第2話 異色の夜
大きな部屋を用意されていた。
床から天井まであるガラス窓。
電気は無いらしい。
部屋の灯りは燭台だけ。萌夏が困らないようにたくさん置いてくれているが、正直、煙たい気もする。
連れて来られたのは昼で、今は夜になってしまった。窓の外は黒い。昼に月が見えていたから、夜の月は東の空の低い所にあるのだろう。自分の世界なら。
だが、ここは違う世界で、月は二つある。二つとも見えていないが。
館での待遇は悪くない。
食事も豪勢ではないが、温かいシチューは助かった。
食べている感覚はリアルだし、満腹感もある。
もてなされているのだ。
しかし…
(これから、どうなるんだろう…)
背の高い一人がけのソファに身を沈めてため息をついた。
椅子の上で膝を抱えていた。スカートが長くて足が隠れるのは助かる。
ロッテに休むように言われたが、たぶん、いつもならまだ家で仕事をしている時間だろう。
今日するべきは、月末納品の製本の準備に、下請けの請求金額の付け合わせだった。来月異動してくる新人のスマホに名刺に、メーリングリストの追加に、見積りの依頼と支払いの決裁をシステムで投入して…。どうでもよさそうでどうでもよくないことがいっぱいで、誰かが覚えをして、動いて、片付けていかなければ雑務は減らない。そんなことばかりで毎日が済んで、毎日が繰り返される。
(何もしない夜なんて、いつ以来だろう…)
ドアが叩かれた。二度。
「はい。」返事をする。
「失礼する、貴女の荷物をお持ちした。」
ドアの外から男の声がした。熊男のだ。
「どうぞ。」萌夏が答えた。膝を下ろし、居ずまいを正す。
そっと扉が開いて、木箱を抱えた熊男が入ってきた。顔は前髪と髭で覆われたままだが、今度は着替えたのかきれいな上着を着ている。明るい茶色で、上着の裾は膝の上あたりまである。脇は大きく開いていて、腕が動きやすくなっている。中のシャツは白だ。
熊男の髪は三つ編みが結いなおされていて細くなった先を革ひもでくくっていた。背中で蛇のようにうねっている。
熊男は、木箱をテーブルの上に置くと中から、萌夏の荷物を出して並べ始めた。黒いリュック、ノートPC、眼鏡、ペンケース、長財布、スマホ、名刺入れ、ティッシュやハンカチ、マスクの入ったポーチ。
だが、普通のOLが持っていそうな化粧道具はない。せいぜい、色付きのリップがどこかのポーチに入っているくらいだ。いい歳をしながら、化粧品の匂いで気分が悪くなるから自分もしない。それに、誰も私に関心がないから…。
(会社の資料、持ってなくてよかった。)
「これで全部だろうか? 着ていたものはロッテが洗濯して、まだ乾いていないんだ。済まない。」
熊男が並べ終えて萌夏に言った。
萌夏が荷物に近づいた。
ノートPCを手に取る。湿った感がある。
「荷物も泥だらけだったから、洗わせてもらった。」
熊男が言った。
一瞬、萌夏が固まった。
「洗った?」
「ああ。」熊男は悪びれずに返事をした。
萌夏は目を見開いて、あわててノートPCを開けた。スイッチを入れるが真っ黒なまま。充電は満タンで家を出たから、本来なら使えるはず。
「精密機器を… 洗った? 水で?」
「ああ。洗濯と一緒だろ。」
萌夏はノートPCを置くとスマホを手に取った。こちらは生活防水ぐらい効いているはずだ。
電源を入れると明かりがついた。ほっとする。画面が現れる。アンテナ線に『圏外』がついていたが会社に電話してみた。ツーツーとなるだけで通じない。夜なら留守電音声が流れるはずだ。それもない。アプリをいくつかスワイプするが、クラウドで動くものは「通信できない」画面になってしまう。
バッテリーも七十パーセントを切っている。
「充電器はないの?」
そう言われた熊男は変な顔をした。
「じゅ? なんだ?」
「充電器! スマホの! タイプCの!」
「…。」
熊男が困惑顔で立ちつくした。
「言葉は通じているんでしょう!」
萌夏の言葉が荒がる。
「…い、意味が分からない…。」
熊男がうな垂れた。
「話にならないわね!」
「…。」
「人をこんなところに連れてきて、荷物をダメにして!
目の前には、わけのわからない熊男がいて!」
だんだん、腹が立ってきて言葉がきつくなる。
目の前の熊男のせいではないのに。
「どうしてくれるの!
