第一話:黄昏の兆候と、ゼノンの絶望
月詠朔が、アリアと怜お姉さんへの「最後の挨拶」を終え、いよいよ自らの「神様引退計画」を実行に移そうとしていた、その矢先のことだった。
宇宙に、静かで、しかし抗いがたい「異変」の兆候が現れ始めた。
最初は、本当に些細な変化だった。
システム(シロ)の観測網が捉える、遠い銀河の星々の光が、ほんの僅かに、しかし統計的に有意なレベルで、その輝きを失い始めている。
サンクチュアリ・ゼロのエネルギー生産効率が、理論値を、ごくわずかに下回る現象が、断続的に発生する。
ギャラクシー・ギルドニア銀河では、アリアの癒やしの力が、ほんの少しだけ届きにくくなった、という報告が。
ドラゴニア・クロニクルでは、魔法の源であるマナの循環が、微かに淀み始めている、と。
「……何かしら、これ。宇宙全体が、なんだか『風邪』でもひき始めてるみたいね」
ルナは、神域のテラスで、眉をひそめた。
彼女の隣で、ゼノンが、その報告に目を通す。そして、彼の、何十億年も動じることのなかった顔に、初めて、明確な「絶望」の色が浮かんだ。
「……まさか。この宇宙でも、ついに、始まったというのか…」
彼の声は、震えていた。
「何がよ、ゼノン。ちゃんと説明しなさい」
ルナは、彼のただならぬ様子に、少しだけ不安を覚える。
「――『大静寂』だ」
ゼノンは、重々しく告げた。
「宇宙そのものの『寿命』。エントロピーが増大し、全てのエネルギーが、熱的死へと向かい始める、速やかで、かつ絶対的な『終わり』の兆候。私も、幾度となく、他の宇宙で、この黄昏の時代の到来を観測してきた。いかなる神も、いかなる文明も、この宇宙全体の法則の崩壊には、抗うことはできなかった…」
彼の言葉は、この宇宙に存在する、全ての生命、全ての物語の、避けられない「終焉」を宣告していた。
「……なんですって?」
ルナの顔から、いつもの余裕が消える。
「じゃあ、地球も? アリアたちの銀河も? お姉さんのいる世界も? みんな、このまま、消えていくだけだって言うの…?」
「…そうだ。それが、この宇宙の『宿命』なのだとしたら、我々には、もう…」
ゼノンの声には、かつて自らの世界を失った時の、あの深い無力感が、再び影を落としていた。
その、絶望的な宣告。
そして、愛する者たちを、今度こそ、本当に、どうすることもできずに失うかもしれないという、絶対的な恐怖。
ルナの心は、一度は、確かに絶望の淵へと突き落とされた。さくやアサヒくん、アリア、怜お姉さん…みんなの笑顔が、永遠に失われる。その想像が、彼女の思考を凍てつかせる。
しかし。
彼女は、月詠朔だ。
絶望の底で、彼女の思考回路は、それでもなお、解決策を探して、猛烈な速度で回転を始める。
「……ふーん。宇宙の、寿命ねぇ」
彼女は、ぷいっ、とそっぽを向くと、腕を組んだ。その声は、震えを必死に抑えているかのように、か細かった。
「でも、それって、要は、この宇宙全体の『エネルギー供給システム』が、老朽化して、ガス欠になりかけてるってことでしょ?」
「…まあ、極めて単純化すれば、そうなるな」
「じゃあ、そのエネルギー、外部から補充してあげればいいじゃない。例えば、私が、この宇宙の外側から、新しいエネルギーを引っ張ってくるとか」
「無茶を言うな! それは、宇宙の法則そのものを、根底から書き換えるに等しい行為だ! それに、それだけの偉業を成し遂げるには、君自身が、この宇宙の『新しい中心核』となり、君の存在そのものを、永遠にエネルギーとして燃やし続けなければ…!」
ゼノンは、叫んだ。それが、どれほど過酷で、そして孤独な道であるかを知っているからこそ。彼女を、そんな運命に晒したくはなかった。
「朔…! 君は、自分が何を言っているのか、分かっているのか!? それは、君という『個』が、完全に消滅することを意味するのだぞ! そして、その君の犠牲があっても、成功する保証など、どこにもない! むしろ、失敗して、大静寂は止められず、なおかつ君の魂も、宇宙の塵となる、そんな未来になる可能性の方が、遥かに高いのだぞ!」
彼の、悲痛な叫び。
だが、その言葉を聞いたルナの瞳に、ほんのわずかな、しかし確かな「光」が灯った。
「……へぇ。私が、『宇宙の核』にねぇ…」
彼女の口元に、笑みが浮かんだ。だが、それは、いつもの不敵な笑みではない。
何か、途方もない覚悟を決めた者の、静かで、そしてどこか悲しげな微笑みだった。
「……面白いじゃない。それ、やってみましょうか」
その、あまりにも静かな一言に、今度はゼノンが、絶句した。
「分かってるわよ。そんなこと」
ルナは、静かに頷いた。
「でも、他に方法がないんでしょ? このまま、みんなが、さくが、アリアが、お姉さんが…そして、あなたが、ただ消えていくのを、黙って見てるなんて、私にはできない。それだけは、絶対に嫌」
彼女は、ゼノンを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、恐怖も、迷いもない。ただ、愛する者たちを守り抜くという、絶対的な意志だけが、宿っていた。
(……私の頭の中にある『プラン』が、もし上手くいけば…私は、消えずに済むかもしれない。まあ、上手くいかなかったときは…)
彼女は、その内心を、おくびにも出さなかった。
ただ、ふっと、本当に、心の底から楽しそうに、いつものように、悪戯っぽく笑ってみせた。
「その時は、しかたないわね。でも、最高の『物語』の、最高のクライマックスだと思えば、それも、悪くはないんじゃない?」
ひとりぼっちの神様は、宇宙の終焉という、最大の「面倒事」を前に、自らの存在そのものを賭けた、最大の「お遊び」に、挑むことを決意した。
その、あまりにも気高く、そしてあまりにも「彼女らしい」覚悟を前に、ゼノンは、もはや、どんな言葉も、見つけることができなかった。