第八話・不安《解答編》
厚い雲に覆われた空の下、私はメールで伝えた待ち合わせ場所に立っていた。
そこにある時計に目をやると、ちょうど待ち合わせの時間。
だけど、匠が現れる様子はまだなかった。
少し不安になって小さくため息をついた時、ぽつりと頭に何かがあたる。
地面を見ると、土の上に増えていく水玉模様が目に入った。
どうやら雨が降ってきたらしい。
「もーーー」
一人で不平の声を漏らしながら、雨宿りをすべく大きな木の下に移動する。
そして、再びため息をついた。
いつもなら突然の呼び出しでも、なんだかんだいいながらも来てくれる匠。
それなのに、何の連絡も無しに来てくれないなんて、今まであっただろうか…。
携帯が鳴った気配はないが、もしかしたら連絡が入っているかもとバッグの中から電話を取り出そうとした時、私の上に何かが差し出される気配とともに、目の前に男の人らしき足が見えた。
「たく…!?」
「匠じゃなくて残念だったね、愛良ちゃん」
「伊吹…く…さん」
匠が来てくれたと喜んで顔を上げた私の目に映ったのは、伊吹くんの笑顔。
私に傘を差し出しながら、伊吹くんはくすっと笑う。
「いいよ、伊吹くんで。このなりじゃ、その方が呼びやすいと思うし」
どう見ても男の子にしか見えない自分を指し、伊吹くんは軽く肩をすくめた。
「あ…うん。傘…あり…がと」
動揺しすぎてしどろもどろになりながら、私は伊吹くんに手渡された傘を受け取る。
自分の傘も持っているということは、偶然通りかかったとも思えない。
私がここにいると知っていて来たということは、それはきっと匠に聞いたから…。
「残念ながら、匠は来ないよ」
「え…」
「その傘さして、さっさと帰れってさ」
伊吹くんの言葉に、私は傘を握り締めてうつむいた。
今まで、匠がこんな事をしたことはない。
暗号をつかったり素直に言ってはくれなくても、他人を使って自分の言葉を伝えたりなんかした事がなかった。
それなのに…。
「なんで…」
「わからない?どうして俺を代わりによこしたのか、ちゃんと考えてみたら?」
私をまっすぐに見つめながら、伊吹くんはそう言い放った。
考えて、不安になる。
「匠は…大丈夫だよね?」
「ん?」
私の問いに、怪訝な表情を浮かべる伊吹くん。
質問の意味がわからなかったらしい。
「匠、怪我とかしたわけじゃないよね?」
「へぇ…」
私の真剣な問いかけに、何故か感心したように呟く伊吹くん。
そのリアクションからすると、私の心配は杞憂のようだ。
その事に、とりあえずほっと胸を撫で下ろす。
「匠の予定も聞かないで突然呼び出したりして、呆れて見捨てられたとか、考えないわけ?」
「呆れたとしても、匠は見捨てたりしないよ。匠、本当はすごく優しいもん」
「ふぅん…」
きっぱりと言い切った私を見てから、伊吹くんは私に一歩近づく。
そして傘を下に置くと手を伸ばし、くいっと私のあごを長い指で上げ、背の高い自分の方に向けさせた。
女の子とわかっていても、綺麗な顔が突然近づいて、さすがにドキッとする。
「約束の場所に俺みたいなのを送っておいて、どうして信じられるの?愛良ちゃん、匠の事、どう思ってるわけ?」
「わ、私は…」
慌てて逃げるように一歩後退ってから、私は木々の合間から落ちてくる雨にぬれていく伊吹くんを見据えた。
伊吹くんの事はまだよく知らない。
伊吹くんが匠の事を本当はどう思っているのかもわからない。
でも、この気持ちだけは負けたくない。
「私は、匠の事が、好…」
そこまで言った時だった。
辺りがカッと光り輝いた。
これは間違いようもなく、雷だ…。
「っきゃぁぁぁぁぁ!!??」
続いた轟音と共に、思いっきり叫ぶ私。
と、背後からふわりと温かなものが私を包み込んだ。
驚く私の耳元に、聞きなれたくくっという笑い声。
「相変わらず、見事な悲鳴だな」
「た、たく…ひゃぁぁぁ!!??」
振り返って匠の顔を確認するやいなや、再び鳴り響いた雷に悲鳴を上げる私。
匠は再び笑いながら、今度は正面から私を抱きしめてくれた。
「なんだ。やっぱり来たんだ、匠」
「任せたのが伊吹じゃ、少々心配だし」
笑いを含んだ声の伊吹くんにそう言った後、匠は私を抱きしめていた腕を緩めると、呆れたような眼差しで私を見つめた。
