4、旅先での夜は優しさと共に。
* * *
博物館を出た時には、既に日が暮れてしまっていた。
辺りは薄暗くなっており、陽は沈んでいるものの体全体を包み込む強烈な熱気は変わらない。少し歩いただけで、日本のようにじめじめした暑さはないものの汗が拭き出てくる。
空腹さと異様な熱気に気を取られ、柚月はエジプトを旅行する上で、かなり大切なことを忘れてしまっていた。
金目の物やパスポート等を奪われないように厳重に荷物を抱えていたものの、その分服装については油断してしまっていた。
「……っ___!!」
ふと、少し離れた場所から複数人の女性が此方へと叫んでいることに気付いて、ぎょっとしながらも柚月は目線を向ける。
言葉は分からないながらも、女性達は必死でジェスチャーをしてくれていたため、此方に対して『頭を隠せ』と訴えているのを察することができた。
服装は事前にガイドブックで予習しており、鮮やかなグリーンのロングワンピースを着ていたが、頭を覆い髪の毛を露出させないことにまでは注意が向いていなかった。
何せ、日本ではそれをする習慣がないのだ。
あまりにも情けない失態に急いでリュックから白いレースのストールを取り出すと、慣れない手付きで頭へ巻いていく。それを巻いた直後、今度はぐぅっと腹が鳴り顔を真っ赤にしながらお腹を抑える。
夕飯時だからなのか、そこらかしこから食べ物の良い匂いが漂ってくる。ただ、今晩泊まる予定のホテルには時間問わず食事を提供するシステムはない。
そのため、食料は自力で調達するしかない。
博物館近くの路上には、屋台が所狭しと並んでいるが衛生的な問題があるため、どうしても気軽に口にするのは抵抗がある。日本でいうところのコンビニのような店はないかと見渡してみたものの、そもそもエジプトに初めて来たのだから、そのような店がこの辺にあるのかないのかすら分からない。
(どうにかして……手軽で安い軽食屋を探すしかないわね___)
それから暫くは軽食屋を探すためにガイドブックとスマホを頼りに奔走するが、良さそうな店がなかなか見つからない。見つけたとしても、混雑しているか休業日で店が閉まっているかで結局は諦めるしかない。
早くも一人旅の壁にぶち当たり、ため息をついてしまう。
ダメ元で人が行き交う大通りではなく、閑散としている裏路地で軽食屋を探している時に一件の店を見つける。
しかし、中に灯りはついていない。更には、店先に看板が立っておらず、今はやっていないようだ。ただ、廃業している訳ではないと感じたのは写真付きの皺ひとつないメニュー表が置いてあるのと建物自体は新しいようで手入れが充分にされているからだ。
それに、わざわざ足を止めたのは一瞬だけ暗い店内に人がいるのが見えた気がしたせいだ。それも、一人だけでなく複数人が店内にいて賑わっているように見えた。
(いったい、何なのよ………もう……っ___)
柚月が、またしてもモヤモヤしていると急に肩を叩かれてビクッと体を震わせてから恐る恐る背後へと振り向く。
「ちょっと……貴女、こんな所に一人で迷い込んで大丈夫なの?」
浅黒い肌に、緻密な刺繍が施された衣服を身に纏った美しい女性が困惑した表情を浮かべながら立っている。そして、柚月の返答も聞かずに半ば強引に腕を引っ張ると人のいる大通りの方へと移動する。
正直、この異国の地では相手が日本語を話しているというだけでホッとしてしまう。
そうとはいえ、女性に肩を叩かれた時にはビビり散らしていた柚月だったが、裏路地から大通りの方へと戻れて内心ではホッと安堵する。
つまらない意地を張るのもどうかと思うが、浅はかな考えで勢いで裏路地に来たは良いものの無事に大通りに戻れるか不安で堪らなかったのだ。
「あ……っ……あの、ありがとうございます」
柚月が女性に礼を言ったのと、ほぼ同時にまたしてもお腹が鳴った。《食欲》という本能には抗えないことを思い知り、羞恥に耐え切れず俯いてしまう。
「____そう、ね。じゃあ、貴女からのお礼は私のお店でコシャリを食べてもらうっていうのはどうかしら?」
「コシャリ?」
「そうよ、コシャリ。エジプトでは家庭的な料理なんだけど、知らない?」
柚月は確かにエジプト好きだが、正直にいって興味が偏っているため、どちらかというと現代のエジプトの知識よりも古代エジプトへの興味が勝っており、コシャリという料理のことを初めて知った。
