第二十話:静寂の守護者と新たなる日常の胎動
ワールドランキングNo.1。
その称号は、月詠朔の日常に、表面的には何の変化ももたらさなかった。
彼女は相変わらず六畳間の「聖域」に引きこもり、淡々と次の「脅威」に備え、そして時折訪れる「システム」からのお告げに従って、誰にも知られることなく「掃除」を繰り返す。
ただ、その「掃除」の効率と範囲は、もはや以前とは比較にならないレベルに達していた。
「空間制御技術」――「システム」から新たにアクセス権を与えられたその力は、朔の戦術を根底から変えた。
まだ限定的ながらも、彼女は短距離の空間跳躍や、ごく小規模な空間歪曲による物理的な障壁の生成などを、実験的にではあるが可能にしていたのだ。
これにより、狙撃ポイントへの移動は瞬時に、そして完全な隠密下で行えるようになり、万が一の際の離脱も、もはや誰にも追跡不可能なレベルとなった。
ライフルの威力と静音性も極限まで高められ、強化されたスーツのステルス機能と索敵能力は、彼女を真の「見えざる死神」へと昇華させていた。
もはや、ラビットやファングキャット程度の怪異では、彼女の姿を捉えることすらできず、出現とほぼ同時に、あるいは出現する前にすら、その存在を「蒸発」させられるようになっていた。
その結果、朔が活動範囲と認識しているエリア――それは、彼女のマンションを中心とした半径数十キロメートルにも及ぶ広大な地域だったが――は、他のいかなる場所とも比較にならないほどの、絶対的な安全地帯と化していた。
第三次大襲撃以降も、世界各地では散発的に、あるいは局地的に怪異の出現は続いていたが、このエリアだけは、まるで怪異が避けて通るかのように、平穏が保たれ続けていたのだ。
もちろん、それは怪異が避けているのではなく、出現する端から朔によって「処理」されているからなのだが、その事実を知る者は誰もいない。
「奇跡の街」――〇〇市南々東エリアの評判は、もはや不動のものとなっていた。
そして、その「奇跡」は、朔の活動範囲の拡大と共に、じわじわと、しかし確実にその版図を広げつつあった。
隣接する区画も、そのまた隣の市も、いつの間にか「比較的安全な場所」として認識されるようになり、そこにもまた、安全を求める人々が集まり始めていた。
政府も、この異常なまでの安全地帯の存在を、もはや無視することはできなかった。
ワールドランキングや、個々の能力者の詳細な戦闘能力までは把握できていないものの、「スカイフォール・スナイパー(仮)」と呼称される正体不明の守護者が、このエリアの安全を担保しているという事実は、彼らにとってもはや疑いようのないものとなっていた。
プライドの高い政府高官たちは、表向き、首都からの大規模な機能移転を行うことはなかったが、水面下では、国家の重要インフラや、災害対策本部のバックアップ機能、そして一部の要人たちの避難先として、この「奇跡のエリア」内に、極秘裏に拠点を移し始めていた。
他の有力ランカーが守る都市や、大手能力者団体が支配する地域も、確かに比較的安全ではあったが、その安全性は、このエリアの「絶対的」とも言える平穏の前では霞んで見えた。数字が、それを何よりも雄弁に物語っている。
もちろん、他のランカーや能力者団体も、それぞれの場所で必死に戦い、人々を守っていた。
彼らは規格外の力を持たずとも、知恵と勇気と、そして仲間との絆を武器に、日夜続く怪異との戦いに身を投じていた。彼らの奮闘がなければ、世界の崩壊はもっと早まっていただろう。
だが、それでも、月詠朔という「規格外」の存在がもたらす結果は、あまりにも圧倒的だった。
朔自身は、そんな世界の動きや、自分に向けられる(であろう)期待や畏怖には、ほとんど関心を示さなかった。
彼女の関心は、ただひたすらに、自分の「聖域」の快適さを維持することと、次の「ゲーム」をいかに効率よく、そしてスタイリッシュにクリアできるか、という点に集約されていた。
「システム」からの「お告げ」は、もはや彼女にとって、面倒な義務ではなく、新しい装備や技術を試すための、待ち遠しい「アップデート」のようなものにすらなりつつあった。
六畳間の窓から、彼女は時折、再建が進む街の様子を眺めることがあった。
そこには、多くの人々の営みがあり、悲しみも、そして小さな喜びもあった。
その光景が、彼女の心に何を投げかけているのか、まだ朔自身にもよく分からなかった。
ただ、この静寂と、そして窓の外に見える、かろうじて保たれている日常を、守る「ついで」くらいなら、まあ、悪くないかもしれない――そんな風に思う瞬間が、ほんの少しだけ増えてきたような気がしていた。
第一次の戦いが終わり、世界は新たな日常を模索し始める。
それは、常に怪異の脅威と隣り合わせの、脆く、そして歪な日常。
だが、その日常の中で、月詠朔という「ひとりぼっちの最終防衛線」は、誰にも知られることなく、しかし確実に、その存在感を増していく。
彼女の物語は、まだ始まったばかりだ。
そして、その先に待ち受けるものが、平穏なのか、それとも更なる混沌なのか――それは、まだ誰にも予測できない。
(第一章 了)




