エジプトへ降り立つ日
* * *
現地の空港へ降り立つなり、日本にはない独特な甘く官能的なムスクの匂いと行き交う人々の熱気に包まれる。
日本から遠く離れた異国の地の雰囲気にのまれて精神的にも肉体的にも疲れてしまった柚月はとりあえず側にある椅子へと腰かけることにした。
(ようやくスマホが見れる…………飛行機でもっと寝とけば良かったわね)
事前に下調べはしておいたものの、やはり初めて来る異国の地に一人では心細い。それに、世界的にも安全とされる日本とは訳が違うのだ。日本では重視されていない宗教的な決まり事だって、ここでは多々ある。
完璧主義な父のことだから自らが経営する何十もの会社に負のイメージを抱かれてしまわないように、恐らく仕事関係の人を娘のボディーガードとして雇ってはいるだろうけれども、その人達がすぐ近くにいて監視しているとは限らない。
何せ、幼い頃からよく父の会社が主催するパーティーに招かれてきたとはいえ、仕事関係の人の顔なんて碌に覚えていないし彼らの名前だってよく知らないのだから____。
(それじゃあ、いったい何のための一人旅なのよ____)
心の中で不満を漏らした後に、忙しく通り過ぎる人目を気にしながらも、伸びをしてから立ち上がると、トイレへと向かう。
扉を開けるなり、驚いて思わず立ち止まってしまう。入り口付近に、にこにこと笑みを浮かべながら、トイレットペーパーを差し出してくる少女がいるからだ。
これは、日本では見られないチップ文化というものだ。
パッと見た限り、少女は日本でいうところの小学生高学年くらいに思える。何とも言えない複雑な気持ちを抱きながらも、柚月は換金した2ドルを少女へ渡そうと手を伸ばしかけた。
「え………ちょっ………何でこんな所に子どもなんかいるわけ!?」
「空瑠流……あんた、飛行機の中にあったマナーについての雑誌を読んでなかったの?これ、チップ文化ってやつよ。まあ、日本にないんだけどね。それにしても、こんな小さい子までやるなんてびっくりなんだけど……」
「はあ?チップ文化って、何それ?あ、もしかして家が貧乏で暮らしていけないから、観光客のウチらから施してくださぁ〜いってやつ?」
「いや……チップ文化ってのは……そういうんじゃなくて____」
ばっちりと化粧をして、どちらかといえば派手な格好をした女性達が入ってくる。その会話を聞く限り、二人共日本人で尚且つ年齢も柚月と同じくらいに見える。
もう一人の女性はともかくとして、空瑠流と呼ばれた方の女性の態度を目の当たりにして快く思えない柚月は思わず彼女を睨みつけてしまう。
そんな態度が、彼女にとっては気に食わなかったのだろう。空瑠流は柚月の手から乱暴にトイレットペーパーを奪うと、床に叩きつけた挙げ句にそれを何度も踏みつける。
「ちょっと、そこの貧乏人の子ども……っ……あんた、こんな大金にもならない物を売るくらいなら、もっとマシなもの売れば?あるじゃない……もっと金になるものが。それを差し出せば、あんたも家族も充分に暮らしていけるわよ?あんたっていう存在を売れば……」
そこまで言った所で、とうとう我慢の限界に達した柚月は空瑠流の頬を何発か、ぶん殴ってやるくらいの激しい勢いで詰め寄ろうとした。
しかし、急にトイレットペーパー売りの少女から腕を掴まれて柚月が空瑠流の頬を何発かぶん殴ることはなかった。
空瑠流は、その直後に必死で謝るもう一人の女性に責められながら連れ出されていき、トイレ内には柚月と少女だけが残される。
「ねえ、あんなこと言われて、悔しくないの?日本語がきちんと聞き取れて内容を理解できるくらいには賢いのよね、あなた____」
「……………」
少女は、何も答えない。
その代わり、少女は穴が開いてしまうのではないかと思うほどにパッチリとした二重で猫のような瞳を柚月へ向けてくる。
「………ら……ないのね___」
用を足そうと、個室の扉に手をかけてから後ろからボソッと何事かを呟く声が聞こえて、振り返った時には既にトイレットペーパー配りの少女は出て行ってしまい、柚月だけが残されてしまうのだった。
結局、少女は柚月からチップを受け取らなかった。
* * *
(ああ、やっぱり凄い……教科書の写真を見るのとは訳が違うわ)
所変わり、空港を後にした柚月はずっと興味があった博物館を訪れていた。日本でも何度か父親から許可を得て【古代エジプト展】へ行ったことはあるものの、やはり現地の博物館は展示物の内容や数の規模のレベルが段違いだ。
館内には数々の展示が並べられ《アヌビス神の全身像》やら《古代エジプト人の装飾品》やら《ファラオの頭像》やらを順々に眺めていく柚月。
だが、ある物を捉えるとそのまま暫く魅入ってしまう。
ある物とは、古代エジプト王として生きた者の等身大の棺だ。等身大の棺が並べられていること自体は、それほど珍しいことではない。第一、ここは博物館なのだから大いに価値があり、人々の目を引くそれらが並べられているのは必然といってもいいだろう。
しかし、柚月はその棺だけに目を奪われてしまった。
あろうことか、顔の左半分が剥ぎ取られ、かろうじて右目だけが見えるものの他の部分は茶色に覆われた異様な棺。
右横にある説明書きには棺の主は【かつては王であった】と説明されているにも関わらず、本来ならば必ず施されている筈のカルトゥーシュ――《王命を記すもの》までもが綺麗に四角く切り取られているという異様さに目を奪われて興味を惹かれてしまう。
説明書きを読み進めていくうちに、更に興味深い事実が記されていることに気付く。
(この棺の主は王なのだから男性の筈のはず……それなのに、どうして____)
棺は、胸の上に交差する形で両手を組んでいる。
だが、この棺の中に収められていた主は片手を伸ばした《王妃》のポーズで葬られていたと記されている。
ふと、今の自分はまるでクラスメイトの《古瀬日向》のようだ――と我にかえった柚月は興奮をぐっと堪えると、その棺の前から次の展示物へ向かって足早に移動する。
ひととおり博物館内を見終えた柚月は、お土産品コーナーで物色しながら、さっきの棺の主について考える。
(スメンクカーラーは、いったいどんな人物で、どんな人生を歩んだの………)
ふいに閉じた瞼の裏に、あの日の世界史の授業中に皆の好奇の目線に曝されて焦っていた日向の顔が浮かび上がってくる。
(古瀬くんは、知っているかしら___)
その後、自分用に《復活再生のシンボル》とされる青いカバのキーホルダーをひとつだけ買うと、名残惜しいが博物館を出て行きホテルを目指して歩いて行くのだった。