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満月の輝く夜に  作者: 剛田豪
第三章 十六夜
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 望は、自分でも驚くほど冷静だった。

 こんな狂気の、こんな惨劇を目の当たりにしても動ずることなく警察に通報する事を選んだ。ただ、携帯を持つ手は震えていた。恐怖からではなく、目の前の狂った男への怒りに打ち震えていたのだ。生まれ持つ正義感が男を許せなかった。非道な輩にこの手で制裁を加えたい衝動に駆られていたが、彼女は今すべき事が何かを冷静に判断した。

 だが、

「あれ?なにこれ・・・」

 電話が繋がらない。

 スマホ画面の左上の隅に『圏外』という文字が表示されている。

「アンテナどこ行った?てか、こんな文字初めて見た・・・」

 昨日の午後、根木神社付近で結界に阻まれた時でさえ画面のアンテナは立っていた。でも今は、その場所に見慣れない文字がある。

「これって、まさか・・・」

「ええ、『呪い』です」

 ガブリエルは、狂気の高いテンションから穏やかな笑みへと戻っていた。

「この建物には『呪い』をかけてあります。ですから、電話は通じませんよ『テレパシー』もね」

「ふん、なんでもお見通しってわけ?でもさ、その『呪い』とか結界で、なんで電波が届かなくなんのよ!どんな理屈よ!」

「さて?仕組みは解りません。ですが、最先端科学である量子力学だって原理は未解明のまま様々な分野で応用されています。『呪術』も然り、経験則や結果の予測で術式を構築できるのです」

「ふ~ん、便利な魔法だこと」

 望は男から目を離す事なく、ゆっくりと礼拝堂のドアへと歩き出した。その様子を見ながら静かに声を響かせるガブリエル。

「量子論や原子力、私が生まれた四百年前は、そんな科学も魔法と区別できませんでしたよ。仕組みどころか認識すらされなかった。今、魔法と呼ばれている術も、いずれ科学にカテゴライズされるかもしれませんね」

 男の講釈など望の耳には入らなかった。ガブリエルに喋らせることで時間を稼ぎ間合いを取って出口へと近づく事が目的だった。その狙い通りにアーチ形の両開きのドアを背に立った望。男は少女を見て、溜息をつくように笑った。

「内側からは開きませんよ。『呪い』をかけてあると言ったでしょ」

 男の言葉を聞き、望の中で昨夜の根木神社での出来事が甦る。結界に触れ受けた衝撃、静電気に見舞われたような手の痛みを思い出す。ほんの少しだけ躊躇したが、少女は不遜にも礼拝堂の扉を足蹴にした。

 バン、という音が高い天井に響く、それでも細長いドアはびくともしなかった。

 壁を蹴った様な感触が足に残ったが痛みを覚える事は無く、少女はすぐに手で扉を開こうとした。しかし、その古風な木製のドアは微動だにしない。

「なにこれ?」

 苛立ちながらドアを押したり叩いたりを繰り返す望。彼女に憐れむような視線を向けた男の言葉が静かに響く。

「仲間を置き去りになどできませんよ・・・」

 ドアを叩く手を止め望は男を無言のまま睨んだ。男は再びあの狂気の笑みを浮かべ声高に言う。

「あなたも殉教者の一人なのですから!」



 超自然現象。多くの人々はそんなものに遭遇する機会など滅多になく、伝承や物語の中だけにそういった事象を見聞きする。

 御手洗みたらい壮一郎そういちろうも、スーパーナチュラルとは無縁な人生を送ってきた。

 子供の頃に興味を持ったUFOやUMAは、大人になるにつれその姿や存在が消えて行き、そういった類の単語は語彙の片隅へと追いやられた。現実世界で生きる現実社会の一員としての当たり前の平穏な日々。人と違う所があるとすれば、政財界の雄、御手洗家の後継ぎとして生まれた事だろう。