いつ、家に帰れるの!」
叫び声になる。手が震えて、スマホを落とした。
萌夏は、はじめて『恐怖』を感じた。
息が詰まりそうだ。
スマホを拾おうとした手も震えている。
身体が動かない。手が届かない。
萌夏の動かない手の先に、大きな手が現れ、スマホを掴んだ。
熊男はその手に一滴、涙が落ちたのを見た。
俯いている萌夏の目からだった。
熊男はスマホを萌夏の手に握らせた。その大きな手が萌夏の手を包む。
「急な出来事で戸惑っていると思う。
できるだけ、力になりたいと思う。
何でも言ってくれてかまわない。」
「…。」
「いらいらしたり、怒ったり、叫んだり。
『流生』の人達には、当たり前の事なんだ。」
熊男の声は、見た目より若く聞こえて、穏やかだった。落ち着かせる口調だ。
萌夏が大きく息をついた。
ゆっくりと息を整え始める。
その様子を見て熊男が手を離した。
「当たり散らして… 悪かったわ。」
萌夏は、そう言うと床にしゃがみ込んでしまった。
「だ、大丈夫かっ!」
熊男が萌夏の腕を支えた。大きな手が腕を握ってくれている。
「…大丈夫よ。
それより、痛いわ。」
「あ、」
熊男が手を離した。
萌夏が手で熊男を押し返した。
「…触らないで。」
「え、」
熊男が萌夏から離れた。
困ったのか顔を背けて、立ち上がった。
萌夏も顔を拭って立ち上がった。スマホをテーブルの上に置く。
そして、熊男を見上げた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「?」
「貴方の名前。」
「え?」
「ちゃんと、名乗ってなかったわ。
私は、最上 萌夏。」
「…レオン・グローヴナーだ。
ロッテから聞いてなかったか。」
「本人がちゃんと名乗らないと、対等に話ができないわ。」
「…確かに。」
萌夏はテーブルの上の名刺入れをとった。中から自分の名刺を取り出したが、紙がふやけて印字が馬鹿になっている。読めない。
「これも役に立たない。」
「なんだ?」
「名刺。お互いの連絡先を知らせるのよ。
でも、この世界じゃ、意味ないわね。」
「えっと…」
毛むくじゃらの顔の向こうが困っているようだ。
「…ロッテは、どこまで話したんだろうか。」
「何を?」
「…ここのこと。」
「聞いたのは…、
月が二つあって、それが一つになるとき空が裂けて、別の世界のものが流れ込んでくる。
私みたいに。
その世話をするのが、グローヴナー領主だそうね。」
レオンが頷いた。
「『流生』って言ってたわ。」
「そうだ。」
「『転生』とは違うの?」
「『転生』?」
「私のところでは、別の世界、異世界って呼んでいるのだけど、死んだ人間が異世界に生まれ変わって、でも元の世界の記憶や知識を持ったまま、新しく生きることを『転生』って言ってる。
小説、物語りやマンガのジャンルで確立しているわ。
それなら、私は元の世界で死んで、この世界に『転生』しているんじゃないの?」
レオンが口元に手をやった。何か考え込んでいる。
「…前に、『流生』してきた人物が同じようなことを言った。
だが、『流生』は少し違うと思う。」
「違うの?」
「…死んだ人間は生き返らない。」
「そうね。ここでもそうなの?」
「当り前だ、生き返らないから『死んだ』だ。
『流生』は生まれ変わりじゃない。来る前の世界と同じ姿なのだろう?
それに『流生人』の中には、もとの世界に戻った者がいる。」
「え!」
思わず、萌夏から大きな声が出た。
(元の世界に戻る!?)