「愛良…」
「な、何?」
「出かけるときは、携帯の充電をチェックしたら?それから、雷嫌いだったら、天気予報も確認した方がいいと思うんだけど」
「え…」
私は慌ててバッグの中から携帯電話を取り出した。
お正月と違って匠が暇だと確証がなかったので、今回は電源を切っていない。
だが、取り出した電話は電源が切れていた。
「あれ?あ、あははきゃーーー!!」
笑って誤魔化そうとした時に再び雷が鳴り、再び目の前の匠に抱きつく。
と、前後から堪えきれないような笑い声が聞こえてきた。
「あははきゃーって…、愛良…」
「ほんと、愛良ちゃんナイスリアクション…」
二人に笑われむっとしつつも、再び雷がなるかもしれない恐怖に怯える私。
でも、匠が優しく髪を撫でてくれたので、怖さはすぅっと消えていった。
「じゃ、役目を果たしたし、俺はもう帰ろうかな」
伊吹くんのそんな声が聞こえると、匠は小さく息をついた。
「余計なことの方が多かったんじゃないか?」
「そう?嘘はついてないんだけどな。言葉は足りなかったかもしれないけど」
伊吹くんの笑いを含んだ声。
匠の腕の中でゆっくりと振り返ると、私と目があった伊吹くんはくすっと笑った。
「バイトが終わらなくて時間に行けないから、雷がなりだす前に家に帰って待ってろ。って、伝言を伝えに来たんだ。愛良ちゃんの携帯がつながらなかったから、雲行き見て匠が慌ててね。俺が愛良ちゃんに関るの嫌がってたくせに頼むくらいだから、愛良ちゃんの雷嫌いが相当心配だったんだろうね」
「それも余計だ、伊吹」
「匠を振り回せるの、愛良ちゃんくらいだよね。匠が走って移動するなんて、俺、見た事なかったんだけどな」
「え?」
くすっと笑った伊吹くんの言葉で、私はようやく匠の様子に気づいた。
身体が熱いし、肩で息をしている。
どうやら、本当に走ってきたらしい。
「って、匠が、バイト!?」
「反応遅いから」
違うところに驚くと、冷静につっこむ匠。
伊吹くんの笑い声も背後で聞こえたが、そのまま去っていったようだった。
伊吹くんに軽く手を上げて挨拶をしている匠を驚きの眼差しで見つめていると、匠は再びくくっと笑った。
「そんなに驚くところ?」
「だって、匠が働くなんて!!」
「俺は、雷警報が出てる中、外で待ち合わせする愛良の方が驚きだけど?」
「だっ…きゃぁぁぁ!?」
匠の言葉の直後、再び雷がなり、私は反射的に匠にしがみついた。
笑いながらも怖さを和らげるように優しく抱きしめてくれる匠。
久しぶりに会えたのも嬉しくて、私は匠に抱きついたまま口を開いた。
「だって、メールした時は晴れてたもん。それに、出かけるまでは携帯も電源はいってたし、匠がもっと早く暗号といて連絡してくれればよかったのに…」
嬉しいくせに、相変わらず素直じゃない事を言ってしまう。
すると耳元で、匠が呆れたような声で解説をはじめた。
「二つのカッコの中に、それぞれ関連のなさそうな単語の羅列。
二つ目のカッコは後ろに<より>がついているところを見ると、二つ目のカッコは差出人の事。
つまり、愛良。
そう考えて単語を見れば、どんな暗号かはすぐにわかる。
千葉・穴・平ら。これらをひらがなになおして、並び替えると『たちばなあいら』。
ようするにこの暗号は《アナグラム》。言葉を並び替えると、正しい言葉が現れる」
「…ご名答」
さすがは匠だと思う。
名前のヒントだけであっさりと見破られてしまったようだ。
だけど、メールを送ったのは数時間前。
バイト中でも空いた時間に気づいて、その間に返信できそうな気がする。
「すぐにわかったんでしょ?だったらなんで…」
「あのな、愛良。どんな暗号かわかっても、何を伝えたいかもわからないのに、文字の羅列から意味のある文章を導き出すのはさすがに時間がかかるんだよ。十七個の文字の組み合わせ、何通りあると思ってるのかな?」
「そ、それは確かに…」
文章を分解して他の文章にする事が出来ず、結局単語を並べるに至った私。
確かに、逆の方が難しい気がする…。
「うんが・にじ・でし・ろっく・ひるね・こて・えま…。
並び替えると『ひがしこうえんでろくじにまってるね』。
