5、宮殿の庭園にて
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噴水の水が流れ清々しい空気に満ちた昼間の庭園にて、二人の子どもがはしゃぐ声が聞こえてくる。
二人の内の一人は女の子であり、手に木剣を持ちながら自信ありげな笑みを浮かべながら、もう一人の尻もちをついた男の子を見上げている。
男の子の方は、涙目になって助けを求めるべく周りを見渡すが周囲には何十人もの男女がいるにも関わらず、誰一人として彼に手を差し伸べる者がいない。
そのうち、殆どの男性は神官でありその他は彼らに付き従う奴隷達だ。
「流石はスメンクカーラー様、見事な手技にございます。お父上であるアクエンアテン王も、さぞかしお喜びになりましょう。次期ヤークフは貴女様で間違いございません」
「女性は武闘をしてはならぬ――そのような愚かな教えは、もはや悪しきものにございます。アクエンアテン王の信仰するザビド派は、女性でも王になるべしという斬新な教えに導かれております。力のみが全てであるなどと粗悪で野蛮な導きを信じるヌカ派とは訳が違うのです」
二人の周りには何十人もの神官が取り囲み、スメンクカーラーと呼ばれた女の子へ向けて大袈裟なくらいに彼女を称えながら拍手をしている。
どちらの子どもも十三になるかならないかくらいの年齢である。
「あ……っ……姉上。女神ハトホルの導きは偉大なことだと分かっています。ですが、慈愛の心こそが全てであると我々を導いておきながら、今行っている訓練はしてもよいのですか?この訓練も、結局は力がなければ相手には勝てません。それなのに、何故姉上は余に勝って嬉しそうなのですか?」
「ツタンカーメン………あなたは、賢いのね。そうね、確かにその問いかけには私も答えられない。まさに、お手上げよ。力も必要な分だけならあったっていいのよ。力こそ全てっていうのは極端すぎる……とても、難しい問題だわ。すぐに結論を出すわけにはいかないの」
スメンクカーラーは尻もちをついていた方の子どもの手を引き上げる。そして、懐から布の取り出すと涙目になった弟の目元を優しく拭う。
『まったく……スメンクカーラー様は相変わらずお優しいですな。あのように出来の悪い弟君にまで気を遣われるなどと___。それにしても、姉君のお気持ちすら汲み取らず、あのように捻くれた言い方をなさるとは……ザビド派の我々に対する皮肉なのでは?』
『スメンクカーラー様はアクエンアテン王から、直々に次期王候補者である《ヤークフ》の呼び名を授かると約束されている御方だ。アクエンアテン王は弟君には期待などしていないし寵愛も注いでいないというのに、勘違いもいい加減にしてほしいものだ』
スメンクカーラーの言葉を聞いて、周りの神官達は好き勝手に囁き合う。むろん、二人には聞こえないように細心こ注意を払っていた筈だがツタンカーメンは神官達を蛇のような鋭い目つきで睨み付けた後に木剣を大理石の床へ叩きつける。
そして、姉であるスメンクカーラーの制止の声も聞かずに、脱兎の如く庭園から去って行ってしまう。
「あなた達、今日のジンギャは無しにするわ。これから私は母上のいる妃宮に行くから寝る時間までは自室にて待機しておきなさい。あと、ジンギャを行わないのは体調が優れないというわけではないから心配しないでほしいの」
スメンクカーラーは周りの神官達が弟のことを悪く言っていることに気が付いていた。ただ、無闇やたらに叱責するわけにいかないということは重々承知していたため、当たり障りのない言葉に留めて神官達へ今後の予定を申し付けると自身も中庭を後にする。
ジンギャとは野菜のみを口にする習慣であり、主に陽が昇る前の早朝と陽が沈む前の夕方に行われる。
朝食と夕食は別にあり、昼間は基本的に果物を口にするのみで、野菜や肉は食べないというのが宮殿内での決まり事なのだ。
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(つい、嘘をついちゃったけど仕方が無いわよね__)
中庭を出た後、ある場所へ向かうために廊下を歩きながら心の中で呟くスメンクカーラー。
(あの神官達は、表ではザビド派だと誇らしげに語っているけれどヌカ派の導きにも興味があるかもしれないって噂されてる人達だもの……下手なことを言って、もし彼の怒りを買ったら面倒なことになるに違いないわ____)
憂鬱な気分を抱きながら、ふいに目を閉じると瞼の裏に、ある男の姿が浮かんでくる。
瞼の裏に浮かんできた男は【力】を信仰するヌカ派の神官達を取り纏める立ち位置にあり、自己中心的で粗暴な男だ。
神官内でも身分の高い取り纏め役でありながら、派手な赤髪のかつらを被り、あろうことか神々を信仰する宮殿内において本来ならば禁忌とされている【ムンギア】を施している。ムンギアとは、おでこから鼻筋にかけて十字に青い染料を塗る化粧のことである。
そもそも、古代エジプトにおいて最高位なのは天上にいる何人もの神々であり、【青】という色は本来ならば神々やその意思を引き継ぐのを良しとされた王族にしか許されていない特別な色だ。
ヌカ派を取り纏める男――【ソドク】は、元々王族の血を引いていない。言ってしまえば、地位の高い神官でしかない。ただし、アクエンアテンの実兄であり今は亡き先代王トトメスの寵愛を一心に受けて、あろうことか『今後はこのソドクを余の息子と思え。王族の血を引かぬことなど、もはや関係ない。よって、ムンギアも許可する』などと直々に遺言を承ったものだから、今やこの宮殿内で彼に歯向かう者など存在しない。
