夢の夢こそ
微睡むように浮かぶ花、流れゆく雲。
運河のほとりを行き交う人、木々が落とす影。
緑の小高い丘、小路の奥の日傘。
全部全部、紗矢がその指で教えてくれたものだ。
私が指を落としても、かさかさぼそぼそと無機質にしか歌わないピアノ。親に練習しろと言われても、無理矢理習わせたのはそっちだと言って家ではろくに触ってこなかったそれの前で私は立ち竦む。
正確には椅子に座って呆然と楽譜を眺めている。
何をどうやって弾けばいいのかわからない。
紗矢が死んだ。
行方不明となっているが、この世にはいないだろうとなぜだか確信していた。
「せっかくあの酷い事故で一命を取り留めたのに、失踪なんて」
「また学校に通えるところだったのに。早く見つかると良いわね」
「奇跡的に助かったのに、ご家族の方も可哀想ね」
同じピアノ教室の生徒達やその親の口からそんな言葉が出てくるたび、私は心の中でそっと耳を塞ぐ。
みんなの中では紗矢は誘拐されたことになっているらしく、遅くに一人で帰っちゃ駄目だからと、私もレッスンの帰りに親に迎えに来てもらうことになった。
紗矢が目の前で車に轢かれて、しかもその後紗矢がいなくなったからショックで私の口数が減ったと母は考えているらしく、事故現場の交差点を通らないようにわざと遠回りして帰る。
でも本当は、私は耳を澄ませているのだ。
うんと無口だった紗矢。学校では同じグループでもないし、どこかに遊びに行くような関係でもなかった。ただ家が近いから親同士で示し合わせて、一緒に帰れるようにレッスンの曜日と時間を合わせてただけ。
てんでやる気のない私が指を引っ掛けては優しい先生を苦笑させ、せめてツェルニーくらい高校生までには終わらせなさいと母に溜息を吐かれている頃、紗矢は記号で真っ黒の意味不明なソナタの曲集を弾いていた。
ピアノの練習曲なんて細かくていかつくて暗くて重くてつまんないのばっかりだったけど、紗矢が上手くてすごいことだけはわかった。
でも私は知ってる。紗矢が好きなのは、ゆったりしていて軽やかで眠くなるような曲だって。
去年くらいに発表会の曲を決めるとき、紗矢が珍しく希望した曲があった。結局、その曲は紗矢のレベルでは簡単すぎるからって他のリストだかショパンだかに決まったけど。
その後、うっかり家の鍵を忘れた日、紗矢の家に上げてもらったことがある。その時紗矢に言われた。
「由美ちゃん、あの曲やっぱり好きで、練習だけはずっとしてたんだ。聴いてくれる?」
あの曲、って言われても私は全然ピンと来てなくて、曖昧に頷いた。
それを見て紗矢は安心したようにふっと笑うと、白いレース付きのカバーが被せられたアップライトピアノの蓋を開けた。
とても小さい音からその曲は始まった。家だから控えめな音で弾いてるのかな、くらいに思ったのは一瞬だけだった。左手のなめらかな音階に右手の主旋律がりん、と重なり始めた瞬間、静かな音しかないその空間いっぱいに水の波紋が広がるように見えた。
木漏れ日がものの輪郭を優しくぼかして空気をきらめかせるように。
朝もやの中で向こう岸にいる誰かの存在に気付くように。
夜と昼の間を旅する風となって小舟を見送るように。
時に不協和音を挟んで、時にテンポを揺らして、時にうんと高くで囁いて、それでも全体のリズムは崩れることなく。
白黒だけの鍵盤でこの世界の本当の姿を写し取ったような繊細さのまま、遠くに行くように曲は終わりを迎えた。
「……ちょっと、暑いね」
何事もなかったかのように立ち上がって窓を開けた紗矢の前髪は少しだけ汗ばんだ額に貼りついていた。
感想か言えばよかったのに、私はその横顔に何の言葉もかけられなかった。
ただ、興味なかった美術の授業中に教科書をぱらぱらめくった時に睡蓮やフランスの川なんかの絵が目に留まったりとか、そこまで大袈裟じゃなくても、ふと見上げた朝の空が複雑な色をしていたりとか、そういう時に紗矢のピアノが頭の中に流れ始めるようになった。
でも私の記憶だけじゃうまく再生できなかった。たぶん同じ曲を動画サイトとかで聴いても覚えられなかっただろう。
時々、わざと鍵を忘れたことにして家に上がり込んだ。自分でもなんでそんなことしたのか、その時はわかっていなかった。
紗矢は私のことを責めたり疑ったりせず、同じ曲を同じように弾いてくれた。でも聴く度に、光の射し方が季節によって変わるように、違うもののように感じられた。
紗矢のことを思い出しているうちに家に着いて車を降りる。
夕方になっても蒸し暑い空気がじっとりと身体に纏わりつく。ああ、やだな。また汗かいちゃう。そんなことを考えていると、びゅう、と風が強くなった。
雨でも降るのかなと思って空を見上げたけど、重いグレーの雲に覆われた空なんかそこにはなかった。代わりに目に飛び込んだのは、黄色とオレンジ、紫に薄い青。
一言じゃ言い表せない複雑な色の空に、静かに動く雲。
一瞬たりとも同じではいられない世界。
その時私は理解した。紗矢がこの世にもういないと確信した理由を。
タイヤの下敷きでずたずたになって神経も切れた手。もう二度とピアノを弾けなくなった手。
言葉で表現するにはあまりにも途方もない世界と紗矢を繋いでいた手が、なくなってしまったのだ。
あの曲がまた頭の中を流れ始める。ピアノの前に座っていても流れてくれなかったのに。私の中の再生では相変わらず正しいのかどうかわからない。今になっていくら耳を澄ませても、あの音の記憶はただただ色鮮やかなだけで、輪郭はずっとぼやけているのだ。
たった一つ覚えている確かなことは、あの曲のタイトル。
ドビュッシーの「夢想」。
夢の中にいた紗矢を、終わる夢が連れて行ってしまった。それも、うんと遠くに。
紗矢の夢に魅入られたまま、世界の曖昧さを見せつけられたまま、私は置いて行かれたのだ。