第五話:林間学校はドキドキの香り
【月詠朔:神域】
「……もうっ! じれったいわね!」
ルナ・サクヤは、神域の玉座で、巨大なクッションを抱きしめながら、足をバタバタさせていた。
「このままじゃ、私の精神的恒常性が保てないわ! こうなったら…私が、最高の『イベント』を創造してあげる!」
業を煮やした彼女は、壮大な職権濫用による「林間学校計画」を、強引に、そして秘密裏に始動させた。
【深淵の観測所:ゼノンの玉座】
その一部始終を「観測」していたゼノンは、楽しげな笑みを浮かべた。
(…なんと初々しく、そして危なっかしい手際だろうか。これでは、最高の『物語』は紡げまい)
彼は、愛らしい月の女神の「推し活」を、さらに上の次元で「プロデュース」することを、静かに決意した。
ここに、ルナには内緒の「さくちゃん恋愛成就・超銀河タッグ」が、秘密裏に結成された。
【ファンタジーゾーン:キラキラ湖畔キャンプ場】
数日後。林間学校は、CSとゼノンの完璧すぎる連携による「お膳立て」の連続だった。
カレー作りで「偶然」二人きりになり、肝試しで「偶然」はぐれてロマンチックな空間に迷い込む。
そして、クライマックスは、キャンプファイヤーでのフォークダンス。
ついに、さくとアサヒくんが手を取り合う瞬間が訪れた。二人の手が、そっと触れ合う。お互いの顔が、燃え盛る炎に照らされて、赤く染まる。
その最高の瞬間に、ゼノンが最後の「魔法」をかける。夜空には、壮大な流星群が広がっていた。
言葉を失い、ただ夜空を見上げる二人。その繋がれた手のひらが、ほんの少しだけ、熱を帯びたように感じられた。
【月詠朔:神域(旧六畳間)】
「……きれい…」
神域で、その一部始終を観測していたルナ・サクヤもまた、そのあまりにも美しい光景に、思わず見とれていた。
彼女の傍らには、いつの間にか、漆黒のローブを纏ったゼノンが、音もなく現れていた。
「私のささやかな『演出』、気に入っていただけたかな、月の女神よ」
ゼノンの、すぐ隣から聞こえる、低く、そして楽しげな声に、ルナはハッと我に返った。
「ぜ、ゼノン!? い、いつの間に…! 勝手に私の神域に入ってこないでくれる!?」
「おや、これは失礼。君があまりにも熱心に『観劇』していたものだから、つい、ね」
ゼノンは、悪びれる様子もなく、ルナの隣に立ち、眼下のキャンプ場を見下ろしている。
ルナが、何か文句を言おうとした、その時だった。
キャンプファイヤーの喧騒から、少しだけ離れた場所。
一人の男子生徒が、アサヒくんの友人に話しかけている光景を、ルナの「神の視界」は捉えてしまった。
「おい、アサヒのやつ、月詠さんのこと、本気なのかね?」
「みたいだな。でも、月詠さんって、小野寺さんのとこの養子だろ? なんか、色々複雑な事情があるって噂だし、アサヒの親父さん、結構厳しい人みたいだよね…」
――その、何気ない一言が、ルナの心に、冷たい棘のように突き刺さった。
さっきまでの高揚感が、急速に萎んでいく。
そうだ。さくは、普通の女の子じゃない。私の分身。そして、小野寺さんの「養子」。
その出自が、もし、あの子の幸せの「障害」になってしまったら? 私が、良かれと思って創り出したこの状況が、逆にあの子を苦めることになったら?