アナグラムにするなら、もっと簡潔な文にしないと、暗号はわかっても、解読できない可能性もあると思うけど?」
「匠なら出来ると思って」
「おだてて誤魔化しても無駄」
ちょっと怒ったような口調の匠。
私はきゅっと匠のシャツをつかんだ。
怒ってるのは、きっと私のため。
雷嫌いの私が一人で公園にいるのを、きっとすごく心配してくれたから。
友達に先に行ってもらって、それでも心配だから走ってきてくれた。
「ありがと、匠」
「反省を促してたんだけどな?」
「いいの。ありがとで!」
そう言い張ると、匠はくしゃっと私の長い髪を撫でた。
どうやら、許してくれたらしい。
そして、何かを思い出したように、くすっと笑う。
「ところで愛良」
「何?」
「『匠の事がすっきゃー』って何?」
「えっ…」
匠の言葉に焦って、思わず匠の腕から脱出する私。
匠は楽しげな瞳で私を見つめている。
「さっき、伊吹に向かっていってただろ。すっきゃーーーって」
「そ、それはっ…」
絶対に分かってて言っている匠の余裕の態度に負けるかと思いながらも、私は気がつけばかぁっと真っ赤になっていた。
「た、匠の事が、す、スキャンしてみたいなーと!」
「意味わからないし」
私のわけのわからない誤魔化しに、くくっと笑う匠。
しかし、それで気が済んだのか、私が落とした傘を拾うと空いた手を私に差し伸べた。
「さ、さっさと帰るぞ。夜に向けて、もっと酷くなるらしいから」
「う、うんひゃぁぁぁ!?」
匠の手をとった瞬間、再び雷鳴が轟き、私は匠の腕にぎゅっとしがみついた。
やっぱり、どうしても雷は怖い。
匠の腕にしがみついたまま震えていると、ふっと小さく匠の笑う声が聞こえた。
見上げると、目を細めた匠と目が合う。
「雷が怖くなるおまじないを聞いたんだけど、愛良、試してみる?」
「おまじない?」
匠の口から珍しい単語が出てきたのに驚いたが、この雷雨の中を帰るには、おまじないにもすがりたい気分だった。
怪しみながら頷くと、匠は口元に笑みを浮かべる。
「とりあえず目をつぶる。それから、深呼吸」
言われたとおりにしてみるが、それくらいじゃ気はまぎれなかった。
次はどうしたらいいのか…。
それを聞こうとした瞬間、ふっと何かが近づいたのがわかった。
そして、その次の瞬間には、額に温かで少し柔らかな感触…。
「どう?効いた?」
私の額から唇を離した匠は、平然とした顔でそう言った。
一瞬で真っ赤に染まった私とは対照的だ。
「あ、あんまり…」
「ふぅん」
「…もうちょっと効くおまじないして?」
短く呟いた匠をじっと見つめながら、私は思い切ってそう言ってみた。
勘のいい匠なら、きっとわかるはず…。
「じゃあ、もう一度目をつぶって?」
「う、うん」
匠に言われ、私はドキドキしながら目をつぶった。
遠くでゴロゴロと雷が鳴っても、気にならなかった。
さっきよりも少し低い位置で、何かが近づいてくるのがわかる。
自分の心臓の音がやたらと大きく聞こえたとき、ふわりと優しく匠の唇が触れた。
目を開けると、目を細めた匠の瞳。
「さ、ほんとにもう帰るぞ」
「………」
ちょっとむくれた私の手をとり、匠は私の手を引きながら歩き始めた。
匠の唇が触れたのは、私の頬。
絶対、わかって違う場所にしている…。
「意地悪…」
「何か言った?」
「なんでもなーい!」
一つの傘に入って歩きながら、そう答える。
よく見てみれば、伊吹くんが持ってきたのは匠の傘だった。
そして、匠は少し濡れている。
私の為に自分の傘を伊吹くんに託し、私の為に雨の中走ってきてくれた匠。
その気持ちだけで、十分だと思うことにする。
「ねぇ、バイトって何してたの?」
「伊吹の知り合いの塾の手伝い。怪我して短期入院してる人の変わりにね」
「なんで教えてくれなかったの?」
「言ったら見に来ただろ、愛良。俺が小学生に勉強教えてるなんて知ったら」
「絶対見に行った!ていうか、今からでも見たい!!」
「絶対駄目」
久しぶりの匠との会話を楽しみながら、家路に向かう私たち。
一週間不安だったけど、雷は怖いけど、でも、おかげで匠に抱きしめたもらえたからよかったことにする。
今回は心配かけちゃったけど、今度は匠を喜ばせる暗号を考えてみせるんだから!