あるご回答を期待しております。
なお、本件に関する直接の交渉相手の特定、及びその連絡先の提示も併せてお願いいたします。仲介業者や末端の担当者では話になりませんので、最終的な決定権を持つ方、あるいはそれに準ずる立場の方を希望いたします。
追伸:本メールは、複数の匿名サーバー及び暗号化ルートを経由して送信しております。発信元の特定は不可能であり、試みるだけ無駄であることを申し添えておきます。
名無しの守り人(仮)』
(……こんなものかな。少し脅しが強すぎたかもしれないけど、これくらいしないと、あの連中は動かないだろうし)
朔は、作成したメールの文面を何度か読み返し、微調整を加えた。
家賃を「十倍」から「二十倍」へ。猶予期間を「半年後」から「即刻」へ。
この「盛った」情報が、相手に与えるプレッシャーと、そして何よりも「ああ、またあの手の悪質な事例か」と思わせるミスリードを誘うはずだ。
そして、最後に「名無しの守り人(仮)」と署名することで、自分が例の「スカイフォール・スナイパー」であることを、暗に、しかし確実に示唆する。
送信ボタンを押す指先に、ほんのわずかな迷いもなかった。
彼女の「ムダにハイテクノロジーな環境」は、このメールが絶対に追跡不可能な形で、確実に相手の元へ届くことを保証していた。何重にも施された暗号化、世界各地のプロキシサーバーを経由する送信ルート、そして、送信完了と同時に全てのログを完全消去するプログラム。
まさに、サイバーゴーストの仕業だった。
メールを送信し終えると、朔はふぅ、と息を吐いた。
これで、ボールは相手に渡った。
あとは、彼らがどう出てくるか。
もし、この「奇跡の街」の安全を本気で維持したいと考えるなら、無視はできないはずだ。
(……さて、どんな魚が釣れるかな)
朔の口元に、いつもの不敵な笑みが浮かぶ。
彼女の新たな「ゲーム」の盤面は、今まさに動き出した。
そして、その最初の駒は、政府という巨大な組織の、まさに中枢へと投じられたのだ。
「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。また、特定の思想・信条を推奨するものでもありません。」




