第二話:神の戸惑いと、無垢なる一押し
光の粒子となって消失したルナ・サクヤとグランド・アドミラル・ドン・ヴォルガは、次の瞬間、太陽系外、木星クラスの小惑星「ジュピター・ライト」の荒涼とした地表に立っていた。大気のない宇宙空間。凍てつくような静寂が、二人を包み込む。
ドン・ヴォルガは、自身の足元を確認し、周囲を見渡した。見慣れない岩石の平原、遠くには巨大なガス状の木星が、漆黒の宇宙に不気味な影を落としている。
「……何だと!? ここは……場所を変えたか! 月の女神め! 貴様、小賢しい真似を!」
彼は、その巨大な拳を硬い地表に叩きつけ、怒りの咆哮を上げた。彼の神力は依然として強大。だが、突然の転移に、一瞬の困惑を隠せない。
(先ほどの星からかなりの距離があるようだ。こんな離れた小惑星に、抵抗する間も与えずに私を転移させた、と……? この月の女神、予想以上の時空間操作能力を持っているようだな。だが、このような小惑星では、我が力を試すには不足だ!)
ドン・ヴォルガの瞳には、ルナへの苛立ちと、新たな戦いへの闘志が燃え盛っていた。
ルナ・サクヤは、ドン・ヴォルガの目の前で、静かに、しかし決然として立っていた。彼女の漆黒のスーツが、微かに宇宙の光を反射する。マスク越しの表情は読み取れないが、その全身から放たれるオーラは、先ほど地球で見せた動揺の影もなく、冷徹な神のそれだった。
ルナ・サクヤの脳内に、シロ(システム)の無機質な報告が響いた。
『転移完了。』
『座標:太陽系外、木星クラス小惑星『ジュピター・ライト』。存分にどうぞ。』
ルナの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
(シロ、素晴らしい働きですね)
『それを容易に為せるだけのエネルギーをいただいていますから。』
「貴様が月の女神か。楽しませてくれるのだろうな?」
ドン・ヴォルガは、ルナの姿を一瞥し、侮蔑と、そして挑発的な笑みを浮かべた。彼の眼中には、目の前の少女が、自分の足元にも及ばない存在として映っているようだ。
ルナ・サクヤは、その言葉を静かに受け止めた。彼女の計画を出し抜き、地球に直接現れたドン・ヴォルガ。その想定外の行動は、ルナの心に、自身の見込み違いへの自責の念を燃え上がらせていた。
「……そうね。あなたこそ、この私の『おもてなし』を、どこまで味わえるかしら?」
ルナ・サクヤの瞳が、冷徹な光を放つ。彼女は、惑星の地表から、無数の暗紫色の触手を、津波のようにドン・ヴォルガへと向かわせた。それは、「亜」の怪異を捕食した神力吸収の触手だ。触手は、宇宙空間を鞭のようにしなり、ドン・ヴォルガを包み込もうと襲いかかる。
ドン・ヴォルガは、その触手に捕らえられる寸前、全身から眩い光を放った。彼の神力に内包された「絶対排斥」の権能。触手は、そのパワーによって弾け飛び、バラバラに砕け散った。
「ふははは! 月の女神よ! こんなものか! 我を捕らえる事が出来るものなぞ、存在しないのだよ!」
ドン・ヴォルガは、ルナの攻撃を弾き返し、さらに楽しげに高笑いした。
確かに、ルナ・サクヤのあらゆる攻撃は、ドン・ヴォルガの前ではほとんど意味をなさなかった。彼は、その巨躯を宙に浮かせ、惑星の岩肌を蹴り、ルナに迫る。
ルナは、肉薄するドン・ヴォルガに対し、自身の「月光の泉」から溢れるエネルギーを肉体能力の強化に転化させた。彼女の漆黒のスーツが微かに光を放ち、その体が音もなく宇宙空間を滑る。
最初の衝突は、小惑星の地表に深いクレーターを刻んだ。ドン・ヴォルガの剛腕が振り抜かれるが、ルナは紙一重でかわす。音速を軽く超える移動、空間を蹴る跳躍、常識外れの身体能力。普段は神としての権能に頼り、直接的な肉弾戦に慣れていないルナは、彼の猛攻に押し込まれた。ドン・ヴォルガは、彼女の動きの隙を突き、強烈な一撃を叩き込む。ルナの体が、数メートル吹き飛ばされ、岩肌に叩きつけられた。
「ふははは! 月の女神よ! 貴様、小賢しい策を弄するばかりだとは思っていたが、直接見まえると、やはり大したことは無かったようだな! 我が拳の前には、いかなる神も膝を屈する!」
ドン・ヴォルガの咆哮が、小惑星に響き渡る。彼の瞳は勝利を確信し、さらにギラついた。
ルナは、打ち付けられた岩肌から、ゆっくりと立ち上がった。漆黒のスーツには、微かな亀裂が走っている。口元に、血の味が滲んだ。肉体の痛みは、神となって以来、ほとんど経験のない感覚だ。しかし、その痛みは、彼女の怒りを、より一層燃え上がらせた。
(やってくれるわね、ドン・ヴォルガ。私が、こんなダメージを受けるなんて……。でも、ね!)
