6、カバ狩り
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その日、ツタンカーメンは目覚めた時から憂鬱な気分を抱いていた。これが普通の日であれば気分が優れずとも、すぐに気持ちを切り替えて割と早めに身支度を済ますこともできただろう。しかし、今日は特別な日ゆえに閉じた瞼の裏に姉であるスメンクカーラーの太陽のような笑顔がしつこく浮かび上がり、中々うまく気持ちの切り替えができないのだ。
そうしていると、ふいに寝殿の扉が何度か叩かれていたことに気付く。
「おはようございます、アイでございます。そろそろ、儀礼の時刻が近付いてきましたので準備の手伝いに参りました。恐れながら、入っても宜しいでしょうか?」
「アイか……よい、入れ____」
仕方なく、体をゆっくりと起こすことにする。
別に天気が悪いから憂鬱になったというわけではなく、外では鳥の鳴き声が聞こえ、爽やかな風が吹いてきて気温も調度いい。
太陽も昇ってはいるものの、日差しはそう強くはない。
まさに、カバ狩りには絶好の日といえる。
ただ、王族にとってはとても重要な儀式――次なる王候補である《ヤークフ》を決める通過儀礼という意図があるため、余程のことが無い限り必ず参加しなくてはならない。
流石に生命を脅かす程の酷い体調不良であれば、中止もやむを得ないであろうが、カバ狩りを行う前に王族付きの有能な医師達によって、くまなく体の状態を調べられるが故に仮病で誤魔化すのは不可能に近い。
(そもそも、それはそれで……あの愚かな神官達に体調管理も碌に出来ぬ不出来な王子だと嘲笑されるのだ………)
何度目かのため息を吐いた後、目の前にある鏡を見つめる。自分でもうんざりするような陰鬱な表情を浮かべている。
そもそも、姉であるスメンクカーラーの方が顔付きも物事に対する考え方も父王に似ているため、ツタンカーメンは幼い頃からずっと蚊帳の外だった。家族であるにも関わらず、姉はともかくとしても父王も母であるキヤでさえ碌に話しかけてこなかった。
唯一、伯父であり今は亡き先代王のトトメスだけは自分に対して何かと世話を焼いてくれたり気にかけてくれてはいたが、そのトトメスも天に召されて興味を抱いてくれる者など、もはや存在しないも同然だ。
ゆえに、今日のカバ狩りはとても重要なのだ。
頭の中で分かってはいるものの、やはりいざザビド派の神官達を目にすると激しい嫌悪感を抱き、ただ単に会うのでさえ拒絶反応を示してしまう。
『あの者達の目には、姉上しか映ってないのだ……っ………』
つい、無意識のうちに呟いてしまっていた。
「あの………ツタンカーメン様___そろそろ、カバ狩りに出立する時刻にございます」
そのせいで、傍らに立つ神官見習いであり尚且つ付き人であるアイに余計な心配をかけさせたことを察して、不安を払拭するべく左右に首を振る。
手鏡に映る己の顔は、醜悪としか言いようがない。
これから向き合わなければならないカバ狩りという高き壁に対する不安と恐れしか抱いていないのが明確に分かってしまう。
「アイよ、お前は余が次期王に相応しくない存在だと思うか?姉上よりも下だと思うか?」
「いいえ……貴方様は王の血を継ぐ正当な王位継承者__。あの者達の言葉など、聞き流せばよいのです。そもそも、自分は貴方様の姉上のことをよく存じ上げておりません」
「そうか、お前は長く遠征地にて神官としての心得を学んでいて、最近帰ってきたばかりなのであったな。姉上とも殆ど交流はないから知らないのも無理はない。ザビド派の奴らは、姉上を持ち上げてばかりだ。確かに姉上には王になる素質はある。賢いし、女だが力もある。だが、余はそれを認めたくはない。神官達に馬鹿にされるばかりで余の存在価値は、いったい何だというのだ……っ……」
ツタンカーメンは、手鏡を持った方の手を振り上げると化粧台を割ってしまうのではないかという強い勢いで怒りに任せて叩きつける。
しかし、その表情は深い悲しみに覆われていて、まるで猫のようにぱっちりとした目元からは大粒の涙が溢れている。先程、施したばかりの目の化粧が台無しだ。
「安心してください。今日のカバ狩りには武将ホセがいらっしゃいます。もしも、ザビド派の神官達が貴方様を悪く言えば彼が黙ってはおりません。彼も、自分と同様に貴方様の味方でございます」
「ホセがカバ狩りに合わせて帰還したというのか?彼はヌビアの戦に参加するべく遠征していたのではなかったか?」
主人の声色に安堵が混じっているのを察すると、アイは自分までもが胸を撫で下ろし、それから彼の目元の化粧を治し始める。
「自分にはよく分かりませんが、武将ホセにも何らかの事情があるのでしょう。さあ、準備が整いました。ナイル川の船着き場までコルシを手配しています。恐らく、皆様がお待ちですので急ぎますよ」
「ああ、分かった。アイよ、いつも頼もしく思っている。お前は余にとって、一番の理解者だ。ありがとう」
こうして、ツタンカーメンは付き人であるアイに見守られながら宮殿の外にある船着き場まで歩いて行くのだった。
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「ねえ、見て……ツタンカーメン。あそこに子カバがいるわ。しかも、何頭もいるということは今日のカバ狩りは特に気を付けないといけないわね。母カバの神経を逆撫でしないようにしないと………」
