第六話:狩人の視線、血染めのスコール
マンションの非常階段を、朔は音もなく駆け下りていた。
エレベーターを使うという選択肢は、最初から頭にない。気配を殺し、誰にも見られずに移動する。それが彼女の鉄則だ。
スーツの性能か、あるいはアドレナリンのせいか、体は驚くほど軽く、階段を数段飛ばしで降りても息一つ上がらない。
「システム」が示したターゲットエリアは、南々東へ約5キロ。
前回の屋上からでは、距離がありすぎるし、射線も通らない可能性が高い。
朔の頭の中では、事前にチェックしておいた周辺地域の立体地図が展開され、いくつかの狙撃候補地がピックアップされていた。
高層ビル、建設中のマンション、あるいは、少し小高い丘の上にある公園の展望台。
重要なのは、ターゲットエリア全体を見渡せること、十分な隠密性を確保できること、そして、万が一の場合の離脱経路が複数あることだ。
(……あそこか)
朔の足は、ターゲットエリアに程近い、比較的新しいオフィスビル群の一角へと向かっていた。
その中でも、まだテナントが完全には埋まっていない、中層階のフロアがいくつかあるビル。そこならば、人の気配も少なく、窓から射線を確保しやすいはずだ。
幸い、この混乱の中、ビルのセキュリティは甘くなっているか、あるいは機能していない可能性が高い。
ビルに到着すると、予想通り、通用口の電子ロックは解除されたままになっていた。
朔は周囲に注意を払いながら、滑るようにビル内へと侵入する。
人気のない非常階段を使い、目的のフロアへ。そこは、まだ内装工事も途中のようで、がらんとした空間が広がっていた。窓際の、埃をかぶったパーテーションの影に身を潜め、朔はアタッシュケースからライフルを組み立て始めた。
カチリ、カチリ、と小気味よい金属音を立てて、パーツが組み合わさっていく。
慣れた手つきでライフルを構え、スコープを覗き込むと、ターゲットエリアの様子が鮮明に映し出された。
時刻は、出現予測時刻の数分前。
街は、まだ普段と変わらないように見える。人々が歩き、車が行き交っている。
彼らは、数分後に自分たちの頭上に何が降り注ぐのか、まだ知らない。
(……来た)
その瞬間、朔のゴーグルのUIに、無数の赤いマーカーが点滅し始めた。
ターゲットエリアの空。
前回と同じように、空間が陽炎のように歪み、そこから黒い影が、まさに豪雨のように、凄まじい勢いで地上に向かって降り注いでくる。
「ラビット」だ。
その数は、前回とは比較にならないほど多い。
そして、落下してくるそれらの影の多くに、鋭く尖った一本の角が確認できた。
『脅威対象:呼称ラビット・ホーン。特徴:小型、俊敏、集団行動。攻撃手段:牙、爪、及び頭部の角による突進。前回出現時より個体数、大幅に増加。民間人への有効な抵抗手段、依然として限定的』
「システム」からの情報が、淡々と更新される。
角が生えただけでなく、数も圧倒的に増えている。これは厄介だ、と朔は小さく舌打ちした。
だが、感傷に浸っている暇はない。
赤いマーカーは、ラビット・ホーンたちが地上に到達するよりも早く、その落下軌道を正確に示している。
そして、朔のライフルは、すでにそのうちの最も密集している一団に狙いを定めていた。
(――墜ちる前に、叩く!)
朔の指が、ほとんど連続的にトリガーを引いた。
ズドドドドドドドドドドドンッ!!
それは、もはや単発の狙撃音ではなかった。
毎秒数発という、人間業とは思えない速度で連射されるライフルの轟音が、がらんとしたフロアに反響する。ライフルの反動はスーツがほぼ完全に相殺し、朔の照準は微塵もぶれない。
スコープの中、空中で赤いマーカーが次々と緑色に変わり――そして、黒い影が弾け飛ぶ。
地上に到達する前に、何十というラビット・ホーンが、空中で黒い体液を撒き散らしながら破裂していく。まるで、目に見えない巨人の手によって握り潰されていくかのようだ。
地上では、何が起きているのか理解できないまま、一部の市民が空を見上げ、そして、降り注ぐ「黒い雨」に悲鳴を上げた。それは、ラビット・ホーンたちの血と肉片だった。
しかし、それでもラビット・ホーンの数は多すぎる。
第一波の空中掃射で相当数を減らしたとはいえ、残った群れが地上に到達し、パニックを引き起こし始めた。
地上では、すでに警察や、おそらくは能力者と思われる数人が応戦を始めているのが見える。
しかし、彼らの装備は前回と大差なく、角付きラビットの突進と、予想以上の物量の前に、あっという間に劣勢に立たされている。いくつかの集団は、前回よりも連携が取れているように見えるが、それでも次々と現れるラビットの波に、じりじりと後退を余儀なくされていた。
(……残りは、地上で)
朔は冷静に、地上の脅威へと照準を切り替える。
まずは、担当エリアとして指定された区画。そこで暴れ回るラビット・ホーンたちを、的確に、そして迅速に排除していく。
一発、また一発と、寸分の狂いもなく頭部を撃ち抜く。
角が生えていようが、その弱点は変わらない。
担当エリアが一段落すると、朔はスコープの視野を広げた。
周辺では、依然として他の能力者たちが苦戦を強いられている。彼らが取りこぼしたラビット・ホーンが、民間人に襲いかかろうとしている場面も見える。
(……手が空いているなら、こっちも片付けるか。その方が効率がいい)
朔の思考は、常に合理的だ。
目の前の脅威を、最も効率的に排除する。それだけだ。
彼女は、担当エリア外で暴れ回るラビット・ホーンにも、次々とその凶弾を叩き込んでいく。
その戦いぶりは、もはや「狙撃」というよりは、「掃討」あるいは「殲滅」と呼ぶ方が相応しいものだった。
誰にも知られず、誰にも気づかれず、月詠朔は、たった一人で、広範囲に渡る戦場の流れを支配し始めていた。
その狩人のような冷徹な視線の先で、角を持つ獲物たちが、次々と赤い染みへと変わっていく。
世界が再び悲鳴を上げる中、六畳間の戦士は、ただ静かに、その使命を遂行していた。血染めのスコールが止むまで、彼女の引き金は引き続けられるだろう。