第七話:絶望の淵と一条の光
最後のラビット・ホーンが赤い染みへと変わったのを確認し、朔はようやくライフルの引き金から指を離した。
スコープ越しに見える街は、依然として混乱の余韻を残してはいたものの、少なくとも新たな脅威の出現は止まったようだった。
窓の外からは、遠くに絶え間なく響くパトカーや救急車のサイレンの音が、緊迫した状況を物語っていた。
(……終わった、か)
朔は、短く息を吐き、ライフルを慎重に分解し始めた。
指先は微かに震えていたが、それは恐怖からではなく、極度の集中と連続的な精密作業による疲労からだった。
アタッシュケースに手際よく装備を収納し終えると、ずっしりとした疲労感が全身を襲ってきた。特に、連続で引き金を引いていた右手の指と、スコープを覗き込んでいた左目には、鈍い痛みが残っている。
周囲の気配を慎重に探り、誰もいないことを確認してから、朔は静かにその場を離れた。
来た時と同じように、非常階段を使い、人目を避けてビルを出る。
帰路も、もちろん人気のない路地を選んで。
自室のマンションに戻り、703号室のドアを開けた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたかのように、朔はその場に崩れ落ちそうになった。
なんとか踏みとどまり、ふらつく足取りでベッドに倒れ込む。
スーツを脱ぐ気力もなく、ただ泥のように深い眠りに引きずり込まれていった。
次に朔が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、部屋の埃をキラキラと照らしている。
体はまだ鉛のように重いが、昨日の戦闘直後のような激しい疲労感は多少和らいでいた。
のろのろと起き上がり、まずはシャワーを浴びる。
温かい湯が、凝り固まった筋肉を少しずつ解きほぐしていくのを感じながら、朔は昨日の出来事を反芻していた。
角の生えたラビット。その圧倒的な数。そして、自分の行った「殲滅」。
空から降り注いだ、黒い血の雨。
(……私、また、やったのか)
実感は、まだ薄い。
まるで、どこか遠い世界の出来事を見ているような、あるいは、自分が操作するゲームのキャラクターが成し遂げたことのような、そんな奇妙な乖離感があった。
シャワーを終え、着替えてから、いつものようにノートパソコンを開く。
ネット上は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
昨日の「第二次ラビット襲撃」――いや、もはや「第二次大襲撃」と呼ぶべき規模のそれは、日本各地、いや世界各地に未曾有の被害をもたらしていた。
画面には、破壊された街並み、炎上する建物、そして、おびただしい数の負傷者や、ブルーシートで覆われた亡骸の映像が、これでもかと映し出されている。
ツノを持つラビット・ホーンの攻撃は、前回の比ではなく、その突進は容易に人体を貫き、車両を横転させた。国民の半数近くが何らかの形で負傷し、重傷者や死者の数は、控えめに見積もっても国家の存亡に関わるレベルに達しているのではないか、という絶望的な観測が飛び交っていた。
『もうダメだ……日本は終わる……』
『助けて!誰か助けて!病院はパンクしてる!薬もない!』
『うちの家族が……うわあああん!』
『神も仏もないのか!こんなの、あんまりだ!』
悲痛な叫び、絶望の声、怒り、そして諦め。
匿名掲示板もSNSも、そうした負の感情で埋め尽くされている。
政府の発表する被害状況は、明らかに実態よりも過小評価されていると誰もが感じており、その不信感がさらにパニックを助長していた。
そんな絶望的な状況の中で、しかし、ほんの一筋の光として語られ始めた存在があった。
それは、「ヒーラー」あるいは「聖女」と呼ばれる、回復系の能力に目覚めた人々だった。
『△△病院で、女の子が手をかざしたら、瀕死の重傷者がみるみる回復したって!』
『うちの近所の教会に、奇跡の力を持つ神父様がいるらしい!触れるだけで怪我が治るって!』
『嘘だろ……そんなファンタジーみたいな話……でも、もし本当なら……!』
『お願い!ヒーラーさん、こっちにも来て!助けてください!』
まだ数は少なく、その能力も未知数な部分が多いが、絶望の淵に立たされた人々にとって、彼らは最後の希望だった。
戦闘系の能力者が注目された前回とは異なり、今回は、命を繋ぎ止める「癒やしの力」を持つ者が、何よりも渇望されていた。
ネット上には、各地のヒーラーの目撃情報や噂が瞬く間に拡散され、彼らの元には助けを求める人々が殺到しているという。
朔は、そうした情報を、ただ黙って画面越しに見つめていた。
自分の行った戦闘のことなど、この世界全体の巨大な悲劇の前では、取るに足らない些事のように思えた。
彼女が守った(あるいは、結果的に守ることになった)エリアの被害が、他の地域に比べて相対的に少なかったとしても、それは膨大な犠牲者全体の数から見れば、誤差の範囲でしかないのかもしれない。
少なくとも、今の段階で、特定の地域の被害が「不自然に少ない」などと気づく者はいないだろう。誰もが、自分の身の回りの悲劇と、目の前の絶望に対処することで精一杯なのだから。
(……回復系の能力、か)
朔の脳裏に、ふと、あの「システム」から与えられた装備強化のイメージがよぎった。
自分にも、そんな力が使えるのだろうか?
いや、そもそも、そんなことを考えること自体が、おこがましいのかもしれない。
自分は、人を癒すことなどできない。できるのは、ただ、敵を排除することだけだ。
重苦しい沈黙が、六畳間に満ちる。
モニターの向こう側から流れ込んでくる、無数の悲鳴と祈り。
それは、今の朔にとって、あまりにも重すぎるノイズだった。
彼女は、そっとノートパソコンを閉じた。
今は、何も考えたくなかった。