ひだまりのスケッチブック
季節は、初夏。
窓から吹き込む風が、カーテンを優しく揺らす、日曜日の午後。
天野家のリビングは、穏やかな空気に満ちていた。
「――だから! この『エンシェント・ワイバーンの卵』の最適な孵化温度は、理論上、摂氏1200度で、誤差はプラスマイナス0.03度なんだってば! なんで、ただの『愛情』で温めようとするのよ、この筋肉ダルマは!」
「うるさいわねぇ、レイ! ドラゴンの卵っていうのはな、親の愛情で温めるからこそ、強く、優しい子に育つもんなんだよ! データばっかり見てるあんたに、何が分かるってんだ!」
リビングの大型ホログラムモニターからは、何やら物騒で、しかしどこか楽しげな言い争いが聞こえてくる。
画面の向こう、異世界ドラゴニア・クロニクルでは、レイお姉さんと、すっかりギルドの重鎮となったケンジが、新しく発見されたワイバーンの卵の育成方法を巡って、いつものように口喧嘩を繰り広げている。どうやら、雫の「叔母」であるレイは、最近、地球のリビングにホログラム通信を繋ぎっぱなしにして、孫の様子を眺めるのが、新しい趣味になっているらしい。
「もー、レイおば様も、ケンジおじさんも、また喧嘩してるー」
リビングのローテーブルで、宿題のドリルを広げていた天野雫は、呆れたように、しかし楽しげに、その様子を眺めていた。
「やれやれ。あの方たちは、いつまで経っても、賑やかなことだ」
キッチンで、エプロン姿のゼノンパパが、これまた呆れたように、しかしその口元は緩みっぱなしで、コーヒーを淹れている。彼の淹れるコーヒーは、宇宙一、香りが良い。
そんな、平和で、少しだけ騒がしい午後。
雫は、ふと、ドリルの手を止め、自分のスケッチブックを、そっと開いた。
そこには、彼女が、最近、夢中になって描いている、一つの物語の挿絵があった。
それは、大きな、大きな、宇宙の絵。
中央には、銀色の髪をした、少し寂しそうな顔をした、綺麗なお姫様が、一人で、玉座に座っている。
そのお姫様の周りには、たくさんの、温かい光が、星のように輝いている。
ある光は、活発で、元気な、男の子のよう。
ある光は、優しくて、全てを包み込むような、お母さんのよう。
ある光は、少しおっちょこちょいだけど、誰よりも頼りになる、お姉さんのよう。
そして、その全ての光を、一番大きな、漆黒の、しかしどこまでも優しい光が、そっと、見守っている。
「……雫。また、その絵を描いているのかい?」
いつの間にか、隣に座ったゼノンパパが、彼女のスケッチブックを、優しい眼差しで覗き込んでいた。
「うん。…なんだか、分からないけど、この絵を描いているとね、胸の奥が、すごく、ポカポカするんだ」
雫は、はにかみながら言った。
「このお姫様ね、最初は、すっごく、ひとりぼっちだったの。でもね、たくさんの、素敵な光に出会って、最後には、世界で一番、幸せになるんだよ。…そういう、お話」
ゼノンは、何も言わなかった。
ただ、その大きな手で、娘の、栗色の髪を、そっと、優しく撫でた。
彼女は、何も覚えていない。
でも、その魂には、確かに、あの壮大な物語の記憶が、温かい「ひだまり」となって、確かに、刻まれている。
「…お父さん。このお話の、続き、一緒に考えてくれる?」
「…ああ。もちろんだとも。…世界で一番、幸せな、続きをね」
父と娘は、顔を見合わせて、微笑んだ。
窓の外では、心地よい初夏の風が、新しい物語の始まりを、優しく祝福するかのように、そよいでいた。
ひとりぼっちだった神様の、本当の「幸せ」は、今、確かに、ここに在った。