第二話:介入者ゼノンの、苦い過ち
ルナ・サクヤの意識は、光の奔流に飲み込まれた。
目を開けると、そこはもはや静寂の図書館ではなかった。
生命の息吹に満ちた、どこまでも青く、美しい惑星。空には二つの太陽が穏やかな光を投げかけ、大地にはクリスタルのように透き通った川が流れ、ガラス細工のように繊細で、しかし機能的な未来都市が、豊かな緑と見事に調和している。
街を行き交う人々は、皆、その表情に知性と、そして穏やかな幸福を浮かべていた。彼らは、科学と芸術をこよなく愛し、互いを尊重し、日々、新しい「創造」の喜びに満ち溢れている。
惑星「アーケイディア」。
ゼノンが、かつて何よりも愛し、その守護者として君臨していた、理想郷。
そして、その記憶の中で、ルナは、若き日のゼノンの姿を見た。
今の、全てを諦観したかのような超越者ではない。ローブを脱ぎ捨て、精悍で、力強い肉体を持ち、その瞳は、未来への希望と、自らが守る民への深い愛情に満ちて輝いている。彼は、まだ「観測者」ではなく、民と共に笑い、彼らの創り出す詩や音楽に耳を傾け、時にはその強大な力で、天候を操り、豊かな実りをもたらす、活気に満ちた「介入者」だった。
彼の傍らには、いつも一人の女性がいた。
惑星最高の頭脳と称された、聡明で、そして芯の強い女性科学者、エリアーナ。彼女は、ゼノンの唯一無二の親友であり、神と人という垣根を越えて、互いの知性をぶつけ合い、この星の未来について語り合う、対等なパートナーだった。
『ゼノン、あなたの力は確かに偉大だわ。でも、それに頼りすぎては、私たちアーケイディアの民の、創造する力は育たない。あなたは、私たちを導く光であって、全てを解決する答えであってはならないのよ』
『分かっているさ、エリアーナ。だが、君たちのその脆く、儚い輝きを見ていると、つい、手を差し伸べたくなってしまうのだ。私が、守ってやりたい、と』
二人の間には、恋愛とは違う、しかし、それ以上に深く、そして純粋な信頼の絆が結ばれていた。
だが、その楽園の日常は、突如として終わりを告げる。
宇宙の深淵から、一つの「悪意」が、アーケイディアにその食指を伸ばしたのだ。
それは、ドン・ヴォルガのような、力で支配しようとする神。その名は、虚無の王「モルゴス」。彼は、アーケイディアの民が持つ、豊かな精神エネルギーと、その高度な文明を、自らの力とするために、この星を侵略し始めた。
モルゴスの軍勢――「虚無の軍団」と呼ばれる、精神を持たない生体兵器――が、空から降り注ぎ、美しい都市を蹂躙していく。平和しか知らなかったアーケイディアの民は、なすすべもなく、その暴力の前に倒れていった。
エリアーナをはじめとする科学者たちは、必死に防衛兵器を開発し、抵抗を試みる。だが、悪意と破壊に特化したモルゴスの軍勢の前には、あまりにも無力だった。
人々の幸福な歌声は、絶望の悲鳴へと変わっていく。
『ゼノン…! お願い、助けて…! このままでは、アーケイディアが…私たちの世界が、終わってしまう…!』
エリアーナが、涙ながらに、ゼノンに助けを求めた。
ゼノンは、苦悩した。
介入すれば、自分が守ってきた民の「自主性」を奪うことになる。だが、このまま見過ごせば、全てが失われる。
そして、彼は決断した。
愛する民と、そして何よりも、エリアーナの涙を、これ以上見ることに耐えられなかったのだ。
「――私が、全てを終わらせる」
ゼノンは、守護神として、その本来の、宇宙の法則すら捻じ曲げるほどの、絶大な力を解放した。
彼の全身から放たれた純粋なエネルギーの奔流は、天を覆い尽くしていた虚無の軍団を、一瞬にして、塵一つ残さず消滅させた。
アーケイディアの民は、空が晴れ渡っていく光景を見て、歓声を上げた。ゼノンが、我らを救ってくれた、と。
だが、その歓声は、すぐに絶叫へと変わった。
ゼノンが、悪神モルゴスを滅ぼすために放った力は、あまりにも強大すぎたのだ。
彼の心は、民を傷つけられた怒りと、友を救いたいという焦りで、冷静さを欠いていた。
力の加減を、彼は、ほんのわずかに、しかし致命的に、誤ってしまった。
ゼノンの一撃は、確かに敵を滅ぼした。だが、その力の余波は、アーケイディアの、あまりにも繊細で、完璧に調和していた惑星環境のバランスそのものを、根底から破壊し始めた。
地殻は、そのエネルギーに耐えきれずに裂け、マグマが噴き出す。大気は、高熱で燃え上がり、有毒な嵐が吹き荒れる。海は、一瞬にして蒸発し、白い塩の大地だけが残った。
ルナは、その絶望的な光景を、ゼノンの心を、自らのことのように、追体験していた。
守りたかった。ただ、それだけだったのに。
愛する者たちが、今、目の前で、自らが放った力の余波によって、次々と消えていく。
ゼノンが最後に見たのは、崩れゆく研究所の中で、こちらを見つめるエリアーナの姿だった。
瓦礫に囲まれ、その体も光の粒子となって消えかかっている。
だが、彼女の瞳には、ゼノンへの非難や、恐怖の色は、一切なかった。
そこに宿っていたのは、ただ、深い、深い悲しみ。そして、彼への、変わることのない、絶対的な信頼と愛情だけだった。
彼女は、全てを理解していた。ゼノンが、自分たちを救うために、どれほどの覚悟で力を振るったのかを。そして、その結果、彼が、これからどれほどの罪悪感と孤独を背負うことになるのかを。
彼女の唇が、声にならない囁きを、かすかに紡いだ。
その言葉は、ルナの、そしてゼノンの魂に、直接響いた。
『……ゼノン…泣かないで…。あなたのせいじゃ、ないわ…。ただ…もう、あなたと…話せなくなるのが…寂しい…だけ…』
そして、彼女は、最後に、穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、光の粒子となって、完全に、消滅した。
守りたかった。ただ、それだけだったのに。
愛する者たちを、自らの手で、滅ぼしてしまった。そして、最後に残されたのは、自分を責めることすらしなかった、友からの、あまりにも優しすぎる、別れの言葉。
その、筆舌に尽くしがたいほどの罪悪感と、永遠に続くかのような、魂が凍てつくほどの喪失感。
ルナの意識が、現実へと引き戻される。
目の前には、ただ、静かに佇む、漆黒のローブの超越者の姿があるだけだった。
だが、今の彼女には、その影の奥に、何十億年もの間、癒えることのない傷を抱え、たった一人で、永遠の孤独に耐え続けてきた、一人の「神」の、悲痛な魂の慟哭が、はっきりと聞こえていた。