(私のせいで…さくが…あの子が、普通の幸せを掴めなかったら…どうしよう…)
自己嫌悪と、絶望的なまでの不安が、彼女の思考を支配する。彼女は、その場に、くしゃりとしゃがみ込み、俯いて、イジイジと指先を弄び始めた。
「…おや? どうかしたのかね、月の女神よ。先ほどまでの威勢はどこへやら」
ゼノンが、その小さな背中に、優しく声をかけた。
(私のせいで…あの子が…もし、あの子が、私のせいで、傷つくことになったら…私……)
ルナは、俯いたまま、声にならない声で呟いていた。
その、あまりにも人間的で、そして健気な悩みに、ゼノンは、その影に覆われた口元に、深い、深い慈愛の笑みを浮かべた。
彼は、そっと、しゃがみ込んでいるルナの隣に膝をつくと、その大きな手を、彼女の小さな肩に、優しく置いた。
「…大丈夫」
ゼノンの声は、どこまでも穏やかだった。「君のせいで、あの子が不幸になることなど、決してない。なぜなら、君が、誰よりもあの子の幸せを願っているからだ。その想いは、必ず届く。そして、もし、本当にどうしようもない『壁』が立ちはだかるというのなら…」
彼は、ルナの頭を、そっと、優しく、撫でた。
「その時は、この私が、君の代わりに、宇宙の理を変えでも叶えて差し上げよう。君は、ただ、あの子たちの幸せな物語を、笑顔で見守っていればいい」
その、あまりにも力強く、そして優しい言葉。そして、頭を撫でられる、大きな手の、温かい感触。
それは、ルナが、生まれて初めて経験する、絶対的な「安心感」だった。
「……ん…」
彼女は、無意識のうちに、ゼノンの手に、自分の頭をすり寄せていた。
そして、ハッと我に返った。
(ん? んんんっ!?)
(な、なななな、なんで私、このジジイに、頭なでなでされて、しかも、ちょっと気持ちいいとか思っちゃってるのよーっ!?)
自責の念は、一瞬にして、キャパシティオーバーのパニックへと変わった。
「な、なによっ! 離しなさいよ!」
ルナは、顔を真っ赤にしながら、ぐいぃぃい!っと、その小さな両手で、ゼノンの巨大な胸板を力一杯押し付け、強引に距離を取った。
「な、なにしてるのよ! 私はそんな許可なんてしてないし! てっ、手順とか、そういうことするには順番があるというか、いや、そうじゃなくて、良いって言ってないでしょ…! あー、それは、私が許可すればいいってことじゃなくて、もう! とにかく却下よ!」
しどろもどろになりながら、彼女は叫んだ。
「あなたは、私が落ち着くまで、そこに座ってなさい! そこよ、そこ! 動くんじゃないわよ! …シロも笑ってないで、ちゃんと監視してなさい!」
自分の失言に愕然としながらも、後に引けなくなったルナ。
そんな彼女の葛藤など、どこ吹く風。ゼノンは、彼女が指差した空間に、優雅なアンティーク調の椅子を「創造」すると、余裕綽々の様子で、そこに深く腰掛けた。
「ふむ。では、お言葉に甘えて、少し休憩させていただこうか。そうだ、月の女神よ。ちょうど、私の故郷の星系で最近流行している、とびきり美味しい『星屑のミルフィーユ』と、それに合う『銀河の雫』という紅茶があるのだが…ご一緒など、いかがかな?」
ゼノンが指を鳴らすと、二人の間に、小さなテーブルと、宝石のように輝くミルフィーユと、芳醇な香りを漂わせる紅茶のセットが、音もなく現れた。
「なっ…!?」
(…!!? そ...そのミルフィーユ、めちゃくちゃ美味しそう…!)
ルナは、怒りも、羞恥心も、目の前の極上のスイーツを前に霧散させたらしい。まだまだ、花より団子のようだ。
「……べ、別に、あなたのケーキが食べたいわけじゃないんだからね。ただ、その…あなたが、変なことをしないか、監視してあげるだけよ…」
ルナは、おずおずと、しかし素直に、テーブルの前に座った。
そして、差し出されたミルフィーユを、ぱく、と一口。
「ん!? んん~~~♪」
その、あまりにも幸せそうな、無防備な表情を、ゼノンは、心の底から愛おしそうに、そして満足げに、見つめていた。
その視線に、ルナはハッと気づく。そして一瞬の硬直。
「ぼんっ!」という、小さな爆発音にも似た音と共に、彼女は、顔を真っ赤にして、がたっ!と椅子から立ちあがって、左手であわててフード(どこから出した?)をかぶりながらゼノンをプルプル震える右手で指さして・・・・
「な、ななな、何見てるのよーーーーーっ! もう、どっか行ってなさい、この朴念仁ーーーーっ!!」
神域全体に、彼女の絶叫にも似た声だけが響き渡る。
後に残されたのは、一口だけかじられた、極上のミルフィーユと、そして、小さな女神の可愛らしいパニックを思い出し、深淵の玉座で、一人、静かに、そして幸せそうに微笑む、古の神の姿だけだった。