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瀬那は自分専用PCを持っている。友達には教えないが、日々チェックしているメールアドレスもある。それならスマートフォンで良さそうだが、彼女の中ではだいぶ違う。持ち歩くだけで、一気に苦痛なものに変わってしまう。
家のPCもできれば学校と切り離していたい。
それなのに────
「PCのメールならあるよ……」
「じゃあ、教えてくれる?」
令司には、アドレスを伝えてしまった。
ドドドドドドドド
激しい雨が緩急無く、ひたすら強く降り続く。そして……
ピカ バーン バリバリバリッ
雷が雨空を切り裂き光り、どこか近くに落ちる音。どう考えても外に出るのは無理だ。そう思って瀬那は窓際の自分の席に座った。学校のガラス窓は雷を見物するにはいい。大画面で大スペクタクル。
令司がちゃっかり彼女の机に腰掛けようとするのを、彼女は目だけで抗議する。彼はきまり悪そうに離れ、近くの椅子をギギギっと引き寄せる。彼女が「近いよ!」と言いたくなる寸前まで近づけて座る。長い足を折りたたみ膝を抱えた。
「雷、怖いの?」
「うん」
嘘だな、と瀬那は思うが放っておく。彼も外を見ていた。
「むべ山風を嵐といふらん、だな」
「本当に。……その句、面白くて私好き」
山と風を縦に書いたら嵐、と歌っているのを知ったとき、瀬那は笑ってしまった。微笑む彼女に、俺も、と令司が言う。
「読み手、引き受けてくれてありがとう。俺、高橋が歌を読むの、好き」
彼の口から出た、好きの言葉にドキリとする。いや歌の話だから、と彼女は自分の心をなだめる。令司の声に熱がこもった。
「古文の授業なんて全然面白くないのに、高橋が読むと和歌に色がついていくみたいだ。こんなに綺麗なものだったのかと驚いた。それからは授業で高橋の番になるのが楽しみで。……でもそれじゃ足りなくなって誘った」
彼はずっと彼女の方を見続けている。気づいても瀬那は外を見続ける。歌の話をしているだけなのに、そうと思えなくなって苦しい。彼女は急いで話題を変えた。
「葉山は数学が好きだと思ってたから、意外だった。誘ってくれてありがとう。おかげで楽しい。──もう数学オリンピックは出ないの?」
令司は目を細め、どんどん不機嫌そうな顔になっていく。
「高校二年までしか出れない。それに……俺の汚点だから。それ」
瀬那は口が開いたまま止まる。成績上位者のどこが汚点?! 彼は顔を背ける。
「中学はずっと予選落ち。ようやく高校一年で残ったけど、上位者の最下位。一緒に勉強した友達は、代表に残って国際大会に行った。俺が必死でやった結果がこれだ」
十分凄いよ! というのは彼女の本音。でも彼にとっては違う。
「悔しかったの?」
「とても。悔しくて泣きながら家に帰ったら、父親が言うんだ。『あれだけやったんだ。もう十分だ。令司の他の才能を伸ばせ』って……」
「それで色んな部活やってるの?」
「まあな。数学以外の何かを探したい」
必死で言う彼が、痛々しく見えた。瀬那は彼を見つめ、思い切って言う。
「数学はもう面白くない?」
令司の顔が歪み、下を向いて黙りこくる。彼女はポツリと話し出した。
「私の父ね。もう二十年も版作りしてるのに、まだ半人前なんだって」
彼は顔を上げる。
「印刷が好きで転職して業界に入ったけど、技術が足りない。そのくせ凝り性で、利益度外視。経営も赤字」
「え……」
令司の顔が曇る。瀬那はにっこり笑った。
「大丈夫。家計は母が担ってるから。父は母の犠牲のもと好きなことをしてる、とも言える」
「高橋は……お父さんが好きなのか」
彼は問うように聞く。彼女は顔をほころばせる。
「うん。父親としてはかなり問題有りだけど。仕事ぶりは好き。好きなことを仕事にしてるって、分かるもの。──私さ。自分の声がずっと嫌いだったの。でも葉山のおかげで、言葉が面白いと気づいて、歌を読むのも少しだけ好きになった。きっかけをくれて、ありがとう」
令司は眩しそうに空を見上げた。
真っ黒だった空が少し明るくなったように見える。雨は止まないまでも、激しさを失っていた。
彼は空を見上げながら、椅子から立ち上がる。
「帰るか」
瀬那は素直な気持ちで頷く。令司はロッカーに向かい、大きな紺色の傘を出す。バンっと勢いよく開いた。風圧が彼女に届き、前髪を揺らす。
「入れてやろうか?」
彼は、にいっと彼女に笑いかける。
「うん。ありがとう」
彼女は、鞄の中の折りたたみ傘の存在を忘れることにした。