第一話:深淵の図書館と、開かずの書
第十二章 深淵の神の追憶
第一話:深淵の図書館と、開かずの書
天下一冒険者大会が、地球と月の女神に、新たな熱狂と、そしてほんの少しの甘酸っぱい思い出を残して閉幕してから、数週間が過ぎた。
ルナ・サクヤの「神域」には、以前にも増して穏やかな、しかしどこか満ち足りた空気が流れていた。さくとアサヒくんの恋の行方は、あの一件以来、順調すぎるほどに進展しており、ルナの精神的恒常性は、極めて高いレベルで安定している。
その結果、彼女の尽きることのない好奇心と「お遊び心」は、再び、より広大で、より深遠な対象へと向けられていた。
その対象とは、もちろん、彼女の神域に、いつの間にか当たり前のようにティーカップを片手に現れるようになった、あの漆黒のローブの超越者――ゼノンである。
「ねえ、ゼノン。あなたのその神域って、一体どうなってるの? いつもあなたはこっちに来てばかりで、不公平じゃないかしら。たまには、私をあなたの『お城』に招待してくれてもいいんじゃない?」
神域の草原に広がるテラスカフェ。ルナは、ゼノンが「お土産」と称して持ってきた、銀河の果てでしか採れないという「夢見の実」のタルトを頬張りながら、いつものように、悪戯っぽい上目遣いで彼にねだった。
ゼノンは、そのあまりにも無防備で、可愛らしい要求に、影の奥で、深い笑みを浮かべた。
「おや、私の『城』に、ご興味がおありかな、月の女神よ。…ふむ。いいだろう。君ほどの淑女からのお願いを、無粋に断る紳士はいないからね。ただし、私の城は、君が想像するような、華やかな場所ではないかもしれぬが」
その言葉と共に、ゼノンが指を鳴らす。
次の瞬間、ルナの目の前に広がる穏やかな草原の風景が、まるで水面に広がる波紋のように揺らぎ、そして、全く別の光景へと変貌した。
そこは、無限に、どこまでも広がる、静寂に満ちた巨大な図書館だった。
天井という概念はなく、代わりに、宇宙の星々そのものが、柔らかな光を放つシャンデリアのように輝いている。書架は、磨き上げられた黒曜石でできており、天の川銀河の星の数よりも多いであろう、光り輝く無数の「本」が、整然と、しかしどこか寂しげに並んでいた。
一本一本の書架が、一つの銀河の歴史。一冊一冊の本が、一つの星の、一つの文明の「物語」。
ルナは、そのあまりにも荘厳で、しかしどこか物悲しい光景に、思わず息を飲んだ。
「ようこそ、我が神域――『深淵の図書館』へ」
ゼノンの、静かで深い声が、無限の書架の間に響き渡った。
「ここは、私が、永遠という時間の中で観測し続けてきた、ありとあらゆる『物語』の記録庫。君が望むなら、どんな物語でも、ここで読むことができる」
「……すごい…」
ルナは、ただ、そう呟くことしかできなかった。
彼女は、持ち前の好奇心に導かれるまま、ふわりと宙に浮かび、書架の間を漂い始めた。
ある本に手を伸ばせば、機械生命体が神を目指し、やがて自ら滅びゆく、壮大なSF叙事詩が。
また別の本を開けば、剣と魔法の王道ファンタジー世界で、勇者と魔王が、幾度となく愛と憎しみの輪廻を繰り返す、切ない恋物語が、彼女の意識に流れ込んでくる。
その全てが、面白く、刺激的で、そして、どこか儚かった。
だが、どれほどの物語に触れても、彼女の心の片隅には、一つの疑問が残り続けていた。
(…でも、どうして、彼は『観測者』でい続けるの? これだけの力があるなら、悲劇に終わる物語を、救ってあげることだってできるはずなのに…)
そんなことを考えながら、図書館の最も奥深く、他のどの書架よりもひときわ大きく、そして異質な気配を放つ一角へと、彼女はたどり着いた。
そこには、たった一冊だけ、漆黒の鎖と、複雑な光の紋様で、幾重にも、これでもかというほど厳重に封印された「本」が、静かに鎮座していた。
それは、まるで「決して誰にも触れさせてはならない」と、本自身が叫んでいるかのようだった。
「開かずの書」。
「…ゼノン。これは、何の物語?」
ルナが、その本を指さしながら、静かに問いかけた。
その瞬間、ゼノンの気配が、初めて明確に、そして激しく揺らいだ。彼の周囲の空間が、ほんのわずかに、しかし確実に歪む。
「…………それだけは」
彼の声は、いつもの余裕を失い、深く、そして押し殺したような響きを帯びていた。
「それだけは、触れてはならない。…それは、私が、この手で葬り去った、唯一の物語。私の、拭い去ることのできない、罪の記録なのだから」
制止。
だが、その、あまりにも苦しげな響きは、逆に、ルナの心を強く、そして抗いがたいほどに引きつけた。
あなたの、罪? あなたが、物語を、葬った?
知りたい。
あなたのその、深い孤独の根源に、触れてみたい。
「あなたの罪…? 面白いじゃない」
ルナは、振り返り、ゼノンを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、子供のような無邪気さと、そして、神としての、全てを受け入れる覚悟の光が宿っていた。
「私に、それを見せなさいな、ゼノン。あなたの全てを、私は知りたい」
彼女は、ゼノンの静止を、その優しい瞳で振り切り、そして、禁断の「開かずの書」に、そっと、その小さな手を触れた。
その瞬間、ゼノンの、悲痛な、しかしどこか諦めたような、ため息が聞こえたような気がした。
そして、ルナの意識は、本のページが開かれると共に、光の奔流に飲み込まれ、遥か彼方の、古の記憶の深淵へと、引きずり込まれていった。