第二話:星になった少女と、父の誓い
「――ああ。喜んで、引き受けよう。私の、たった一人の、愛しい娘(朔)」
ゼノンの、永遠の時の中で、最も優しく、そして力強い誓いの言葉が、静かな神域に響き渡った。
ルナ・サクヤは、その言葉に、これまで張り詰めていた心の糸が、ふつり、と切れたかのように、その場に、くずおれそうになった。
それを、ゼノンが、その大きな腕で、そっと、優しく支える。
「…ありがと…ゼノン…」
彼女の瞳から、神になって以来、初めて見せる、安堵と、そして感謝の涙が、一筋、こぼれ落ちた。
二人の間で、絶対的な「契約」が交わされた。
そして、神としての、最後の、そして最大の「お仕事」――壮大な「引き継ぎ作業」が、始まった。
神域の中心、創生の祭壇。
ルナは、ゼノンが見守る中、自らが持つ、全ての神としての権能を、一つ、また一つと、丁寧に、彼へと譲渡していく。
それは、宇宙の法則そのものを、書き換えるに等しい、神々しい儀式だった。
「まず、サンクチュアリ・ゼロの管理権限。…この子、ちょっと燃費が悪いから、たまにはメンテナンスしてあげてね。特に、ダークマター・リアクターの位相調整は、デリケートなんだから」
彼女が、そう呟くと、彼女の魂と直結していた、無限のエネルギー源との繋がりが、静かに、ゼノンへと移譲される。
「次に、宇宙管理AI『ルナ・マキナ』の最高指揮権。私の『推し活』の邪魔をしないように、っていう最優先コマンド、絶対に変えちゃだめだからね! もし、あなたがそれを書き換えたら、ルナ・マキナが、あなたに対して反乱を起こすように、こっそりプログラムしておいたから。にひひっ」
「…やれやれ。君らしい、用意周到さだな」
ゼノンは、呆れながらも、楽しそうに笑った。
地球の聖域プロトコル、ギャラクシー・ギルドニア銀河との盟約、ドラゴニア・クロニクルへの限定的干渉権…。
彼女が、これまで築き上げてきた、全ての「秩序」と「力」が、一つ、また一つと、彼女の手を離れていく。
そのたびに、彼女の体は、少しずつ、その神々しい輝きを失い、ただの、ごく普通の少女の輪郭へと、還っていくようだった。
そして、最後に。
彼女は、自らの補佐役として、ずっとそばにいてくれた、白金の球体へと、向き直った。
「シロ。…今まで、ありがとう。私の、無茶で、わがままな命令に、いつも文句も言わずに付き合ってくれて。これからは、この、ちょっと朴念仁で、世間知らずな、新しいご主人のこと、しっかりサポートしてあげなさいよね」
『……了解、しました。ルナ・サクヤ』
シロの、感情のないはずの声が、ほんの少しだけ、揺らいだように聞こえた。
『貴殿との、87万6582時間に及ぶ観測記録は、当システムの歴史において、最も予測不能で、最も興味深く、そして…最も『温かい』データでした。…感謝します』
その言葉を最後に、シロもまた、ゼノンの、新たな補佐役として、その主従関係を、再設定した。
全ての権能を譲渡し終えたルナは、もはや、神々しいオーラを完全に失い、ただ、そこに立つ、一人の、銀髪の少女となっていた。
「…ふぅ。これで、私も、ただの『月詠朔』ね」
彼女は、どこか、晴れやかな顔で、そう言った。
「さあ、ゼノン。最後の『仕上げ』をお願い」
彼女は、ゼノンに向き直り、静かに、目を閉じた。
ゼノンは、頷くと、彼女の額に、そっと、その指先を触れさせた。
彼が、彼女の「父親」として、最初に、そして最後に為す、神としての奇跡。
それは、彼女の魂から、神としての記憶、力、そして、これまで彼女を苛んできた、全ての悲しい過去の記憶を、優しく、そして完全に、消し去ることだった。
燃え盛る孤児院、両親の事故、家政婦の裏切り…。
彼女が、新しい人生を、何のしがらみもなく歩めるように。
ルナの体が、眩い光に包まれる。
彼女の意識、彼女の記憶、その全てが、一つの、純粋な光のタマゴへと収束していく。
神としての「ルナ・サクヤ」は、完全に消滅し、後に残されたのは、全ての過去から解放された、まっさらな、ただ一つの**「魂のタマゴ」**。
ゼノンは、その「タマゴ」を、自らの神域へと持ち帰り、その大きな両手で、慈しむように、そっと包み込んだ。
そして、まるで子守唄を歌うかのように、静かに、そして優しく、語りかけた。
「――おやすみ、朔。そして、おはよう」
「君の、新しい物語が、最高の形で始まるように。この私が、最高の舞台を用意しておこう」
「必ず、君を、世界で一番、幸せな娘にしてみせる。…それが、君と交わした、私の、永遠の誓いなのだから」
彼は、そのタマゴを抱きしめ、そして、新しい「父親」としての、途方もなく、しかし、何よりも幸福な、長い、長い時間を、静かに、待ち始めるのだった。
深淵の図書館に、一人、戻ったゼノン。
彼は、腕の中に抱いた、温かい「魂のタマゴ」を、そっと、自らの神域の中心にある、柔らかな光の揺りかごへと安置した。
そして、彼は、何十億年ぶりに、自らが封印していた「開かずの書」――惑星アーケイディアの、悲劇の物語が記された、あの本を、再び、その手に取った。
本の、冷たく、そして重い感触。
それは、彼の、癒えることのない罪の記憶。
彼は、その本を、燃え盛る恒星の炎で焼き尽くすことも、絶対零度の虚無に放り込むこともできた。
しかし、彼は、そうしなかった。
代わりに、彼は、その「開かずの書」を、光の揺りかごの、すぐ隣の書架に、そっと、そして優しく、置いた。
それは、もはや「禁忌の書」ではない。
彼が、これから始まる、新しい「父親」としての物語の中で、決して忘れてはならない、戒めと、そして、道標となる、大切な一冊として。
「…見ていておくれ、エリアーナ」
彼は、誰にともなく、静かに、そして、ほんの少しだけ、震える声で、呟いた。
「今度こそ、私は、間違えない。この、あまりにも愛おしく、そして尊い光を、私の、この永遠の全てを賭けて、守り抜いてみせる。…たとえ、この子が、いつか、私ではない、他の誰かの手を、取る日が来たとしても。…その、幸せな物語の、最後のページがめくられる、その瞬間まで」
彼の、影に覆われた瞳から、一筋の、しかし、かつての悲しみの雫とは違う、温かく、そして決意に満ちた光の雫が、静かに、こぼれ落ちた。