第十五話:六畳間の不協和音
「奇跡の街」――その甘美な響きとは裏腹に、月詠朔の日常には、じわじわと、しかし確実に不協和音が侵食し始めていた。
彼女の住むマンション703号室は、幸か不幸か、その「奇跡の街」の中心部に位置していた。
以前は、昼間でも人通りはまばらで、夜になれば車の音すらほとんど聞こえない静かな環境だった。それが今では、朝から晩まで、絶え間ない喧騒に包まれている。
(……うるさい)
朔は、ヘッドホンで耳を塞ぎながら、忌々しげに窓の外を一瞥した。
カーテンは相変わらず閉め切っているが、それでも、ひっきりなしに聞こえてくる人々の話し声、車のクラクション、どこかで行われている工事の音、そして、時折響く、おそらくは能力者同士の小競り合いか訓練でもしているような、耳障りな衝撃音。
それらは全て、彼女の集中力を削ぎ、安らかな引きこもり生活を脅かす「ノイズ」でしかなかった。
最も深刻な影響は、生活物資の調達だ。
以前は、ネットスーパーで注文すれば、数時間後には玄関先まで届けてくれた食料品や日用品が、今では注文してから数日待ちは当たり前。下手をすれば「配送エリア外」として注文自体をキャンセルされることすらある。
「奇跡の街」への人口流入と、それに伴う物流の混乱が原因だろう。
仕方なく、朔は数日に一度、深夜、人目を忍んで近所のコンビニまで買い出しに出なければならなくなった。フードを目深にかぶり、強化されたスーツのステルス機能を最大限に活用して気配を消し、まるで潜入任務のように。
それは、彼女にとって、筆舌に尽くしがたい苦痛であり、屈辱でもあった。
(こんなことなら、もっと備蓄しておくべきだった…いや、そもそも、こんなことになる方がおかしい)
さらに、マンションの周辺には、見慣れない顔が増えた。
避難民なのか、あるいは一攫千金を狙って流れ込んできた者たちなのか。彼らは、昼夜を問わず徘徊し、時にはマンションの敷地内に無断で入り込んだり、ゴミを散らかしたりしていく。
先日などは、マンションの入り口で、見知らぬ男たちが数人で酒盛りをして騒いでいるのを目撃し、朔は部屋に戻ってからもしばらく不快感で眠れなかった。
管理会社も、この異常事態には対応しきれていないようだ。
(……不審者が増えれば、空き巣や強盗のリスクも上がる。この部屋のセキュリティは大丈夫だろうか)
朔は、自室のドアや窓の施錠を何度も確認し、さらには自作の簡易的な侵入警報システム(これも「システム」から供給されたリソースの余りで作ったものだ)を設置する始末だった。
かつては、世界で一番安全な場所だと信じていたこの六畳間が、今や外部からの脅威に常に晒されているような感覚。それは、彼女の人間不信をさらに加速させた。
「……本当に、面倒くさいことになった」
朔は、カスタマイズ作業の手を止め、深いため息をついた。
自分の行動が、結果的にこの状況を生み出した一因であることは、彼女も薄々気づいている。だが、だからといって、感謝されたいとも、責任を感じたいとも思わない。
ただ、この不快な日常の変化を、どうにかして排除したい。それだけだ。
窓の外の喧騒が、また一段と大きくなった気がした。
どこかで、誰かが大声で怒鳴り合っている。
朔は、ギリ、と奥歯を噛みしめた。
(……次の「お告げ」は、まだか)
皮肉なことに、以前はあれほど忌避していた「システム」からのコンタクトを、今では心のどこかで待ち望んでいる自分がいた。
それは、この不快な日常から一時的にでも逃避し、自分の力を振るって「ノイズ」を排除できる、唯一の時間だからかもしれない。
あるいは、もっと単純に、この騒がしい「奇跡の街」そのものを、一度「大掃除」してしまいたいという、危険な衝動が芽生え始めているのかもしれなかった。
六畳間の錬金術師は、その手で新たな驚異的な装備を生み出す一方で、その心の中には、静かに、しかし確実に、新たな種類の「ストレス」と「苛立ち」が蓄積され始めていた。
そして、その感情が、いつか彼女の冷静な判断を狂わせる日が来るのか、まだ誰にも分からなかった。




