黒洲家の食卓に隠し事はない
親バカでも贔屓目でもなく、タロは幼い頃から身体能力も頭脳の明晰さも常人と比べ物にならなかった。それは、彼の出生に起因するものであり、トランシルバニアの血が成す事であるのは明白であった。同年代の子供等と自分が違う事、人間の体というものは脆くすぐに壊れてしまう事を陽子は愛しき息子に幼い頃から諭していた。叱ったり怒るわけでもなく、優しく愛情を込めて。優秀で繊細な心清き優しい一粒種にゆっくりと大事に水を与えるかのように。
この子は何があっても私が守る。
大袈裟ではなく、自らの命に代えても・・・
この愛しく美しき者を・・・
・・・やはり・・・親バカかしら?・・・
女親というものは家族、特に子供の表情を読み解くのが上手い。陽子も例外ではなく、タロが何か悩みや問題を抱えていればすぐに気付く。
ただ、十代特有の難解な心模様は、ヴァンパイアとの混血である息子も同じく持ち合わせている訳で、ストレートな性格の母といえどもやはり細心の注意を必要とする。
しかし、世界一仲の良い親子という親バカ的自負を持つ陽子にはタロが隠し事などせず全てを話してくれるという自信がある。その根拠希薄な自信を背に今日も愛息に話かけた。
「どうしたの?味が気に入らない?」
「・・・あ・・・いや・・・」
食事中箸を止めていたタロは、陽子の声にはっとしたようだった。
「箸の扱いが苦手ならフォーク持ってこようか?最近、上手になって慣れてきたと思ってたんだけどなぁ」
「いや、大丈夫。何だっけ・・・日本の諺で・・・郷に入れば・・・」
「そう、郷に従え。ふふっ」
母の笑顔につられ、タロの表情にも笑みが漏れた。
「で、何かあったの?」
結局、ストレートに訊いてしまう陽子であった。
「・・・ああ、帰りに・・・ちょっと・・・」
タロは左の頬を軽く押さえ、先程の公園での出来事を思い出していた。
「アンタ、人間じゃないでしょ。」
望の唐突な言葉にタロは思わず視線を合わせてしまった。
(こいつ・・・一体・・・何者?・・・)
タロは無言のまま少女の顔を見下ろしていた。
「やっぱりね。でも、安心して、私、プレイヤーじゃないから」
(?・・・プレイヤー?・・・)
タロにとって自らの素性が公になろうが何ら問題は無かった。
ただ、このクラスメイトの言動は、まったく不可解であった。
不良たちが怪我するのを彼女が未然に防いだかのような発言、タロの正体を知っているような口ぶり、そして、それを臆することなく彼に接する態度。転校生の秘密を守ってやったと言わんばかりにも思えた。
今までに出会った事の無いタイプの人間、何か直感のようなものでタロはそう感じていた。
動揺はしていないものの、得体の知れない不思議な感覚に囚われていた。
黙って自分を見据える少しグレーを帯びた緑色の瞳に、小悪魔さながらの笑顔で委員長は言った。
「私ね、匂いに敏感なの。だから、アンタみたいな存在は、匂いでわかるのよ」
後ろ手を組んで、また悪戯っぽくクンクンと匂いを嗅ぐ素振りを見せて笑った望にタロはやっと口を開いた。
「フッ・・・匂い・・・か・・・」
今度は転校生が目を閉じながら悪戯っぽく笑うと、少女の首筋近くに、すっと顔を近づけ小さな声で言った。
「俺も、匂いには敏感でね・・・」
花の香りを吸い込むかのような仕草を至近距離でされた少女の顔は瞬時に赤面し、体が一瞬硬直したかのようだった。
「・・・お前、B型だな。・・・で、ヴァージンだろ・・・」
『R』の発音が本格過ぎて日本語には聞こえなかったが、確かにその単語は『処女』を表すものだった。あまり経験が無いほど近くからその手の単語を耳元で囁かれた真面目な委員長は、さらに赤面し、あたかも湯気が出そうだった。
「な、な、何よっ!」
恥ずかしさやら何やら色々と入り交ざった言葉と共に、『パン』という乾いた音が公園に鳴り響いた。
望がタロの左頬を叩いたのだ。
「あっ・・・」
「・・・」
しまったと思わず声を発した望と無言のまま驚きの表情で彼女を見つめるタロ。
「ご、ごめん・・・つい・・・大丈夫?」
叩いた右手でタロの頬を心配そうに気遣う望に、タロは瞳を見開いたまま言った。
「・・・お前・・・何者だ?」
黒洲家のダイニングに陽子の快活な笑い声が響いていた。
「はははっ・・・それでターちゃん、どうしたの?『親にも殴られた事無いのに!』とか言ったの?・・・あははは・・・」
タロは面白くなさげに横を向いて溜息をついた。
(笑い事じゃないんだが・・・)
「・・・あは・・・はぁ・・・ごめんごめん」
笑いを押し殺しながら陽子が言った。
「でも、その子気になるわね・・・いろんな意味で・・・ふふっ」
タロには陽子の含みのある言葉が引っかかったが、まさに望の事が本当に気になっていた。
というのも、身体能力が優れているタロは、動体視力も無論常人のそれとは比較にならないほど優れていて、普通の人間、ましてや十代の女子からの打撃をまともに受けることなど無いはずなのである。
いくら至近距離とはいえ、女子高生のビンタなど避けようと思えば他愛も無いはずだ。
しかし、それが見事にヒットしてしまった。油断だのといったレベルの話ではなく、避ける間も無く殴られてしまった。
こんな事・・・初めてだ・・・
痛くは無いが、また左の頬を押さえ謎の少女の存在に思いをふけていると、母親が興味津々の笑顔で言い放った。
「今度その子、ウチに連れてきなさい。」
「はい???」