改めてガイドブックを見直してみると、このように書いてある。
《エジプトの国民食》
《材料はご飯とパスタ、マカロニ――あとはレンズ豆等でフライドオニオンとトマトソースをかけて混ぜる手軽な料理》
文字での説明はあるものの、写真付きではないため、いまいちどんな料理なのかがピンとこない。ただ、コシャリについて興味はあるし何よりも空腹が限界に達しようとしている。
これ以上、異国の地にて恥はかきたくはなかった。
「そ……っ……それじゃあ、お言葉に甘えて、お姉さん――いえ、貴女のお店に寄らせていただくことにします」
「お姉さん、ね……そう呼ばれてもいいけれど私の名前はアマシュリっていうのよ。良ければ、アマって呼んで?」
こうして、異国の地での初めての夜を親切な現地女性と共に過ごすことになるのだった。
* * *
その後、アマシュリのお店にて____。
生まれて初めてコシャリを食べたが、香ばしい玉ねぎの風味とレンズ豆と日本ではあまり馴染みのない数々のスパイスが混ざった独特な味付けを舌で感じて、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
日本では高級品とされる牛肉のステーキや、一般人ではなかなか手が出ないと羨ましがられる海鮮品などを常日頃から口にしてきた柚月だが、今食べたコシャリが一番美味しいと素直にアマシュリへと告げる。
「それは良かったわ。さっきのガイドブックには手軽に作れるって書いてあったけど、コシャリってね、なかなか手間のかかる料理なのよ。まあ、私の作るコシャリなんて近所のお店の人が作るものの足元にも及ばないけど____」
ふと、アマシュリの言葉を聞いて、あることを思い出す。
「料理といえば、貴女と出会った裏路地にあるお店って営業しているの?」
「ああ、あのお店ね。あそこはね、フティールを売ってるお店なんだけどね今は一時的に休業中なの。あそこのシェフも、腕がいいんだけどフティールしか作らないのが玉にキズなのよね」
もちろんフティールという料理についても知らなかったが、どうやらこれまたエジプトでメジャーなパイ料理のことらしい。
そんなことを話していた柚月とアマシュリだったが、その後は夜のナイル川を目前で見れるという場所へ連れて行ってもらう。
民家の隙間から僅かにだが、ピラミッドが見えて更に町中には夜のアザーン(お祈りの合図)が道路を走る車の音にも負けず劣らず鳴り響く。アマシュリが言うには、熱心な信仰者は陽の落ちた夜だろうと真昼だろうと関係なくお祈りのモスクへ行くらしい。
「ほら、ここよ……ナイル川が一望できて素晴らしいでしょ?日本にも、何処かにこんな美しい景色が見れる場所はあるんでしょうね。いずれ、確かめてみたいわ」
「あな__ううん、アマは日本に行きたいと思ってるの?それが、アマの夢?凄いのね、叶えたい夢があるなんて……羨ましいわ。私には叶えたい夢があるかっていわれても明確に答えられる自信が無いの」
規則的なリズムで揺れ動くナイル川の波間と行き交う人々の様子をボーッと眺めていた柚月だったが、ふと知り合ったばかりのアマシュリへ自らの悩みを漏らしてしまう。
「自分を持ってないのよ、私___常に周りの誰かから流されて、それに従うだけ。まるで、ロボットかお人形よ。あんなにムキになれる古瀬くんが、羨ましいわ」
「あら__コセくんって誰のこと?もしかして、恋人かしら?」
しまった、と慌てて口を抑えるが時既に遅し___。あろうことか、クラスメイトの古瀬日向の存在など知りもしないであろう現地女性のアマシュリへポツリと彼のことを呟いてしまったのだ。
「ち……っ___違うわ、彼は唯の同級生で……」
咄嗟に咳払いをし、動揺を隠そうとする。
「それに、私には婚約者がいるもの。それも、父親に決められた人生のパートナーで……とても優秀な人らしいの。それで、私には充分よ……自分のことすらよく分からない私なんかには充分過ぎるくらいよ」
そう柚月が呟いた直後のことだ。
少し離れた場所から、通行人達の悲鳴と叫び声が聞こえてくる。
更に、何故かアマシュリがとても慌てた顔をしているのが見えて、
(ああ、ホテルにキャンセルの知らせもしなくちゃいけないのに_____)
そう思ったところで、目の前が真っ暗になり意識がフェードアウトしてしまうのだった。
* * *