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満月の輝く夜に  作者: 剛田豪
第一章 月不見月
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三月、ロンドンで

 三月のロンドンは厚手のコートが必要なくらいに寒い。春の到来を予感させるものは少なく、Spring has come! とは言い難い。月の最後の日曜日にサマータイムが始まるが、夏どころか冬の出口すら見えない。

 雨のビッグ・ベンがこの街の名物かどうかは別として、この時期もここでは傘が必須アイテムだ。

 人々を憂鬱な気分にさせる雨もタロにとっては違っていた。どんよりとした厚い雲は嫌いな日の光から遠ざけてくれる優しい存在に思え、降りしきる雨も不浄な街を洗い流してくれるように感じていた。


 しかし、この日のタロは雨模様を嫌悪する人々以上に憂鬱だった。

 半年ほど前に一週間だけ通い現在休校扱いにされている学校へ必要書類を取りに行かなければならなかったからだ。

 来月から日本の高校へ通うための書類、自分が行く事を望んでいない所が必要とする紙切れを、なぜ二度と足を踏み入れたくない場所へ取りに行かなければならないのか?

――郵送で十分だろ。それが駄目なら誰か他の人間が行けば良い話だ。――

『だめよ!自分で蒔いた種は自分で摘み取りなさい』

 母親の言葉が頭の中でリフレインする。



 タロは昨年の九月、ロンドンのとある学校に編入した。

 この国の教育制度は、日本で言う所の中高一貫教育であり、当時のタロの年齢は新入学のそれを超えていた。しかし、彼は国外からの留学生として、この国有数の名門と呼ばれる伝統校に入学を認められたのだった。

 タロは『通学生』という肩書きを拝領し校外から通う事を許されたが、基本的に全寮制であるこのパブリックスクールに在籍する生徒たちは上流階級のエリート候補生ばかりだ。

 タロ曰く、親や家のおかげで何の不自由も無く順風満帆といえる人生を送ってきたにも拘わらず、ここに入学できたのも自分の功績であり他人とはデキが違うと思い込んで人を見下すクソ野郎共の集まり。そんな掃溜めに自分が放り込まれた事が我慢ならなかった。

 当然、他の生徒や教師たちとも上手く付き合えず、入学早々幾つか問題を起こす羽目に・・・

 結果、入学して僅か一週間で彼はクビを言い渡された。

 実際には、名門と呼ばれる所にありがちな話だが、問題を大きくしたくないが故に直接退学処分にするのではなく休学届けを強制的に提出させ、後に退学願いを出すよう指示した。

 さすがにタロの母親もこれには閉口したが、入学に尽力してくれた知人たちにこれ以上の迷惑をかける事も出来ないと思い、学校側の指示もタロの意思も受け入れる事にした。

 同時に、彼女は後悔の念を禁じ得なかった。今まで息子に学園生活というものを経験する機会を与えなかった自分の愚行を。


 しかし、彼女の前向きな性格は決して挫けなかった。

 愛する息子に楽しく意義のある学生生活を送らせたい。その意志は固く曲がる事はなかった。

 そして、母親が思い付いたのが母校の楽しい思い出である。十代特有の悩みを分かち合えた友がいた、真剣に心配してくれた師がいた。辛い事も悲しい事も色々あったが、今となっては儚い夢のような出来事に思える。それでも、当時の自分にとって世界はその学園がすべてであった。今思えば小さな世界ではあったが、それはとても幸せな時間だった。

 日本なら新学期のスタートも四月であるし、時間的猶予もある。我が愛しき息子には、愛しき母校で楽しい学園生活を送らせよう。そう決意したポジティブな母は、精力的に動き、自分の古い知己知人たちの協力を得てタロの入学を取り付けたのである。



 一体この中にはどんな紙屑が入っていやがる。

 ロンドンのホテルのベッドで寝そべりながら、タロは大きめの茶封筒を玩んでいた。

「日本か・・・」

 三日後には、今いる生まれ育った場所から、また旅立たなければならなかった。しかし、そんな必要があるのか?昨秋、ロンドンに来た時も同じ事を思った。

 美しい景色が広がる四季豊かな湖水地方で、何の煩わしさも無い穏やかな暮らし。それと引換えにする価値が学校というものに果たして在るのだろうか?

 知識の探求ならそんな所へ行かなくてもできる。ましてや教師が恩着せがましく与える法則だの数式の類は、すでに充分過ぎる程持ち合わせている。

 興味など欠片も無いが、安っぽい刺激が欲しいならならウェブ上を探せばいくらでもあるだろう。

 学校生活など全く下らない児戯だ。

 タロにとって学校はおろか、社会情勢や経済の動き世界の動向などまるで興味が無かった。先程、不意につけてしまったテレビが垂れ流している情報などノイズ以外の何物でもない。

