第一話:監獄惑星からの呼び出し
月詠朔――ルナ・サクヤが、自らの神としての役割を終え、普通の女の子として生き直そうと話してから、数日が過ぎた。
彼女の神域は、表面上は、相変わらず穏やかだった。テラスカフェには、ゼノンが淹れる極上の紅茶の香りが満ち、地球で青春を謳歌するさくとアサヒくんの、甘酸っぱい日常が、メインコンソールに映し出されている。
しかし、その光景を眺めるルナの心は、快晴の空に浮かぶ、一筋の雲のように、どこか晴れやかではなかった。
(……本当に、これで、よかったのかしら…)
ぽつり、と、そんな考えが浮かんでしまう。
神様をやめる。それは、確かに、自分が心の底から望んだことのはずだった。ゼノンも、その途方もない「わがまま」を、笑って受け入れてくれた。
なのに、どうしてだろう。
いざそれが現実のものとして近づいてくるにつれて、胸の奥が、ちりちりと、小さな痛みを訴えるのだ。
この、宇宙の全てを見渡し、全てに干渉できる、全能の力。
アリアや、怜お姉さんや、さくたちの、幸せそうな顔を、いつでも、どこからでも見守ることができる、この神域。
そして何より、この、途方もない孤独と引き換えに手に入れた「神」としての自分。
それら全てを、本当に、手放してしまっていいのだろうか。
「普通の女の子」になった私は、もう、アリアがGG銀河で困っていても、すぐに駆けつけてはあげられない。怜お姉さんが異世界でドジを踏んでも、こっそり助けてあげることもできない。さくの恋路に、やきもきしながら「神の采配」を振るうこともできなくなる。
そして、この、隣で静かに紅茶を飲んでいる、不器用で、優しい神様の、一番近くにいることも…。
そう思うと、決意したはずの心が、まるで砂の城のように、もろく、そして頼りなく揺らいでしまう。
「……おや、どうしたのだい、月の女神よ。せっかくの『天上のダージリン』が、冷めてしまうぞ」
隣で、ゼノンが、彼女の心の揺らぎを見透かしたかのように、優しく声をかけた。
「……別に。なんでもないわよ」
ルナは、ぷいっ、とそっぽを向いた。この、どうしようもなく女々しい、ウジウジした気持ちを、彼にだけは、知られたくなかった。
そんな、複雑な空気が流れる中、システム(シロ)からの、無機質な報告が、その沈黙を破った。
『――報告します、ルナ・サクヤ。及び、現・銀河暫定統治代行者ゼノン様』
シロの声は、いつも通りフラットだったが、その呼びかけに、ルナとゼノンの新たな関係性が、明確に示されていた。
『監獄惑星にて「神格再教育プログラム」を受けていた、旧『力ある者たちの連合』所属の神々ですが、その大部分が、プログラムの最終課程を修了いたしました。つきましては、彼らの最終的な処遇について、創設者であるルナ・サクヤ様による、最終的な『判決』を求めています』
シロが投影したホログラムには、監獄惑星で、神力を失い、しかしどこか吹っ切れたような、あるいは虚無的な表情で、黙々と畑を耕したり、宇宙植物の世話をしたりしている、かつての神々の姿が映し出されていた。
「えー…」
ルナは、その報告に、心の底から面倒くさそうな顔をした。今の、こんな気分の時に、よりにもよって。
「まだいたの、あの人たち。もう、とっくに忘れてたんだけど。私、もうすぐ『神様』は引退するのよ? ああいう、面倒くさい裁きとか、一番気分が乗らないんだけど」
彼女は、ぷいっ、とそっぽを向くと、テーブルの上の、最後の一個残っていたマカロンに、手を伸ばした。
「……ゼノン。あなた、どう思う? あなたが、今の宇宙の『責任者』なんだから、あなたが適当に、決めちゃってくれてもいいんだけど」
彼女は、ごく自然に、そして何の悪気もなく、その判断を、完全にゼノンへと丸投げしようとした。
ゼノンは、そんな彼女の、分かりやすい「現実逃避」と、その奥にある「迷い」を、全て見抜いた上で、その大きな手で、彼女の頭を、そっと、優しく撫でた。
「…おや、月の女神よ。それは、少しばかり、無責任というものではないかな?」
その声は、穏やかだったが、どこか彼女を諭すような、父親のような響きを持っていた。
「君が始めた物語だ。その結末は、君自身の手で、きちんと紡いであげるべきではないかな? それが、君が創り出した、この新しい宇宙の秩序に対する、君自身の『けじめ』というものだろう。…そして、それは、君が、何の心残りもなく、新しい人生へと旅立つための、最後の儀式にもなるはずだ」
「むぅ…」
ルナは、彼の言葉に、ぐうの音も出なかった。正論だった。そして何より、彼のその「父親」のような眼差しに、逆らうことなど、できなかった。
「それに、私も、同席させてもらうとしよう。君が、どのような『裁き』を下すのか。この宇宙の新しい神が、敗者に対し、どのような慈悲を、あるいは厳罰を示すのか。それを、特等席で見届けさせてもらいたいからね。君の、神としての、最後の仕事を」
彼の言葉には、彼女への絶対的な信頼と、そして、その決意を、最後まで見届けるという、温かい覚悟が込められていた。
「……わ、分かったわよ! 行けばいいんでしょ、行けば! まったく、あなたって、たまにすごく意地悪なんだから!」
ルナは、顔を少しだけ赤らめ、ぷんぷんとした態度で立ち上がった。
彼女の心の中の「迷い」は、まだ消えてはいない。だが、この最後の「お仕事」を、彼が見届けてくれる。その事実が、彼女の背中を、ほんの少しだけ、しかし力強く、押してくれた。
「シロ! 監獄惑星に、転移ゲートを開きなさい! そして、ドン・ヴォルガと、ディープ・エコー、それから、あの賢神とかいうのも、全員、私の前に引きずり出してきなさい! 最後の『お茶会』の、始まりよ!」
その声には、面倒くさそうな響きの中に、ほんの少しだけ、自らの「神」としての役割に、けじめをつけようとする覚悟が滲んでいた。
ひとりぼっちではない、初めての「判決」。
その先に、どんな結末が待っているのか。
彼女は、ゼノンの手を、そっと、しかし力強く握り返すと、開かれた光のゲートへと、その一歩を踏み出した。