第60話
大輔を引きずるようにして家に戻り、日下部は自室に籠って酒をあおった。訳が分からない。踊らされているようで不快だった。
苛立ちばかりが募り、酔いは訪れなかった。
陽が落ちてあたりが暗くなった頃、日下部は大輔の部屋をノックした。返事はない。
「入るぞ」
灯りは点いていないが、差し込む月明かりで部屋の様子は見て取れた。大輔は制服のままベッドに腰かけていた。日下部が入ってくるのを見て立ち上がる。
「ご迷惑をお掛けしました」
丁寧に頭を下げた後、大輔は言った。
「明日、出ていきます」
恐れていた言葉だった。
「あの、これ頂戴できますか」
制服の袖を掴み、両腕を広げて見せる。
「それは構わないが。出ていくって、どうするんだよ、これから」
大輔は日下部を見上げ、少しだけ表情を和らげた。
「教団に戻ります。他に行くところはありませんから」
日下部は耳を疑った。教団に戻るだと?
「誰かに迎えに来て貰います。電話をお借りしてよろしいですか。それから此処の住所を……」
言いかけて日下部の顔を見た大輔が、困った様な表情を浮かべた。
「お前、何をされたか忘れたのか」
頭に血が上った日下部は、思わず大輔の襟を掴んでいた。大輔が目を伏せる。
「いくら何でも殺されることはないでしょう。何かしらの制裁は……受けるかもしれませんが」
強がっているのは明らかだった。そんなに戻りたいのか。ここにいるのが嫌か。
力が抜けた日下部の手を冷たい指が外した。
「先生は、もう休まれましたか?」
「いや、居間にいると思うけど」
御挨拶してきますと言って、大輔は背を向けた。
行くな!
伸ばした手が肩に触れる。日下部はそのまま、大輔を背中から抱きすくめた。
手首を掴まれたと思った次の瞬間、日下部は宙を飛んでいた。
「あ、すみません、つい」
「……痛ってえ」
手首をさすりながら体を起こした日下部の前に、白い手が差し伸べられる。こんな華奢な手をしているくせに。
差し出された手を振り払い、日下部は立ち上がった。
「武道の心得があるんだよな」
「はい」
「少林寺か。何段だ」
大輔は、ふと目をそらした。
「試験は受けませんでした。実戦で使えなくなりますから」
何だよ、それ。日下部の中に怒りに似た感情が渦巻いた。思考が纏まらない。今になって酔いが回ったのか。
「申し訳ありません。助けて頂いたのに、お礼も出来なくて」
殊勝な物言いが癇に障った。
「なら代金を払って貰おうか」
衝動が抑えられなかった。ブレザーの襟を掴み、耳元に口を寄せる。囁いたのは、後悔するような下卑た言葉だった。
大輔はきょとんとした顔で日下部を見上げた後、ゆっくり視線を外した。
「……ああ」
そういう事かという様に溜息をつく。急速に表情が失われていった。
硝子玉になった眼が日下部を見つめる。
「どうぞ、お好きに」
大輔は投げやりに、そう言った。