7、カバ狩りの行方
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伝令係の男から予想だにしない報せを受けてから暫くは何事も起きずに安堵しつつ一行はカバ狩りに興じることにした。
しかしながら、スメンクカーラーは内心焦っていた。
今回のカバ狩りにおいては、姉弟のうちのどちらかがヤークフとなるための通過儀礼として一際重大な意味合いもある。
だが、通常の武術や勉学――更に儀式に関係のなかった例年のカバ狩りにおいても、決してスメンクカーラーはツタンカーメンの腕前に苦戦したことなど一度もなかった。
それというもの、スメンクカーラーは伯父であったトトメスの付き人であった武将ラドナからカバ狩りに備えて熱心に手ほどきを受けていた。時として厳しく、だが決して『女だから無理だ』と性別で差別しなかった彼のことを兄のように慕っていたのだが、突如としてラドナは前王であったトトメスから解任の命令を受けてしまい何も告げることなく姿を消してしまったのだ。
宮殿に仕えていた頃からずっと前王トトメスから深い寵愛を受けたがっていたソドクが、一番身近で仕えていて信頼を思うままに注がれていたラドナを邪魔だと判断し、命を奪ったのではないかという噂も耳にしたことがある。
『いずれ、カバ狩りでスメンクカーラー様の勇姿を見せてくださいませ』
最後の手ほどきの際に彼と約束したが、ラドナの存在が目の前にない手前、それは果たされることはない。
また、その事情とは別の面においても今日のカバ狩りにおいて皆の前で勇姿を見せるという目標は果たされないのではないか――という出来事が起こってしまう。
「流石でございます……っ……」
ふいに、大袈裟なくらいに大きな声が木舟中に響く。
その声はツタンカーメンの側に付き添っていたソドクのものではない。
その声を発した人物は誰もが予想だにしない存在だったせいで、スメンクカーラーやソドクだけではなく、ほぼ全ての者の視線を釘付けにすることとなる。
「やはり、私の思った通り___ツタンカーメン様、貴方様にはカバ狩りの才能……つまりは弱き者を打ち倒す戦の才能がお有りなのです。今迄は有能な教育者に出会えなかっただけのこと。貴方様の才能を完全に引き出せず発揮することが出来なかっただけにございます。そこで、如何でしょう……今後は、武術の学を受ける際はこのホセにお任せ下さいませんか?」
周りにいる神官達は、明らかに訝げな表情をホセへと向けていた。それに、今までツタンカーメンへ武術の稽古を教えていた男は全員ヌカ派に属している武将であったため、ソドクの部下といえる。
しかしながら、ホセは何ら遠慮することなく堂々とした面持ちでソドクやその部下である武将の男を侮辱したのだ。
これには流石に驚いてしまったのと、日頃から偉そうにしているソドクに対して多少なりとも同情心が芽生えてしまったスメンクカーラーがホセへ口を開く。
「ホセ……貴方は、確かに腕の立つ武将よ。でも、流石に急すぎる提案なのではないかしら?せめて、父上達が此処にきてからでも___」
「恐れながら、既に偉大なる王からツタンカーメン様の武将を私に任せると許可を得ております。此方に、その旨を記したパピルスもございますが……確かに必要なことですので皆様で目を通して頂けますか?もちろん、ソドク殿にも目を通して頂きたく存じます」
確かに、彼が皆に見えるように堂々と差し出してきたパピルスには『武将ホセをツタンカーメンの武術の師に命ずる』と記されており、右下には王印もきちんと押されているのが分かる。
流石に、これでは反論するわけにもいかずに先程とはうってかわって借りてきた猫のように黙り込んでしまったソドクは、やがてゆっくりと頭を下げると「了解した。どうかツタンカーメン様を頼む」と声を震わせながらホセへ言うのだった。
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一時は皆が予想もしないような出来事があったものの、それから暫くは順調にカバ狩りが進行していた。もちろん、次期ヤークフとして殆どの者から期待されているスメンクカーラーの方がツタンカーメンよりも圧倒的に子カバを狩っており、このままいけば彼女の勝利が確定するといった流れであった。
しかし、いよいよカバ狩りも終盤にさしかかった時に突如として流れが変わる。
ツタンカーメンの放った矢が、あろうことか群れの中で重症を負ったある子カバのことを庇おうと勢いよく突進してきた母カバの急所に何本も突き刺さり、命を奪ったのだ。
「な……っ……何ということだっ……!!弟君の放った矢が、あろうことか母カバを仕留めるとは……っ……」
「偉大なる王でも、いや……武術の才に長けていたトトメス様ですか、このような幼少時に母カバを仕留めたことなど一度もなかったというのに……っ……」
木舟の上に、神官達のざわめき声が響き渡る。
静寂の雰囲気を纏っているのは、武将ホセのみであり、彼は騒いでいる神官達へ侮蔑のこもった冷たい視線を向けている。
「流石は、王直々にツタンカーメン様を鍛えるよう命じられただけのことはありますな。して――武将ホセ殿は姉君と弟君のどちらがヤークフに相応しいとお考えですか?」
