霞を掴む手、再び
内閣府地下、災害対策本部の一室。
あれから数週間が経過したが、部屋に漂う重苦しい空気と、コーヒーの焦げた匂いは変わらない。いや、むしろ、人々の顔に刻まれた疲労の色は、さらに深まっているようにすら見えた。
第三次大襲撃「ファングキャット・パンデミック」は、一部の「奇跡のエリア」を除き、日本全土に壊滅的な被害をもたらした。そして今、政府はその対応と復興、そして次なる襲撃への備えという、三重苦に喘いでいた。
若手官僚の小野寺拓海は、目の前のモニターに映し出された、〇〇市南々東エリアとその周辺の、信じがたいほど低い被害状況を示すデータと、他の壊滅した都市のデータを、何度目かも分からない比較をしていた。
「スカイフォール・スナイパー」――ネット民が名付けたその正体不明の守護者の存在は、今や政府内でも半ば公然の秘密となっていた。いや、秘密というよりは、あまりにも規格外すぎて、どう扱っていいのか分からない「不可解な現象」とでも言うべきか。
「小野寺君、例の『〇〇市の異常なまでの安全性』の件だが、何か要因は特定できたかね?」
上司である課長が、疲れきった顔で声をかけてきた。その声には、切迫感と、どこか掴みどころのないものへの苛立ちが混じっている。
「いえ…依然として、明確な要因は不明です。ただ、第二次、第三次襲撃共に、このエリアでは出現した怪異が、極めて短時間のうちに、ほぼ完璧に殲滅されているという事実だけが確認できています。その『結果』が、この被害の少なさに繋がっているとしか…」
小野寺は、モニターを指し示した。
「ふむ…確かに、このエリアだけが突出して安全というのは、もはや疑いようがない。だがな、その『原因』が分からなければ、我々としては手の打ちようがない。何が起きているんだ? 我々の知らない新型兵器か? それとも、まだ登録されていない、超々弩級の能力者でも潜んでいるというのか?」
課長は、苛立たしげに髪をかきむしった。それは、この部屋にいる多くの人間の抱える疑問であり、焦りでもあった。
「原因が特定できなければ、他の地域に応用することも、ましてやコントロールすることも不可能だ。絵に描いた餅どころか、それが餅なのか何なのかすら分からんのだぞ」
(原因、か…)
小野寺は、その言葉を心の中で反芻した。
確かに、この〇〇市で起きている現象は、あまりにも不可解で、既存の科学や常識では説明がつかない。報告書には「原因不明の超常現象による脅威の排除」とでも書くしかないような事象だ。
だが、それでも、小野寺の中には、あの数字が示す「結果」と、現場からの断片的な報告――空中で蒸発する怪異、見えざる手による救済――が、強烈な印象となって刻み込まれていた。
あれは、偶然などではない。明確な意志を持った、誰か、あるいは何かの「介入」だと、彼は感じていた。
「…もし仮に、これが特定の個人、あるいはごく少数の集団によるものだとしたら、その力は我々の想像を絶するものです。そして、その目的や行動原理も、現時点では全くの謎です。下手に刺激すれば、この『奇跡のエリア』の安全すら危うくなるかもしれません。今は、ただ静観し、情報を集め続けるしかないかと」
小野寺は、慎重に言葉を選んで答えた。
課長は、何も言わずに頷いた。彼もまた、この掴みどころのない状況に、有効な手立てを見いだせずにいるのかもしれない。
だが、政治家やさらに上の立場の人々は、この「力の空白地帯」とも言える状況を、いつまでも放置しておくはずがない。彼らは、この「力」の正体を暴き、何とかして利用しようとするか、あるいは、それが不可能だと判断すれば、別の手段を講じるだろう。その狭間で、自分たち現場の人間は、綱渡りのような対応を迫られることになる。
(……本当に、厄介なことだ)
小野寺は、再びモニターに視線を戻した。
〇〇市の、まるで何事もなかったかのように平穏な街並み。そのどこかに、この異常事態を引き起こしている「何か」は潜んでいるのだろうか。
一体何を考え、何のために、これほどの力を振るっているのか。
そして、いつか、その正体が明らかになる日は来るのだろうか。
その時、ふと、小野寺の脳裏に、以前読んだ古いSF小説の一節がよぎった。
理解できない力は、恐れるか、あるいは崇めるしかない。
だが、最も賢明なのは、ただ、その存在を認め、敬意を払うことだ。
(敬意、ね……)
今の政府に、そんな度量があるだろうか。
小野寺は、自嘲気味に小さく笑った。
それでも、彼は諦めたわけではなかった。
この「霞を掴むような存在」の正体を突き止め、もしそれが対話可能な相手なのであれば、建設的な関係を築きたい。そのためには、粘り強い情報収集と、そして何よりも、相手に対する誠実な姿勢が必要だろう。
それは、途方もなく困難な道のりになるだろうが、この崩壊しかけた世界で、数少ない「希望の灯」の謎を解き明かすことは、彼にとっての使命のようにも感じられた。
その頃、〇〇市南々東エリアの、とあるマンションの一室では、一人の少女が、新しい「オモチャ」の設計図を眺めながら、満足げに鼻歌を口ずさんでいたことなど、彼はもちろん知る由もなかった。
そして、その少女が、政府の思惑など全く意に介さず、ただ自分の「快適な日常」を守るために、とんでもない「交渉」を仕掛けてくることになる未来も。
「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。また、特定の思想・信条を推奨するものでもありません。」