 そんな彼にも、超常現象に関わる人々、その世界を信じそこに身を置く者たちと出逢う機会があった。

 十六年前、一人娘が生まれた日の出来事。

 妻が入院している産院で、壮一郎は不思議な老人の訪問を受ける。

 アラブ人のような顔立ちの来訪者は古風なデザインではあったが西洋のスーツを着こなしており、通訳の白人女性を伴っていた。突然の来訪を詫びる老人の言葉はラテン語のようにも聞こえたが、五か国語を操れる商社マンの壮一郎にも聞き覚えの無い言語だった。通訳の女性が介した老人の自己紹介によれば、彼は『三博士教会』に所属する十字教の信徒で、『星の導き』に誘われた壮一郎の娘の誕生を祝いに来たというのだ。

「ありがとうございます。ですが、どなたか他の方とお間違いではありませんか?」

 丁寧に謝意と疑義を示す新米パパへ、遠方からの来訪者は祝辞を述べる。

「先程お生まれになったあなたの娘は、神のご加護を受けた『レセプタクル』なのです。主の現世への復活を託された子なのですよ。我々は彼女の誕生を喜ばずにはいられません」

レセプタクル?」

「主、ジーザスの血を受ける者。あなたの娘が授かる子供は、主の転生です」

 生まれたばかりの娘が産む子供の話をされ、壮一郎は少しばかり腹を立てた。不愉快になりながらも、彼は紳士的に言う。

「無神論者という訳ではありませんが、私はどの宗教も信仰しておりません。今後も、その予定はありませんので、勧誘でしたらお引き取りください」

 壮一郎の毅然な態度と憤りを露わにした眼差しに、老人は深々と頭を下げた。

「気分を害されたなら、謝罪いたします。そして、改めて娘さんの誕生を祝わせてください。それと・・・」

 顔を上げた十字教の信徒は、瞳に強い意思を込めて言った。

「くれぐれも、彼女を邪悪なものに近付けないでください」

 その言葉は通訳を介さず、壮一郎の脳へ、心へ、直に届いた。

 不思議な感覚に捉われている壮一郎は更なる不可思議な状況に陥ってしまう。周囲の情景が光輝きホワイトアウトしたのだ。同時に、耳に入る声や雑音はエコーがかかり消え失せる。眩い光に包まれ体が空間と同化して行くような錯覚の中、漠然とした神聖な存在との邂逅を果たしたかのようにも思えたが、すでに意識は飛んでいた。

 気が付くと妻のベッドにもたれかかって居眠りをしていた。

 壮一郎の頭を撫でる愛妻は優しく笑いかける。

「あら、起こしちゃった?」

「あれっ・・・僕は・・・」

「出生届の話をしながら寝ちゃうんだもの・・・」

「出生届?」

「そう、かえでの出生届」

「楓・・・僕の娘・・・」

 妻の微笑みは、もう母親のそれであった。

「あ、あの老人は?あの、アラブの男は?」

「やだ、あなたったら、寝呆けているのね、どんな夢を見ていたの?」

「夢?いや、僕はさっきこの部屋で・・・」

 ベッド脇の椅子から立ち上がった壮一郎の膝の上から一冊の本が落ちた。

 聖書だった。


 十六年経った今でも、壮一郎はあの日の事を鮮明に思い出す。

 ただ、あれが夢だったのか、現実だったのか、未だに分らない。彼自身、心の中で決めかねている。

 娘の寝顔を見つめる壮一郎へ、あの言葉が甦る。

『彼女を邪悪なものに近付けないでください』

 邪悪なもの。邪悪とはなんだ?