ルナの動きが、次の瞬間、まるで別人のように加速した。彼女の体から放たれるエネルギーが、小惑星の重力さえ歪ませる。
「月光の泉」から溢れるエネルギーを肉体に注ぎ込み、彼女は、ドン・ヴォルガの猛攻を回避し、その隙間を縫って反撃を開始する。その拳は、宇宙空間を抉り、彼女の蹴りは、惑星を割りそうなひびを入れる。ルナの速度とパワーは、徐々にドン・ヴォルガを圧倒し始めた。互角の攻防は、瞬く間にルナの優勢へと傾いていく。
(ふふっ。その、そういった戦う技術はすぐに追い越す事は出来ないかもしれないけれど、既にこっちは準備万端!いくらでも、どこまでも、いつまでも......!私自身にも限界が判っていないのよ。さて、何処まで付いてこられるかしら...?!)
ドン・ヴォルガは、ルナの圧倒的になりつつあるパワーとスピードに、内心、焦り始めていていた。
(くそっ! どこまで上がっていくのだ!?限界は無いのか!? このままでは……!)
彼は、神力に内包された「絶対排斥」の能力を、今度は「斥力」として多用し始めた。ルナの攻撃を巧みに弾き飛ばし、その力を利用した反撃を織り込んだ。また、その斥力を自らの加速に利用して距離を取る。その動きは、まるで熟練の戦士が、相手の力を利用して踊るかのようだった。
「口ほどにもないな、月の女神よ。今ならまだ我が元に下るならば、これまでの事を許してやろう。無意味な抵抗はよせ!」
ドン・ヴォルガは、表面上はふてぶてしく挑発し、時間稼ぎを図る。彼の瞳は、どこまでも高まっていくルナの圧倒的な地力に冷や汗をかきつつも、その対応策を必死に模索していた。しかしこの得られた時間は、圧倒的にルナの側に有益だった。地力は既にルナが上回っており、まだまだ上限は見えていない。ドンが技術と小手先でその猛攻をなんとか躱している状況だ。
ルナは、ドン・ヴォルガの挑発を意にも介さず、「月光の泉」から無限に溢れるエネルギーをさらに加速に転化し、彼の周囲を瞬時に取り囲んだ。速度とパワーはルナが既に圧倒的に上回っている。距離を取るのも、周囲を囲むのも容易だった。
だが、ドン・ヴォルガは、斥力(反射)に加えて「転移」を多用し、ルナ攻略に取り組み始める。斥力による自らの加速を強引に発生させてルナを上回る加速を強引に発生させて距離を詰め、直前で転移して背後から攻撃を仕掛けてきた。
その刹那、ルナの脳内に、シロ(システム)の無機質な報告が響く。
『ドン・ヴォルガ、転移を検知。』
『ルナをその後方に転移。』
ルナは、ドンの攻撃をかわしつつ、シロによって転移された。ドンの攻撃が空を切る。
ドンの後背に転移したルナは、「上方」にはじき上げるように攻撃を叩き込んだ。
上方に飛ばされたドンに対し、シロが高速で神力シールドを上方に生成・下方に高速移動させ、彼の頭上から殴打。そのまま地表に押しつぶすようにシールドを移動させて、ドンに追加ダメージを狙う。
『ぐ・・ぐぬぅぉぉおおおお!まだ、まだぁ!』
ドン・ヴォルガは、間一髪で転移でのがれた。
『ぜはー。ぜはー……う……うぉぉおお!この!私がっ!ここまでやられるっとはっ!』
彼の息遣いが荒い。
その一瞬、ルナの気が緩んだように見えた。
そして、その隙をドン・ヴォルガは見逃さなかった。
ドン・ヴォルガは、神力を全身に凝縮し、地面に拳を叩きつけると、ルナの足元から、暗い影が瞬時に飛び出した。影はルナの体をガゴン!と拘束し、驚いている間にドン・ヴォルガが肉薄。神力を全力で乗せた拳が、ルナの顔面に叩き込まれた。
ルナの全身が、激しい衝撃に打ち震える。視界が白く明滅し、意識が持っていかれそうになる。しかし、彼女の内に燃える怒りが、その意識を繋ぎ止めた。
(地球には指一本触れさせない……!)