本来ならば、宮殿に住まう王族以外の者達は今は亡き先代王よりも現王アクエンアテンの命令を忠実に聞くべきだ。事実、現王アクエンアテンの存在よりも先代王トトメスの遺言を忠実に守るというのはおかしいのではないかという意見もソドクに従事する者以外は、殆どの者が心の中で抱いているに違いない。
しかし、現王アクエンアテンはソドクの横暴な振る舞いについて殆ど言及しない。
そのせいで、宮殿内はもはやソドクの支配下に置かれているといっても過言ではない。流石に分をわきまえているのか、王の重大な公務である政治に関してまでは口を出したりはしてこないものの、戦で捕らえてきた人質の処遇や奴隷に対する処遇など勝手に決めては、まるで処罰をするのを楽しむかのような態度をとっている。
(父上は何故……あんな男を赦して、今もこの宮殿内に置いているのかしら____)
またしても、ため息をつくと、ようやく目的地に着いた。
「やっぱり、ここにいたのね。ねえ、ツタンカーメン___ここを知ってるのは、もちろん姉である私だけなのよね?」
「姉上……っ___いったい何をしにきたのです……あの神官達のみならず、姉上までもが余を出来の悪い王子扱いをするのですか?」
室内にずらりと何百もの柱が並ぶ《グルシュ殿》____。
日干し煉瓦と石とで作られた大量の柱が、スメンクカーラーとツタンカーメンを出迎える。
元々、このグルシュ殿は父王アクエンアテンが古からエジプトに君臨する太陽神ラーと冥界王オシリスに対して祀るべく建てさせた殿であり、王族以外の者が入ることは基本的に禁忌とされている神聖な場所だ。
たとえ王族以外の者が入れたとしても、王から直々に許可されていなければ入ることは許されない。
スメンクカーラーは今まで数回しか訪れてなかったとはいえ、足を踏み入れるだけで神聖な空気に包まれることは不快とは思わなかったし、何よりも普段暮らしている殿にはない鮮やかな顔料で塗られた沢山の柱を見るのが楽しくて堪らないと感じていた。
それに柱頭の形も全て同じものではないため、普段暮らしている殿で見ている柱と比べると新鮮味がある。更に、柱身の表面には男女が互いに向き合って横並びしている模様が描かれていたり、顔料で彩られた整刻文字がずらりと描かれている。
中には、古代エジプトを護る偉大なる神々が描かれた柱もある。
柱頭にはナツメヤシを型どったものや、蓮を型どったものなど微妙に形が違うそれらを順々に見上げていくと、その途轍もない迫力に思わず感嘆の息が漏れてしまう。
今のように気分が沈んでいるツタンカーメンが、昔から決まって足を踏み入れていた場所だ。
「私、こう見えて記憶力がとってもいいのよ?もう、あなたがどの柱の陰に隠れているかなんて――とっくに覚えていたわ。あの愚かな神官達にはとてもじゃないけど出来ないことよね」
「………」
ここにきて、ようやく弟から笑顔を引き出すことができたスメンクカーラーは安堵して自らも笑みを浮かべる。
ふと、普段から碌に陽がささないグルシュ殿の薄暗さが更に濃くなった気がした。入り口の方から、かつ、かつ――と規則的な足音が聞こえてくる。
父王アクエンアテンから、グルシュ殿へ王族以外の者が来訪するとは聞いていない。アクエンアテンは、この神聖な殿に王族以外の者が来訪する用がある際は必ずスメンクカーラーに教えてくれる。
民や神官達――果ては奴隷といった皆から信頼され立派な王であるアクエンアテンは、《規律》や《約束》は必ず守る。
だからこそ、今この瞬間に誰かがグルシュ殿を来訪するのは異常事態だと判断したスメンクカーラーは懐から護身用の毒針を取り出し身構えると目の前に現れた人物を容赦なく突き刺す勢いで飛び出した。
(姉である私が……っ……弟を守らなきゃ)
しかし、目の前の人物によって腕を叩き落とされ体勢を崩してしまったスメンクカーラーは前のめりになり倒れてしまう。
「おや、この俺に対してよくも無謀な振る舞いをする者もいるものだと呆れ果てたが__誰かと思えば王女様ではありませんか。また、貴女の立場も忘れて弟君であるツタンカーメン様を武闘訓練に巻き込んでおられたのですか?」
その声を聞いただけで、血の気が引いていく。
よりによって、この粗暴かつヌカ派の厄介な男に弟との二人きりになれる貴重な《癒しの場所》が露見してしまったのだ。
「な……っ……!?ソドク、貴方こそ何故グルシュ殿にいるの?父上から、この神聖な殿に来るという話は聞いてないわ」
「父上、父上と――これだから、王女様と対面するのは気が引けるのです。何もかにも現王の名を引き合いに出すのですから。それに、ご安心を……始めから貴女様に用などございません。俺がグルシュ殿に来たのはツタンカーメン様に用があるからでございます」
「いったい、余に何用なのだ?」
ツタンカーメンは姉の背に隠れながらも、恐る恐る遥かに背の高いソドクの顔を見上げる。自分程ではないが、どちらかといえばソドクに対して《嫌悪》の感情を持ち合わせているような低く淡々とした声色のためスメンクカーラーは少しばかり安堵する。
「明日、執り行うカバ狩りについての話がございます。さあ、このような陰湿な殿に閉じこもっていないでトトメス様のように陽の光を浴びるべきです。貴方は、それができる御方だ____」
スメンクカーラーに対する嫌悪を隠そうともしなかった先程とは裏腹に、ツタンカーメンに対しては満面の笑みを浮かべながら答えたかと思えば、半ば強引に彼の腕を引き寄せると、そのままスメンクカーラーだけを残して去って行ってしまうのだった。
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