潜むもの
生きていくことに飽きた旅人が、ひとり森を歩いていた。背負ったリュックにはロープと、きっと読まれる事がないであろう遺書が入っている。何もかも捨てて楽になりたかった。仕事も、借金も、人間関係のストレスも、そして家族も。
そう、ここなら誰にも見つからない。遊歩道を外れて森の奥に足を踏み入れ、暫しの解放感に大きく息を吐いた旅人は、ふと目の隅に違和感を覚えて振り向いた。木の枝をくぐった彼の目に映ったのは、空間に浮かぶ黒い楕円だった。何も映さないそれは、不自然に風景が裂けて一部分だけ闇夜が顔を出したようにも見えた。
足が止まった。何だろう、脳の古い部分に何かが入り込むのを感じた。生命が生まれた時に作られた、古い古い記憶。
怖気が全身を走り、脚が動かなくなった。大きく口を開けても声は出ない。生命の根源に襲い掛かる、理由のない恐怖だった。動かない筈なのに身体は引き寄せられていく。暗闇はじわじわと拡大し、彼に迫った。逃げることも抗う事も叶わない、圧倒的な力の差。人類が長らく忘れていた本能的な恐れと言えた。
魂が食い千切られるような苦痛を脳は処理しきれず、あらゆる痛みに変換して全身にまき散らしたあげく泥々に溶けていく。もがくことも出来ず、彼の身体は少しずつ闇に侵食された。
やがて視界は闇一色に変わり、何も見えなくなる。頭が呑み込まれようとする寸前、彼の喉は断末魔の声を絞り出した。静かな森に、おぞましいまでの叫び声が響いた。