「空が裂けて流れ込んで来るんだが、まれに裂けた空が吸い上げることがある。」
「吸い上げるって?」
「そのとき、吸い上げられれば元の世界に戻るらしい。」
「…。
どうしてそんなことがわかるの?」
「『流生』でやってくるのは、人だけじゃない。物もやってくる。
流れ込んできた物を集めて持ち帰って調べるのも当家の仕事なんだ。
別棟に保管庫がある。そこで集めたものを分類して、片付ける。」
「どうするの?」
「我々にも役に立つものだったら、使わせてもらう。」
「あ!」
「なんだ?」
「救難発煙筒。私を見つけたときに点けたわよね。」
「きゅう? ああ、『赤煙筒』のことか。」
「あれはすごく便利だ。離れている仲間に居場所を知らせることが出来る。」
「作っているの?」
「いや、しくみがわからないのでな、作ることはできない。『流生』で手に入ったものを使っている。大事にしている。」
(技術的には劣る世界ってことね。電気もないし。)
「『流生』でやってくるものは、いつも同じじゃない。似たようなものも変わってきているし、クロードが言うには、新しいものの中に、我々の世界だと思われる話もあるらしい。時には、帰っていった『流生人』の荷物がまた、流れてきたそうだ。」
「クロード?」
「保管庫の…蔵の番人で『蔵人』と呼んでいる。彼が『流生』で手に入ったものの分類と管理をしてくれている。
彼は、『流生人』だ。」
「!?」
「貴女と同じだ。」
「『流生人』…。
他にもいるの?」
「…。」
レオンが口を噤んだ。
「少ないの?」
「えっと、急にこんな世界に来て、たいていはおかしくなる。」
「そうね、パニくるわね。」
「我々と意思の疎通ができないまま、石のように動かなくなったり、食べることを拒んで…」
「…。」
「ちゃんと、保護しているし、安全に暮らしてもらえるように努力している。
だが、」
レオンが溜息をついた。
「死なれてしまう…」
小さな声だった。
「…私は、電車に乗ってて、気づいていたらここにいたわ。あの電車が巻き込まれたなら、私みたいな人がもっといるんじゃないの?」
レオンが俯いた。
「貴女のように何事もなく『流生』できた人の方が珍しいんだ。」
「じゃ、」
「…あの場所、泥でぬかるんでいただろう。」
「そうね。」
「あの泥が、『流生人』になれなかった者の末路だ。
今日のは、とても量が多かった…。」
萌夏は言葉が出なかった。
◇◇◇
レオンは黙ったまま立ち尽くしていた。視線は下を向いている。
萌夏も同じようにしている。随分と長い時間そうしているような気がする。
『流生人』になれなかった者の末路があの泥だというなら、私は人の屍の上に立っていたということか。屍の泥に汚れた荷物だから、彼らも洗い落さねばならなかったのだろう。洗濯されたPCもワザとではなく、屍泥を落としてくれたのか。
(好意的に、受け取りすぎだわ。)
萌夏は頭を振って顔を上げた。
「で、いつまでそうしているつもり?」
「え?」
レオンも顔を上げた。
「荷物を持ってきただけでしょう。用事は済んだんじゃないの。」
「ああ。」
レオンが思い出したような声で答えた。
「済んだな。」
萌夏がレオンを睨みつけた。
「言っておくけど、女の部屋よ。」
「え?」
「用事が済んだなら出て行って。」
「あ、」
「それとも、この世界の男は、女の部屋に居座るのが当たり前なの?
独り者だから?」
「い、いや、そういうことは無い!
し、失礼した!」
レオンが慌てて部屋から走り出て行った。ドアが大きな音を立てて閉められた。
そのあたふたした後姿に笑みが浮かぶ。
「これでも、独身女なのよ。
多少は、…ね。」
「身を守らせてもらわないと…」
萌夏は、自分の肩を抱いた。
◇◇◇
「あー!」
レオン・グローヴナーは声こそ出さなかったが、宙を仰いだ。
慌てて外に出てから、肝心なことを忘れていたのに気付いたからだった。
(いまさら、戻れない…)
表情が情けなくなるが、前髪と髭が隠している。
「何をやっているんですか、レオン。」
彼に呼びかけたのは、シャーロッテだ。腕組みをして、兄を見上げた。
「出てくるのがもう少し遅かったら、突撃してましたわ。」
「!」
妹の顔が怖い。
それを避けるようにレオンが歩きだす。
ロッテも並んで歩き出す。
「モカ様はご婦人ですよ。」
「モカ様?」
「ええ、サイショウ・モカ様とお聞きしました。」
「モカ様…、そうお呼びしているのか。」
ロッテは、フフと笑ってからレオンを見上げた。
「いくらご領主のお役目でも夜半にご婦人の部屋はいけません。」
「…見張ってたのか。」
「もちろんです!」
レオンが肩を落とした。
「まあ、貴方様にそういうことが出来るとは思いませんが。」
「ロッテ。」
妹が微笑んだ。
「モカ様は、しっかりなさっていたでしょう。」
「うん。
あんなにしっかりした方は久しぶりだな。
クロード、以来だ。」
「…。」
「それにほとんど怪我もなかった。」
「そうですね。でも、足を痛めておられた?」
「俺の、治癒魔法は効いたようだ。」
「よかった、と思う。」
レオンがまた肩を落とした。
「だがな、陛下がおいでになるのを言いそびれた。」
「それ、一番大事なことじゃないですか!」
「面目ない。」
「陛下は明日の朝、王都を出られるでしょうから、着くのは夕方ですね。
それまでにモカ様のご用意をしておきますわ。」
「頼む。」
「レオン、」
「明日は貴方も綺麗にしてくださいね。」
兄は妹の厳しい口調にうな垂れた。