 しかし、ブロンドの女性キャスターが伝える一つのニュースにタロは目を遣った。


 連続幼児誘拐殺人事件――通称『切裂きジャック事件』――

 この半年、ロンドン郊外に於いて三人の幼い子供が相次いで行方不明になり、内二人が遺体となって発見された。

 痛ましい事に、彼女たちの亡骸にはナイフで切り刻まれた傷跡が在り、マスコミは切裂きジャックの再来などと興味本位で取り上げた。百年以上前の事件の被害者たちが売春婦だった事もあり、その表現は不適切ではないかなどと議論されたが、結論が出る前に通り名が定着してしまい、BBCなどでは使われないもののタブロイド紙には今も “Jack the Ripper” の文字が躍る。

 半年以上前のロストチャイルドたちも、同一犯の仕業ではないか?などという根拠の無い憶測が飛び、切裂きジャックをかたる偽の犯行予告がウェブ上で流されるなど事件は混沌を極めた。

 そして、今朝、三人目の犠牲者の遺体が発見された。


 酷い事をするものだ。

 タロはニュースを見ながら思った。

 何故、こんなにも弱く清いものをけがすのだろう。

 人間なんてお前らが蔑む獣となんら変わりないじゃないか。

 “犠牲者に神のご加護を” だって?

 神がいるなら、この惨劇をどう説明する?子供たちが味わった苦痛や恐怖を、犠牲者の家族の痛みをどう癒すと言うのだ?

 人は宗教を理由に戦争を起こすじゃないか。神様のために躊躇ためらいも無く殺しあうじゃないか。

 神よ、俺に説明する必要は無いとでも言うのか?

 タロは苦悶の表情を浮かべ、セーターの上からペンダントの十字クロスを握り締めた。


 嫌なニュースを目にしたせいか、ハキダメ伝統校に足を踏み入れたせいなのか、気分が晴れなかった。何か無性に外の空気を吸いたくなり、タロはホテルを出た。

 夜の街は嫌いではない。忌々しい太陽は無く、昼間とは違う静寂さを持っている。

 人混みは苦手だが、どんな都会でも路地一本奥に入れば、観光ガイドブックに近付かない方が良いと書かれるスラムや人通りの少ない道が存在する。

 それほどここの地理に詳しい訳ではないが、タロは裏路地を繋ぎながら行く宛も無く一人歩いていた。


 雨は傘が必要ないくらいに小降りになっていたが、傘を閉じるつもりは無かった。差していた方が他人と目を合わせる事も少ないだろうと思ったからである。

 何処をどう歩いたのか知らないが、街並みが少し騒がしくなった。

 どうやら、うらぶれた場末の歓楽街に迷い込んでしまったようだ。

 こんな場所に足を踏み入れても、多分ろくな事が無い。

 どこか抜ける道はないか、来た道を戻るか、などと思った矢先に二人の女がタロに話しかけて来た。

「お兄さん、一緒に飲まない?」

 安い香水と酒の匂いを暴力的なまでに漂わせた一目で “夜の女” とわかる二人だった。

 傘の中を覗き込む仕草で「あ~ら、いい男じゃない」「やだ、まだ子供じゃない。アンタどういう趣味してんの?」などと、下品に笑いながらタロに絡んできた。

 仕事にあぶれた二人の女を無言でかわし立ち去ろうとした所へ、一人の酔っ払いが立ち塞がった。

「よっ、兄ちゃん。モテモテじゃねえか」

 その酒臭い男はタロの傘の端をつかもうとしたが、身を軽く翻してそれをかわすと酔っ払いはバランスを崩し水溜りにダイブした。

 先程の女二人がそれを見て、また下品に笑った。水溜りにしりもちを付いたまま女たちを罵倒し追い払うと、男はタロに向かって怒声を上げた。

「おい、待て!こらぁ!俺を誰だと思っていやがる!」

 タロは聞こえないふりをして歩を進めたが、男の次の言葉に足を止めてしまった。


「俺は、切裂きジャックだぞ!」


 決して信じた訳ではないが、酔っ払いの戯言とはいえ看過できなかった。

 無言のままきびすを返し、意味不明の事をがなっている男に近寄ると、その胸ぐらを掴みそのまま壁に投げつけた。

 蹴飛ばされた猫が上げるような悲鳴を吐いた後、男は声を震わせながら毒づいた。

「お、俺は本当にジャックなんだぞ・・・俺にこんな事して、ただで済むと思うなよ・・・お、お前も・・・こ、こいつらのように・・・」

 震えた手でかざした男の携帯電話には、傷だらけの幼児の死体が映し出されていた。

 何らかの流出画像かマニアが作ったまがい物――おそらくそういった類のものをウェブ上で拾ったのだろうが、それは、タロを怒らせるに充分であった。

 気がふれたかのように震えながら笑う男の手から携帯を払い落とし潰れるほど踏みつけた後、再び酔っ払いの胸ぐらを掴み抱え上げてタロは言った。

「そうか、お前が切裂きジャックなのか」

 男は恐怖と狂気が混同する表情で相変わらず小刻みに震えながら笑っていた。

「なら、俺も正体を明かそう・・・」

 タロはセーターもろとも胸の十字を引きちぎった。

 雨上がりの雲の切れ間から差し込んだ月の光に照らされた少年の顔は、翠緑の瞳が銀色シルバーに変わり、左側の犬歯が異常に大きく突き出ていた。


「俺は、ヴァンパイアだ!」




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