其の三:酒場の天井は、私の特等席
「――うおりゃあぁぁーーっ!!」
麻袋の中で、私は心の中で絶叫した。
ミシミシッ、という嫌な音と共に、私を閉じ込めていた魔石が、ついに限界を超えて砕け散る!
ガシャン!という派手な音と、麻袋から漏れ出す淡い光。その異常事態に、近くでジャガイモの皮を剥いていた厨房の若い衆が、ひっくり返るように驚き、悲鳴を上げた。
「ひいっ! 魔石が爆発したぞ!」
「なんだなんだ!?」
「呪いの魔石だ! 女将さーん!」
厨房内が、一瞬にして蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。皿を落とす音、怒鳴り声、そして悲鳴。
その大混乱に乗じて、私は光の粒子となって麻袋の網目をすり抜け、薄暗い倉庫のような場所へと飛び出した。
だが、自由も束の間、存在が極度に希薄になっているのを感じる。気体のように、意識が拡散していく。
(やばい…このままじゃ消える…)
ふらふらと、頼りなく漂いながら、なんとか倉庫の扉の隙間から、人の往来のあるホールへと流れ着いた。
そこは、冒険者や商人らしき人々で賑わっていた。酒の匂い、汗の匂い、そして人々の熱気。その全てが、今の私にとっては、自らの存在をかき消さんとする、危険な渦のように感じられた。
(だめ…人の気配が多すぎて…吸われちゃう…!)
私の希薄な存在は、人々の熱気や生命力に引かれ、霧散しかけていた。
ふわり、と近くを通りかかった、屈強なドワーフの戦士が、豪快にエールを飲み干し、「ぷはーっ!」と満足げな息を吐いた。その力強い呼気と共に、私の存在の一部が、彼の豊かな髭の中に吸い込まれそうになった。
(ひぃっ! むさ苦しいのは嫌ーっ! しかもお酒臭い!)
必死の思いでそこから離れると、今度は、カウンターで優雅にワインを傾けている、銀髪の、いかにも訳ありなイケメンエルフのお兄さんの、その綺麗な形の鼻先へと、ふわりと吸い寄せられてしまった。
彼が、ふぅ、と静かに息を吐く。その息と共に、私の意識の欠片が、彼の肺の中へと……!
(あ……! ああああああっ!?)
ドクンッ!と、私の中に、ありえないほどの衝撃が走る。
(す、吸われた! 私の一部が、このイケメンに吸われた! ...か、彼なら、まぁ、いいかも......)
それは、恐怖であると同時に、なぜか胸の奥がキュンとするような、訳の分からない感覚だった。ミントのような爽やかで高貴な魔力のが、彼の呼気からも感じられる。
(って、ドキドキしてる場合じゃない!そうじゃな〜い!このままじゃ、私、このイ-ケメンお兄さんに吸いつくされて、彼の体内で分解・吸収されて、彼の美しさの一部になってしまう! ...それはそれで...悪くないかもしれない...わけないって!冷静になれ、私っ!! 私のアイデンティティのピンチだってば!)
私は、生存本能と、ほんの少しの乙女心がせめぎ合う中、必死で彼から離れた。死活問題なのだ。
思うように意識体をコントロールできず、私はまるで煙のように、ゆっくりと上昇していく。
幸い、このお店は吹き抜けになっていて、天井がかなり高いようだ。梁がむき出しになった、趣のある造り。私は、その一番高い梁のあたりに、なんとかしがみつくようにして漂い、ひとまずの安全を確保した。
眼下には、先ほどのイケメンエルフや、騒がしいドワーフたちが、米粒のように小さく見える。
(ふぅ…助かった…。でも、あの天井でゆっくり回ってる大きな扇風機みたいなやつ、あれに巻き込まれたら、ひとたまりもないわね…気をつけないと)
この天井裏の特等席(仮)から、私はしばし、この異世界の日常を観察することにした。
まずは、情報収集だ。
眼下のテーブルでは、様々な種族の冒険者たちが、今日の戦果を自慢し合っている。
「見たかよ、俺の新しい剣技! あのオークのリーダーの首、一撃だぜ!」
「うるさいわね、筋肉ダルマ。あなたのせいで、森の薬草が何本踏み潰されたと思ってるのよ!」
「まあまあ、二人とも。それより、ギルドの新しい依頼、見たかい?『彷徨える森の古代遺跡』の調査依頼だ。なんでも、最深部には『賢者の石』が眠っているとか…」
(オーク! 薬草! ギルドに古代遺跡! まるで、ゲームの世界そのものじゃない!)
