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ひとりぼっちの最終防衛線(ラストライン)  作者: 輝夜
序章 六畳間の戦場
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第二話:屋上の風

 

 目の前に実体化したアタッシュケースとスーツ。それは、さくがここ数年で感じたことのない種類の恐怖と困惑を運んできた。これは現実なのか? 誰かの手の込んだ悪戯? いや、そんなレベルの話ではない。


『装備を装着。脅威の排除を推奨』


 再び、脳内に響く冷たい「感覚」。有無を言わせぬその響きに、朔は抗う術を持たなかった。まるで操り人形のように、彼女の体はゆっくりとスーツへと手を伸ばす。


 それは、触れるとひんやりとしていて、驚くほど軽量だった。着心地は悪くない。むしろ、体に吸い付くようにフィットし、動きを阻害するどころか、どこか軽くなったような錯覚さえ覚える。最後に頭部を覆うフードと一体化したゴーグルを装着すると、視界の端にいくつかのアイコンと数値のようなものが淡く表示された。まるでゲームのUIだ。しかし、これはゲームではない。


 アタッシュケースを開けると、中には黒光りするライフルが鎮座していた。SF映画に出てきそうな、直線的で洗練されたデザイン。だが、そのずっしりとした重みは、紛れもない本物の「武器」であることを物語っていた。手に取ると、自然と指がトリガーガードにかかる。知識として知っているライフルの構え方とは少し違う、妙にしっくりくる感覚。


『対象は地上。座標、南西方向。多数出現』


 情報が更新される。南西方向。それは、このマンションのベランダとは逆の方角だ。

(まさか……)

 朔の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。このマンションで唯一、南西方向を見渡せる場所。


 屋上。


 ここ数年、自室と最低限の共有スペース以外、足を踏み入れたことのない場所。外に出るなど、考えただけでも眩暈がする。人に会うかもしれない。誰かに見られるかもしれない。そんな恐怖が、普段の彼女なら足を縫い止めてしまうはずだった。


 しかし、今、彼女を突き動かしているのは、恐怖よりも強い、未知の「何か」への抵抗できない引力と、そして、脳内に響き続ける冷たい「命令」だった。

 ライフルを背負うように固定できるストラップが、スーツには備わっていた。それを肩にかけ、朔は震える手で自室のドアノブに手をかける。


 ギィ、と軋む音を立てて開いたドアの向こうは、薄暗い廊下。いつもと変わらない、生活感のない空間。しかし、今の朔にとっては、まるで異世界への入り口のように感じられた。

 エレベーターを使う気にはなれなかった。息を殺し、壁伝いに非常階段へ。一段一段、金属の冷たい感触を確かめるように、屋上へと続く扉を目指す。


 心臓が早鐘のように打っている。冷や汗が背中を伝う。

(何をやっているんだ、私は)

 自問自答する余裕すら、奪われていく。


 そして、ついに屋上へと続く、重々しい鉄の扉の前にたどり着いた。

 錆び付いた押しバーに手をかける。力を込めて押すと、ゴウン、という鈍い音とともに、外の空気が流れ込んできた。生暖かく、埃っぽい、久しぶりに嗅ぐ「外」の匂い。


 一歩、踏み出す。

 瞬間、ぶわりと強い風が朔の体を包んだ。フードがはためき、ゴーグル越しの視界が一瞬揺らぐ。何もない、だだっ広いコンクリートの空間。周囲には高いフェンスが張り巡らされている。そして、その向こうには、彼女がずっと目を背けてきた「世界」が広がっていた。


 恐る恐る、フェンス際まで近づく。眼下には、ミニチュアのような街並み。車が行き交い、人々が歩いている。いつもと変わらない日常。

(やっぱり、何かの間違いだったんじゃ……)

 安堵しかけた、その時だった。


 南西の空。

 ほんの少しだけ、空間が歪んでいるように見えた。陽炎のように。

 そして、そこから、黒い「何か」が、まるで雨粒のように、パラパラと地上に向かって降り注いでいるのが見えた。


 その「何か」が地上に到達した瞬間、悲鳴が上がった。小さく、しかし確実に、朔の耳に届いた。

 次いで、車のクラクション、何かがぶつかる音、怒号。

 日常が、目の前で急速に崩れていく。


『脅威対象:呼称ラビット。特徴:小型、俊敏、集団行動。攻撃手段:牙、爪。現時点での民間人への有効な抵抗手段なし』


 淡々と、脳内に情報が流れ込む。

 さくは、フェンスにしがみつくようにして、その惨状を見下ろした。

 逃げ惑う人々。彼らに襲いかかる、黒い影。それは、確かにウサギのようなシルエットをしていたが、その動きは獰猛で、明らかにこの世のものではなかった。


 助けを求める声。絶望の叫び。

 それは、朔がずっとシャットアウトしてきた、「他人」の声だった。

 普段なら、すぐに目を逸らし、耳を塞ぎ、自室の安全な殻に閉じこもるはずだった。


 だが、今の彼女の背には、冷たいライフルの感触があった。

 そして、脳裏には、まだあの「感覚」が残っている。


『推奨:排除』


 それは、命令であり、懇願であり、あるいは、ただの事実の提示なのかもしれなかった。


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