ふと、一人の神官が遠慮がちにホセへ尋ねる。
年老いている訳ではないが、青年というわけでもない。中年の男性であり、殆どの神官達はホセに対して侮蔑と屈辱に満ちた表情を浮かべ、ホセから離れていったが、その男だけは逆に無遠慮なくらいに近づいて行く。
「失礼ながら、質問をなさる相手を間違えておられるのでは?神官という職に従事する者は、大いなる知恵を持って神々を崇拝する存在ではありませんか……。単なる一武将に過ぎない私など足元にも及びませぬ。むしろ、此方が聞きたいくらいです。ブエマ大神官――貴方はどのようにお考えですか?」
ホセは嫌な顔ひとつせず、むしろブエマ大神官の手に自らの手を軽く触れた後に彼の目を見つめながら問いかける。
「これは、失礼___大神官様の手に小さな塵がついていたものですから。それで、如何お考えなのでしょう?どうか、私の問いに答えてくださいませ」
「う……っ……うむ__正真なところ、ヤークフになるのは姉君であるスメンクカーラー様しかいないと思っていた。だが、先程のカバ狩りの成果を見るに……弟君であるツタンカーメン様にもヤークフになる資格も才も充分にあるのではないかと思い直した。故に、弟君にもヤークフになる機会を与えてもよいと私は考える」
宮殿において実権を握っているのは、ヌカ派よりもザビド派であり、ブエマ大神官はザビド派の神官達を取りまとめる存在である。
それ故に神官達はヌカ派やザビド派といった派閥に関係なく、彼の命令には逆らえなかった。エジプトの頂点に君臨する現王アクエンアテンですら、ブエマ大神官を信頼しきっている。
そのため、現王が管理するべきという《政治》や《戦》以外に属する《神事》においては、ブエマに一任している。
つまり、ザビド派の大神官であるブエマが「弟君にヤークフになる機会を与える」と明言してしまえば、ツタンカーメンにも王になる機会が明確に与えられることになる。
時に、現王アクエンアテンよりも大神官の言葉の方が偉大なる権威をもつことがある。だからこそ、神官達は《大神官》という地位に属するべく躍起になっており、殆どの者が互いに腹を探りながら我先にと日々を過ごしているのだ。
「ブエマ大神官の言葉は偉大なり。カバ狩りだけでなく、今宵の宴で会えるのを楽しみにしております。お礼といっては何ですが、これをお収め下さいませ」
「これは――詳しくは分からぬが、孔雀の体の一部からできている石であろう?見た所、かなり貴重なものと見受けられるが____」
「ええ。かつて、とある男から頂いたものです。何でも、ス・ミという地域にオアシスが存在していて孔雀も沢山いるのだとか。ですが、私は孔雀になど興味がありませんし、何よりも………その男よりも信頼しているブエマ大神官様に身に付けて頂きたいのです」
そして、ホセはどこか通くを見つめ憂鬱そうな表情を浮かべると、淡々とブエマ大神官へと答えるのだった。
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その後、現王アクエンアテンとザネク王が来訪してからも、カバ狩りはこれといった問題はなく進み続け、ようやく終わりとなった。
そして、スメンクカーラー達は宮殿へと帰って行く。
(結局、ラドナの願った通りにはいかなかったわ___)
スメンクカーラーは人払いをした後に木舟の上で悶々と悩み続ける。
弟の勝ちを容易に認められずにいる自らの不甲斐なさに押し潰されるだけでなく、あの日の約束を果たせなかったラドナに対する罪悪感に苛まれ、無意識の内に涙が溢れ落ちて頬を伝う。
何もかもが嫌になり、意図的にツタンカーメンやその周りを取り囲む神官達やホセから目線が届かない場所にいたが、悩み続け自問自答している内に、やがて自分の考えや行為が《困難な事から逃げている》ことだと気付くと勇気を振り絞って立ち上がる。
(そうよ、私は生まれて初めて弟に負けた――それは事実___)
(姉なら、愛する弟の勝利を素直に祝わなくちゃ___それに、私は私――何もカバ狩りに勝つことだけが私の存在意義なわけじゃないわ)
「おめでとう、ツタンカーメン……帰ったら一緒に母上達に報告に行きましょう。きっと、貴方の勇姿を喜んでくださるわ」
「あ………姉上___その、大丈夫でございますか?」
「ええ、大丈夫よ。私は少し船酔いしただけだもの。それよりも、ツタンカーメン……貴方こそ信頼できる武将を従者に出来て良かったじゃない。少なくとも、何を企んでるか分からないソドクよりもホセの方が安心だわ」
ホセはスメンクカーラーへ頭を下げると、そのまま二人から離れて行く。
「ねえ、ツタンカーメン………母上に今日のカバ狩りの成果を伝える時は胸を張って堂々と告げるのよ。私に、遠慮なんてする必要はないんだからね」
「ええ、分かっていますとも。姉上こそ……めそめそと泣いたりしないでくださいね」
二人が幼子の時のように笑みを浮かべ穏やかなひとときを過ごしてから暫く経った頃、ようやく木舟は宮殿近くの船着き場へ辿り着くのだった。
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