儚く散ったママの夢
黒洲・トランシルバニア・陽子は、息子タロが日本の高校に無事入学できた事に、ひとまずは安堵の溜息を漏らしていた。車の後部座席の窓から頬に当たる初夏の風は、日本に帰ってきた事を実感させてくれた。
「今度は大丈夫。きっと。」
希望的観測かもしれない。何一つ根拠が無いからだ。
ただ、ロンドンのエリート校とは違う気がする。自分の母校は、きっと息子を受け入れてくれる。そして、ターちゃんもあの学校を好きになってくれるはず。
「大丈夫、きっと・・・」
三月、ロンドンにいた頃は、日本行きを半ば諦めかけていた。
そう、あの忌まわしい出来事の後は・・・
陽子は、あの日、朝一番の便でヒースロー空港へ飛んだが、警察署に着いたのは昼過ぎだった。
昨夜ロンドンの警察から連絡が入ってから、すでに十二時間以上が経過していた。
入り口で彼女を出迎えたのは、昨晩無理を言って頼んだ弁護士だった。彼は昨夜一睡もしていないであろう陽子に気遣いの挨拶をすると、歩きながら事情説明を行い、未成年ということもありすぐにでも保釈は認められるであろう旨を伝えた。
「酔っ払い相手に、傷害事件だなんて」
苛立つ様子で呟く陽子の隣を歩く弁護士が目配せをすると、一人の恰幅の良いイングランド人が近寄ってきた。
担当の刑事がIDを見せ経緯を説明しはじめた。
「性質の悪い酔っ払いに絡まれて自分を守ろうとしたのでしょう。ご子息に怪我はありませんが、セーターが破かれていまして、かなり怖かったのでしょう、私共が何を聞いても全く話してくれません。それに、ペンダントでしょうか?十字架を決して手放さないんです。まぁ本来、拘留中は・・・」
話を遮るように陽子は刑事に訊いた。
「あの、息子には、いつ会えますか?」
刑事はちらりと弁護士を見てから陽子に向き直り、右の掌を上向きにして「どうぞ」と言った。
タロが座っていたのは、飾り気の無いテーブルが一つと事務用の椅子が四脚置いてある何の変哲も無い小さな部屋だった。
係官がドアを開けるや否や、母親は座ったままの息子に抱きついた。涙ぐみながらやっとの想いで「大丈夫?」と囁いた。破れたセーターの代わりに警察署があてがってくれたスエットを着ていた少年の瞳は、徐々に生気を取り戻していった。そして、夢想しているかのように遠くを見ながら搾り出すように言葉を発した。
「・・・ごめん・・・ママ・・・」
警察は概ねタロに好意的で、陽子も弁護士立会いの下、調書を取られたが加害者側的な扱いも無かった。ただ、相手の怪我がひどく入院してしまった為、何らかの法的処置は免れないであろうというのが彼らの見解だった。夕方、タロの保釈が認められたものの裁判所の許可が下りるまで、ロンドン市内での滞在を余儀なくされた。相手側の弁護士と協議し示談を成立させ、不起訴または起訴猶予に持ち込もうという陽子が雇った弁護士の戦略を他所に、事態は思わぬ展開を見せた。
今回の傷害事件の被害者が、切裂きジャック事件の捜査線上に上がっている男だったのだ。
警察は壊された携帯電話の画像データを復元し、それを根拠に男の自宅の捜索令状を取った。すると、パソコンの中から大量の児童ポルノのファイルと共に殺された三人の幼女たちの画像が出てきた。しかも、それらは男のデジカメによって撮影されたものであった。
すぐさま男は重要参考人から容疑者となり、本格的な取調べが始まった。しかし、容疑者の供述には神や悪魔、ヴァンパイアなどの単語が頻繁に表れ、精神鑑定の必要性を窺わせ、捜査は意外にも難航の呈を示した。
場末の裏路地での傷害事件は完全に棚上げ状態となり、幼児連続殺人事件の証人としてタロは警察検察の双方に協力する必要が生じた。未成年という事もあり、警察からガードされマスコミの餌食になる事はなかったが、晴れて自由の身になれるまで一ヶ月を要した。
桜の咲く母国で、母校の入学式に母子二人で参加する母の夢は、儚く散ったのである。
「俺は、ヴァンパイアだ!」と言って、胸の十字架を引きちぎった後の記憶がほとんど無かった事に、タロは畏怖した。
言い訳をするつもりは毛頭無いが、あの時、あの胸糞悪い下衆野郎を少し懲らしめてやろうと思っただけだった。怒りは感じていたが、決して頭に血が上っていた訳ではない。
十字架を外しヴァンパイアの本性を顕にしても、冷静な人間の心は亡くさない自信があった。だが、それがどうだ?我を亡くし気が付けば、目の前には血だらけの下衆野郎が横たわり、パトカーのサイレンの音とざわめきの中、両手血だらけで立っている自分がいた。あの酔っ払いが死ななかったのが救いだったが、それは、無意識の内に拾い上げ握り締めていた十字架のおかげなのだ。この十字架の・・・
正直、あの獣が生きようが死のうがどうでも良いが、もしあの時この手で殺していたら、今俺は日本にいないだろう。そして母は・・・
未だに、精神鑑定とやらを繰り返し、罪を問えるかどうか揉めているらしいが、いずれにせよあの男の行く着く先は地獄しかないはずだ。それにしても、奴の名前が 『マイケル』 というのは上出来すぎる皮肉だ。
化学の教師の問いかけにも答えず、タロは雲を眺めながら自分を責めていた。
「そう、すべて俺の都合だ・・・」