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ひとりぼっちの最終防衛線(ラストライン)  作者: 輝夜
序章 六畳間の戦場
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第三話:赤い染み

 

 屋上のフェンスにしがみつき、さくは眼下の惨状から目を離せずにいた。

 空から降り注ぐ黒い影――「ラビット」と名付けられたそれらは、地上に到達すると同時に、人々を襲い始めた。それは、悪夢としか言いようのない光景だった。


 最初は、何かの突発的な事故か暴動だと思ったのだろう。近くにいた数人の男性が、ラビットに立ち向かおうとするのが見えた。一人は工事現場のヘルメットを被り、何か棒のようなものを振り回している。もう一人は、勇敢にも素手で殴りかかろうとしている。

 だが、彼らの抵抗はあまりにも無力だった。

 ラビットは見た目に反して驚くほど俊敏で、予測不能な動きで攻撃を掻い潜り、鋭い爪や牙でいとも簡単に人々を傷つけていく。悲鳴が断続的に響き、アスファルトには点々と、そして徐々に広がるように、赤い染みができていく。


 さくは唇を噛みしめた。

(逃げればいいのに…なんで…)

 彼女には理解できなかった。なぜ、勝ち目のない相手に立ち向かうのか。なぜ、危険を冒して他人を助けようとするのか。自分なら、真っ先に安全な場所に逃げる。それが合理的で、正しい選択のはずだ。


 やがて、パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきた。数分も経たないうちに、数台のパトカーが現場に到着し、制服姿の警官たちが飛び出してくる。彼らは拳銃を構え、ラビットに向けて威嚇射撃を始めた。

 パン、パン、と乾いた銃声が響く。

 その音に、さくの心臓がドクンと大きく跳ねた。背中のライフルの存在を、改めて意識する。


 警官たちの登場で、一瞬、状況が好転するかに見えた。数匹のラビットが銃撃を受けて動きを止める。しかし、それも束の間だった。ラビットの数はあまりにも多く、しかも怯む様子がない。銃弾をものともせず、次々と警官たちに襲いかかっていく。

 一人の警官が、子供を庇うようにしてラビットの群れに立ち塞がった。その背中に、数匹のラビットが同時に飛びかかる。短い悲鳴。そして、その場に崩れ落ちる姿。


 さくは息を飲んだ。

(馬鹿だ…)

 そう思った。合理的じゃない。自己犠牲なんて、意味がない。

 なのに、なぜだろう。胸の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛む。

 ゴーグルの奥で、彼女の瞳が揺れていた。


 かつて、両親を失った時も、家政婦に裏切られた時も、彼女は一人で全てを処理してきた。誰にも頼らず、誰にも期待せず、自分の力だけで困難を乗り越えてきた。それが彼女の生き方であり、唯一信じられる方法だった。

 他人のために何かをするなんて、考えたこともなかった。自分の安全と平穏こそが、何よりも優先されるべきだと信じて疑わなかった。


 だが、今、目の前で繰り広げられているのは、その信念を根底から揺るがすような光景だった。

 無力な人々が、自分よりも弱い者を守ろうとして傷つき、命を落としていく。

 その姿は、あまりにも非効率で、非合理的で、そして……なぜか、朔の心を強く揺さぶった。


(私には、関係ない)

 何度も自分に言い聞かせようとする。

(これは、私の戦いじゃない。私は、ただ巻き込まれただけだ)

 背中のライフルが、やけに重く感じる。

 高次元存在からの「推奨:排除」という冷たい感覚が、まだ脳裏にこびりついている。


 もし、あのライフルを使えば。

 もし、あの人たちを助けることができるのなら。

 でも、それは「他人」と関わるということだ。自分の安全な殻を破るということだ。

 何より、誰かのために自分を危険に晒すなんて、さくのこれまでの生き方とは正反対の行為だった。


 赤い染みは、ますます広範囲に広がっていく。

 悲鳴は、絶望の色を濃くしていく。

 そして、ついに、一匹のラビットが、小さな子供に向かって飛びかかろうとするのが、ゴーグル越しの強化された視界に、スローモーションのように映った。

 子供の顔は恐怖に歪み、声にならない叫びを上げている。


 その瞬間、朔の中で、何かが弾けた。

 理屈ではない。計算でもない。

 ただ、衝動的に。


(――間に合え!)


 気づけば、彼女は背負っていたライフルを構え、フェンスに身を乗り出すようにして、その小さな的を見据えていた。


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