彼女は、瞬時に、「月光の泉」から溢れるエネルギーをを肉体に注ぎ込み、ムーンサルトキックを放つ。その足が、ドンの顎を強烈に蹴り上げた。ドン・ヴォルガの巨体が大きく揺らぐ。
その刹那、ルナは、殴られた箇所を瞬時に修復。そして、自身の体の前面に、幾重にも重なる「不可視の多重防御壁」を考案し、即座に具現化、展開を開始した。
(神力シールドほどではないけど、いっぱい出せば問題ないでしょ!これなら無限に出せるし...痛いのは嫌だし!)
ルナは、一瞬で新しい防御方法を、考案して直ぐに実現させて見せた。
吹き飛ぶかに見えたドン・ヴォルガは、一瞬で空中にとどまると、すぐにルナに襲い掛かる……が、ルナの防御壁が間に合い、彼の拳が虚空を打つ。無情にも数枚の防御壁が破れるだけで、ルナによる防御壁の構築スピードの方が速く、ルナの本体に攻撃が届く気配はない。
その間も、ルナは冷静に反撃の機会を伺っていた。
その頃、ルナ・サクヤの神域では。
膝に乗っていたアリアが、ルナがドン・ヴォルガに殴られている光景をリアルタイムで共有し、ショックでその小さな体を硬直させた。彼女の瞳には、かつて見た悲劇の記憶がよぎり、深い悲しみが宿る。
『……お姉さま……。』
アリアの静かな声が、ルナの脳内に響く。そのショックの中で、彼女の脳裏に、かつてリリアン文明の「想願機」の知識と共に押し込められた、膨大な「情報」が、まるで洪水のように溢れ出した。その中には、「神力不動、時感停止、物理拘束、精神減衰……」といった、強固な七重拘束封印術式、「エデンの鎖」の理論が含まれていた。
アリアは、その全てをシロ(システム)に「伝達」した。言葉ではなく、純粋なイメージとして。
『対象:アリアより、新規情報を受信。解析中……。高次元拘束術式『エデンの鎖』、構築完了。ルナ・サクヤ、術式実行可能です。指示を。』
シロの報告が、ルナの脳内に響く。
ドン・ヴォルガの猛攻はまだまだ続いている。負けるわけにはいかないドンも、死力を尽くしている。
(シロ!そちらの判断でタイミングを見計らって、封印を実行して!)
ドン・ヴォルガの、その連続的な速攻の手が緩んだ、その刹那。
ルナの脳内に、シロの無機質な報告が響いた。
『術式、実行。』
ドン・ヴォルガの全身から、眩いばかりの光の鎖が迸り、彼の神力そのものを不動化し、動きを停止させた。
「ごがぁあっ!...こ、これは……なんだ!!ひ、卑怯な!神聖な神の戦いにこのような!正々堂々正面から、拳をもって戦わぬかぁ!」
ドン・ヴォルガの瞳に、初めて明確な恐怖の色が浮かんだ。
ルナ・サクヤは、鎖に囚われたドン・ヴォルガを見下ろし、冷徹な笑みを浮かべた。
「何を言っているのかしら。猛獣を捕らえるのに適切な力を使っているだけよ。殴る、蹴るなど石器時代の勇者くらいでしょう。そんな原始的で粗野な戦いは、私の好みじゃないし……、第一スマートじゃないでしょう? ここまで付き合ってあげただけでも、感謝してほしいわ......にひひひ」
彼女の口元に浮かんだのは、勝利の愉悦と、完璧な計画が遂行されたことへの満足感。
天の川銀河の運命を賭けた、壮大なチェスボードの局面は、月の女神の掌の中で、ついに決着を迎えようとしていた。
「まぁ、たまには運動するのも、良いものね。図書館、カフェときたから...体育館も...うん。いいかもしれない」