ようやく弟と対面できて、スメンクカーラーは満面の笑みを浮かべながら共に木舟に乗り込み、暫くしてから草陰の方を指差した。
ガサガサと音を立てつつ、子カバの姿が見え隠れする。ちょうど、今の時間帯はカバ達の食事時なのだと側にいる神官から教えてもらった二人は興味深くその様子を観察する。
『野生のカバは獰猛な生き物なの。宮殿にもカバが飼われている池があるけれど、決して同じだと思い込んではならないわ。いい、決して無茶なことはしないでね?ああ、ケセナは心配で、心配で……どうにかなっちゃいそうよ』
ふと、宮殿を出る前に目に涙を溜めながら大袈裟なくらいに心配してくる幼馴染兼親族のアンケセナーメンの言葉を思い出す。
しかし、ツタンカーメンは姉の言葉など聞こえていないといわんばかりに草陰の子カバの群れよりも遠くの方を無言で見つめ続けている。
「ねえ、もしかして父上が来るのを心待ちにしているの?残念だけど、父上が来てくれる可能性は少ないわ。あの方は、ミタンニの一つであるプタのザネク王と会合しておられるもの」
「姉上……そんなことは分かっています。それに、余は貴女のように父上の期待を一心に背負っているわけではないため、そんなことなど考えておりません。自分勝手な判断で余の気持ちを汲み取ろうとなさるのはお止めくださいませ」
先程まで、楽器の音が鳴り響いたり皆の話す声で賑やかだった木舟の上はツタンカーメンの強めの一言で一気に静寂に包まれてしまう。
途端に鋭い蛇のような神官達の目が瞬時に突き刺さり、ツタンカーメンは咄嗟に俯いてしまう。
「おや、気弱な方だとばかり思っていましたが__案外と自らの本当の気持ちを吐き出す覚悟はお有りなのですね。いやはや、感心致しました。流石はトトメス様の遺志を引き継ぐ才覚のある御方だ」
わざとらしく手を叩きながら颯爽と登場するソドクを目の当たりにして、ツタンカーメンは彼を睨み付ける。
「……っ____ソドクよ、よいか?勘違いするな。余は亡き叔父上の遺志を引き継ぐつもりなど……ない……。そもそも、余はザビド派に属していて叔父上が崇拝してきたヌカ派の思想とは真逆である」
「ええ、そんなことは俺にだって理解できますよ。ただ、この気が狂いそうになるほどの長き人生___いつ、何が起こるかなど完璧に理解できる者などおりません。第一、そんな完璧な者がいたらつまらないではありませんか。何が起こるか分からないというのが刺激的だからこそ、人間は生きてゆけるのです。例えば____」
ソドクは、ふとスメンクカーラーの隣でかしこまっているザビド派の神官である青年を指差す。
「突然、この無礼者の神官がカバに呑み込まれるかもしれません。池に入ろうとして舟の縁から足を滑らす?はたまた、誰かから落とされる?理由など、どうでも良いのです。まあ、そういうことも有り得なくはない――といったお話です。嘆くばかりでは、つまらないのでは?」
ソドクの余りにも極端は会話の内容に、周りにいるスメンクカーラーやツタンカーメン――それどころか神官達までもが呆れ果てて黙り込んてしまう。
ただ、誰一人としてソドクへ反論しなかったのは異様なくらいに彼の目が真剣で、底しれぬ恐れを抱いてしまったからだ。
暫く、小舟の上は静寂に満たされていた。
だが、突如として現れた伝令の男から、ある報せを受けることによって沈黙は破られることとなる。
伝令の男は余程焦っているのか、息を切らしながら驚いて目を丸くしているスメンクカーラー達へと報告する。
「現王アクエンアテンから伝令でございます。もうすぐ、こちらへいらっしゃるとのこと。尚、プタ王であられるザネク様もご一緒に来訪されるとのことです!!」
伝令の男の報告により、ソドクの登場で沈黙に包まれていた木舟の上は再び騒がしくなる。特に神官達の動揺が激しく、その中にはあからさまに不愉快な表情を浮かべる者もいるくらいだ。
ザネクは、ただでさえミタンニ(異国)の王で、こういっては何だが所詮は余所者に過ぎず、ゆえにヌカ派にもザビド派にも所属することを許されていない身だ。しかも、あろうことか、アクエンアテンはスメンクカーラー達よりも幼いザネクを寵愛しているため、そのことが神官達に誤解され変な噂を立てられる原因となってしまっている。
ザネクの年齢は、まだ10にすらなっていない。
しかし、彼は幼王として(周りの助言は多少ありつつも)立派にプタ国の政治を行い、自国の民を守ることのできる存在である。皮肉なことに、本来なら尊敬されるべきそのことも、疑り深く古い思想を持つ神官達が『やがてエジプトの地を乗っ取るつもりなのではないか』等と妙な噂を立てている原因となってしまっている。
(ザネク王は、私達よりも幼いのよ__)
(それなのに、変な噂をされるなんて余りにも可哀想だわ…………)
自分よりも遥かに年老いた者達が、他国の幼い王に対して、好き勝手に噂を囁き合っている____。
そんな残酷な光景を目の当たりにしつつも、何も言うことのできない己に対して嫌悪を感じたスメンクカーラーは父王アクエンアテンが来訪する嬉しさよりも不甲斐なさを痛感し、ため息をついてしまうのだった。
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