私の心は、少しだけワクワクしてきた。
カウンターでは、先ほどのイケメンエルフが、店の主人と何やら密談している。
「…例の『闇の一族』の動きは、依然として掴めぬか。奴らが、この街の『龍の涙』を狙っているのは間違いないのだが…」
「ええ。ですが、彼らの隠密能力は我々の想像以上です、アルド様。街の警備隊だけでは、いずれ…」
(闇の一族? 龍の涙? なんだか物騒な話ね…。それに、あのイケメン、アルド様っていうんだ。やっぱり、ただ者じゃなさそうだわ)
壁に貼り出された手配書には、凶悪な犯罪者や、危険な魔物の絵姿が描かれている。賞金額も、私のいた世界の感覚では天文学的な数字だ。
そして、人々の会話の端々から、この世界の地理や、通貨の単位、そして今、この国が隣国と緊張状態にあることなどが、断片的に聞こえてくる。
ここは、「アストリア王国」の、国境に近い街「クロスロード」。なるほど、だから色々な種族の人間が集まっているのか。
(…なるほどね。剣と魔法があって、魔物がいて、ギルドがあって…典型的なファンタジー世界ってわけだ。そして、私は、そんな世界で、か弱い魔力体として生きていかなきゃいけない、と)
改めて、自分の置かれた状況の過酷さを実感する。
そして、それと同時に、強烈な空腹感…いや、「エネルギー欠乏感」が、再び私を襲い始めた。
このままじゃ、本当に消えてしまう。
(何か…何か、エネルギーを補給できるものは…)
なんとか厨房を抜け出し、人の往来のあるホールへと流れ着いた。
木のテーブルと椅子が並び、大勢の客が食事をしたり、酒を酌み交わしたりしている。
壁際には大きな窓があり、そこから柔らかい陽光が差し込んでいるのが、ぼんやりとした意識の中でも「感じられた」。
(あ……ひかり……あったかい……あ、あそこ、良さそうです……)
まるで何かに引き寄せられるように、私はふらふらとその窓際へと漂っていく。
そこに置かれた大きな鉢植えの観葉植物が、ぼやけた意識の中に映る。青々とした葉が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いているように「感じる」。そこから、微弱ながらも「何か」が発せられている。ような気がする。
(ここなら……少しは……マシかも……?)
本能的に、その植物に近づいた。
植物が放つ生命の息吹のようなものが、じわじわと、か細く弱りきった私の中に流れ込んでくるような気がした。
それは、まるで薄まりきったインクに、ほんの少しだけ濃い原液が一滴、また一滴と加えられていくような、確かな感覚。
(く、ふうぅ...あ……あぁ……しみる〜……!)
ほんの少しだけ、意識がはっきりとしてくる。
先ほどまでの強烈な消耗感と、自分が拡散していく恐怖が、少しずつ和らいでいくのを感じる。
失いかけていた自分の輪郭が、ほんの少しだけ、取り戻せたような気がする。もっと、もっと欲しい。
しばらく、その心地よいエネルギーの「吸収」に夢中になっていた、その時だった。
(……ん? あれ……なんだか……流れ込んでくるのが……薄くなってきた……?)
さっきまで青々としていたはずの葉が、急速に色を失い、カサカサとした質感に変わっていくのが「わかる」。
まるで、内包していたエネルギーを根こそぎ吸い取られたかのように。
その瞬間、近くを通りかかった宿の若い女性店員が、枯れた観葉植物を見て目を見開いた。
「きゃっ! 大変! アナスタシアおば様の大事な『幸運の木』が! 昨日まであんなに元気だったのに、どうして……?!」
店員は顔面蒼白で、今にも泣き出しそうな顔で枯れた植物を揺すっている。
(うわっ! しなびたっ?! まじか!……でも、おかげで少しマシになった)
驚きはしたが、罪悪感は微塵もなかった。むしろ、拡散しかけていた自分が少し凝縮されたことで、思考がクリアになっていくのを感じる。
そうか、私はこうやって周囲のエネルギーを「吸収」して、自分の存在を維持するのか。魔石の中で一方的に吸い取られるのはごめんだけど、こうやって自分で必要な分を「吸収」するのは、生きるための当然の権利だ。
ん〜?でも、おっさんとかからは、貰えそうになかったよね。そういうものなのかな?
「だ、誰かー! 大変ですー!」
店員が半狂乱で叫び始めた。
(やっば! ここはもう用済みっ、退散〜!)
今はまだ力が足りない。こんなところで騒がれて捕まるわけにはいかない。
私はパニックになりつつも冷静に判断し、店員の視線が枯れた植物に集中している隙に、その場からふわりと離脱した。
どこか、どこか静かで人のいない場所に……!