 不正、性悪説、マキャベリ・・・様々な単語が壮一郎の脳裏を過ぎる中、昨夜聞かされた話がプレイバックされる。

『刀の念に感化された竜造寺一門の陰陽師が、楓さんを傷つけてしまいました』

 竜造寺りゅぞうじ真澄ますみが沈痛な面持ちでそう語った。

 土曜日の夜、電話連絡を受け代々木の病院へと向かった壮一郎。彼を出迎えたのは娘の友人の母だった。十年来の付き合いがある和装の女は、事の成り行きを話し真摯に陳謝した。医師からは、軽い打撲で外傷は無く後遺症も残らないであろうと説明を受け、壮一郎は一先ず胸を撫で下ろす。

 そんな楓の父親へ竜造寺家の女当主は言う。

『楓さんをこんな目に遭わせてしまい、本当に申し訳ありません。どのようにお詫びをさせていただいても、お許しいただける事ではないと承知しております』

 繰り返す謝罪の言葉と共に、彼女は警察への被害届や告訴をも甘受する旨を伝えた。

「娘と話してから判断したいと思いますが、おそらくそのような事には・・・」

 壮一郎は冷静だった。意識は無いものの、娘の無事を確認して正常な思考を展開する事ができた。かのように思えたが、大人の対応をするその心の奥底では『邪悪なもの』という単語がリフレインしていた。

 『凶刃』?なんだ、それは・・・日本刀に意思がある?人を惑わし操る?そんな事があるのか?この現代社会で・・・

 壮一郎の妖し気な刀への想いは、竜造寺家へも向けられた。

 付き合いの古い娘の同級生の家、名家である竜造寺が神職の家系である事は知っていた。だが、陰陽師などという職業が現代に残存していて、そんな小説でしか目にした事の無いものを生業としていたなど知る由も無かった。

 自分の知らない世界がある。人知を超えた存在とそれに対峙する者がいる。

 それは、こんなにも近くにあった。

 娘の病室でそんな事に想いを巡らせる壮一郎の脳裏を掠めるアラブの老人の顔とあの言葉。

 御手洗楓の父は竜造寺真澄に訊いた。

「ご存知でしょうか?『レセプタクル』というものを・・・」


 日曜日の朝、瞳子ひとみこは真澄と共に竜造寺本家の座敷にいた。

 畳の上に正座する母の横顔は険しく、そして厳しかった。だがそれは瞳子にとって頼もしいものであり、彼女に安堵感を与えてくれる。

 昨日までは、そんな母の表情から逃げていた。

 きっとそうだ、そうに違いない。少女は自問自答する。

 弱さ故、彼女の自分に対する期待を重荷に感じていた。だから『凶刃』に付け入る隙を与えてしまったのだ。その結果、親友を傷つけた。楓が怪我をしたのは氏原のせいではない、ましてや母の責任でもない。自分の弱さが招いた事だ。

 瞳子は自責の念に駆られ、自らを戒めていた。

『責任は全て私にあります』

 昨夜、楓の父親にそう言った母。彼女の凛とした背中と、御手洗壮一郎の穏やかな顔を少女は思い出す。ベッドで眠る楓の顔を思い出す。そして、初めて耳にした『レセプタクル』という言葉を。

 母は病室で言っていた、レセプタクルには『聖印』が刻まれていると。

 小学校の頃から見続けている親友の顔のどこにそんな印が付けられているのだろう?

 知識があれば認識できるらしいが、自分にもできるのだろうか?

 親友は、御手洗楓は、十字教の神の復活の為に生まれて来たというのか?

 否、彼女は自身の人生を生きる為、謳歌する為に生まれて来たのだ。

 私が、竜造寺家を継ぐ為に生まれて来たと同時に、私自身の人生を生きる為に生まれて来たように。

「失礼いたします」

 座敷の襖が開き、二人の背後から声がする。

「報告の手配が整いましたので、お手元の眼鏡をご着用ください」

 瞳子だけが「はい」と返事をして、母娘は同じ型のVRグラスをかけた。

 これから、VR空間を利用した狼事件の経過報告が行われる。

 眼前に広がる仮想空間を見据え竜造寺瞳子は決意を新たにする。

「この事件を終わらせる。それが私の責任。私の人生、私が選んだ私の道」




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