第四話:君を護る、ただそれだけのために
「な…なんだ、ここは…!?」
アサヒくんは、目の前に広がる、あまりにもおぞましい光景に、息をのんだ。空は、まるで割れたガラスのように、無数の亀裂が走り、そこから紫色の不吉な光が漏れ出している。大地は、腐った泥のようにぬかるみ、生命の気配はどこにもない。先ほどまでの、歓声に満ちたアリーナとは、何もかもが違いすぎていた。
「アサヒ…先輩…こわい…」
隣で、さくが、震える声で呟いた。その小さな手は、アサヒくんの制服の裾を、固く、固く握りしめている。
アサヒくんは、彼女の恐怖を感じ取り、そして、自らの心の中にある恐怖を、ぐっと押し殺した。
(しっかりしろ、俺! 俺が怖がってどうする! さくちゃんを、俺が守らなければ…!)
その時、二人の目の前、空間の歪みの中心から、ぬるり、と「それ」は姿を現した。
物理的な形を持たない、ただの、揺らめく影。だが、その影から放たれる、絶対的な「無」の圧力は、二人の魂を直接、そして根源から凍てつかせるかのようだった。
異次元の捕食生命体――「次元喰い」。
それは、この宇宙のいかなる生物とも異なる、法則の外にある存在。
次元喰いは、その不定形の体を揺らめかせると、ゆっくりと、しかし確実に、二人の方へと向き直った。いや、正確には、さくの方へと。
その純粋で、そして強大な魂の光は、次元喰いにとって、極上の「ご馳走」に見えたのだろう。
「さくちゃん、逃げるんだ!」
アサヒくんは、本能的な恐怖に駆られ、絶叫した。さくの手を掴み、この悪夢のような場所から、一刻も早く離れようとする。
だが、さくの足は、まるで大地に根が生えたかのように、動かない。蛇に睨まれた蛙のように、その場に縫い付けられ、ただ、迫りくる「無」の恐怖に、震えることしかできなかった。
アサヒくんの脳裏に、数々の考えが、高速で駆け巡る。
逃げる? どこへ? この空間に出口はあるのか?
戦う? 何で? 自分の持っている、この何の力もない拳で?
助けを呼ぶ? 誰に? ここに、自分たちの声が届くのか?
絶望。
圧倒的な、絶望。
だが、その絶望的な思考の果てに。
彼の心の中に、揺るぎない、そして燃えるような想いが、浮かび上がった。
もしここで逃げ出して、自分だけが助かったとして、さくちゃんに何かがあったら、俺は絶対に後悔する。一生、自分を許せないだろう。
それだけは、絶対に嫌だ。
彼は、さくの手を、そっと離した。
そして、くるりと振り返ると、彼女の前に、立ちはだかった。
その背中は、まだ、大人と呼ぶにはあまりにも頼りない。だが、その背中には、愛おしい者を守り抜くという、鋼の意志が宿っていた。
彼は、足元に転がっていた、ただの石ころを一つ、拾い上げた。それが、今の彼が持つ、唯一の「武器」。
「来るな…!」
アサヒくんは、震える声を、必死で奮い立たせ、叫んだ。
「お前が、何者かは知らない…! でも…!」
彼は、石ころを握る手に、血が滲むほど、力を込めた。
「――さくちゃんには…指一本、触れさせるかぁっ!!!!」
それは、あまりにも無謀で、あまりにも無力な、しかし、何よりも気高い、魂からの咆哮。
次元喰いは、そんな彼の存在など、まるで道端の小石ほどにも意に介さず、その見えない、存在を喰らう触手を、ゆっくりと、彼へと伸ばした。
「アサヒくんっ!!!!」
さくの、悲痛な絶叫が、歪んだ空間に響き渡った。
アサヒくんの体が、見えない力に打ち据えられ、くの字に折れ曲がる。
ごふっ、と、彼の口から、赤い血の塊が、鮮やかに宙を舞った。
そして、彼の体は、まるで糸の切れた操り人形のように、力なく、地面へと崩れ落ちていった。
意識が、急速に、遠のいていく。
「い…い!い!いぃぃいいやああぁぁああ!!」
さくは、目の前で起きた光景を、認めたくなかった。信じたくなかった。
血の気の引いた、真っ白な顔で、動かなくなったアサヒくんに駆け寄る。
その冷たくなっていく手を、震える両手で握りしめる。
「いやだ…! いやだっ! 死なないで、アサヒくん! 」
涙が、ぽろぽろと、彼の蒼白な頬に、こぼれ落ちる。
大切な人を、自分のせいで、失ってしまうかもしれない。
その、耐え難いほどの恐怖と絶望。
彼女の脳裏に、かつて炎の中で失った、あの孤児院の「家族」の顔が、フラッシュバックする。
あの時も、自分は、何もできなかった。ただ、見ていることしか。
もう、二度と、あんな思いはしたくない。
もう、誰も、失いたくない。
「ぐぅうぅ…」
彼女の喉から、嗚咽が漏れる。
そして、その嗚咽は、やがて、魂そのものが張り裂けるような、絶叫へと変わった。
「た・・たすけてっ!たすけぇてっ!!!!」
その声は、誰かに向けたものではない。自分自身に向けた、必死の祈り。
そして、心の奥底で、彼女は叫んでいた。
(お、おねえさま(わたし)っ!)
その慟哭は、時空を超え、次元を超え、遥か彼方の「神域」にいる、もう一人の自分の、存在の核を、直接、そして強烈に、揺さぶった。
祭りの前の、甘酸っぱい時間は、今、絶望の悲鳴と共に、終わりを告げようとしていた。