手
独白する少女の意識は彼岸を彷徨っていた。
そこはさながら五次元や六次元のように、時間が一つの座標となり矢と表現される指向性は消え失せ、遡行どころか並列化する場所であった。
一文字佑衣は、本棚から一冊の書物を取り出し開くように、自らの記憶を辿りその時空へと戻っていた。
そう、六月の日曜日だった。朝のニュースでは、関西から東海地方が梅雨入りしたと言っていた。この日からだ、私があの男に恐怖を抱くようになったのは・・・
「また、施術を?バックアップがもう一人必要って事?」
以前に二度ほど訪れた家、何の変哲もない普通の一軒家。ここで私は木元さんと共に獣憑きを行った。一度目はあのタトゥー男へ、次の施術相手はガブリエルだった。
「いえ、バックアップは私だけで充分です」
涼し気な笑みを浮かべガブリエルは淡々と答えた。
「前任者が亡くなってしまいましてね」
「えっ?」
「最初の彼・・・えーと・・・何と言うお名前でしたっけ、すみません、ここまで出てきているのですが・・・あのドラゴンのタトゥーをした彼ですが・・・」
「私が殺した・・・」
ガブリエルの言葉を遮って木元さんが言った。
うつむき加減だったが、どこか遠くを見るような定まらない視線をしていた。
そう、以前会った彼とは違った雰囲気だった。
そうね、少し恐い感じの人だったけれど、この時はそんな風には思わなかったわ。
「えっ?木元さん・・・」
「いえいえ、何本もの矢で射抜かれ高所から落ちたのですから・・・」
「ちょ、ちょっと待って。何の話をしているの?殺したとか、矢で射抜かれたとか」
ガブリエルは不思議そうな表情で私を見た。
うん、『お前こそ何を言っている』と言いた気な顔だった。
「私たちの計画を邪魔しようとする輩が『あの彼』を殺したという話ですが」
「だから、なんでそんなことになるのよ!」
「敵対勢力にこちらの戦力を削られただけの事ですよ、新宿での目的は達成しましたので、私たちはこのまま計画遂行を続ける・・・」
「何を言ってるの!人が・・・死んだ・・・のに・・・平然と・・・」
ガブリエルは静かな笑みを浮かべ私の顔を覗き込むようにして言った。
「これはね、戦争なのですよ。人死にが出た事を気に掛けてなどいられません」
「戦争?」
「はい、『彼等』は我が主を危険視し我々の活動を阻害しようと目論む敵です。そんな輩とは戦うしかありませんよね」
「敵?彼等って・・・」
『祷り人』という組織が存在している事をガブリエルは語った。
初めて耳にした名称。
敵対組織の存在。
そして、その領袖が竜造寺家である事・・・
何よりも、竜造寺瞳子が新宿で指揮を執っていたという事実に私は驚いた。
後で聞かされる話だけど、平井家が関係していたという事も私を苦しめたわね。
平井望の父親が被害を受けていた。
私の行動が同じ学園の人間を苛んでいた。
身近な日常の世界に敵対者や被害者が混在する混沌・・・
「いやよ、もう・・・だって、人が死んでるのよ!」
私は三度目の『獣憑き』を行うことを拒んだ。
だが・・・
「うっ!・・・」
猛烈な吐き気に襲われ私は床に膝をついた。
相変わらず涼し気な笑みを浮かべこちらを見るガブリエルの横で、木元さんは悲し気に笑った。
「無駄だよ、こいつには逆らえない・・・」
「木元さん・・・」
「呪い返し・・・俺たちがこいつにした『獣憑き』は『呪い』と捉えられ、その跳ね返りを喰らう・・・『呪い』に関してこの男には敵わんさ・・・」
「だけど!んっ・・・」
今度は私の臭覚を鉄のような臭いが包んだ。
ポタポタと床に落ちる赤い血。
めまいと頭痛に見舞われ私の頬は地に伏していた。
溢れ出る涙。それは痛さや苦しみからではなかった。
滲んで歪んだ視界の中、ガブリエルは私を見下ろして言った。
「さぁ、施術を始めましょう」
結局、私はあの男に従うしかなかった。
私は益田四郎という人間の理念に賛同し彼と行動を共にしようと思った。
そう、私が自分で決めた事。
でも、それがなぜこんな事に・・・
「もういいわ」
「ええ、もう見ていられない」
「思い出すのはやめましょう」
「そうね、もう充分に苦しんだわ」
少女は、六月の日曜日の記憶を本を閉じるように終った。
周囲には複数の自分がいる。服装や髪形など違いはあるものの、そのすべてが一文字佑衣だった。
過去の自分を第三者として観ていた時から、一人また一人と彼女たちは現れた。それぞれ意識と自我を持ち過去を回想する少女たちに佑衣は違和感を抱く事は無く、別の時間軸の自分として認識し受け入れていた。此処はそのような場所であると無意識下で理解していたのだ。
「そろそろ、いきましょうか?」
眼鏡をかけた佑衣が言った。
「えっ・・・」
何処へ?と問おうとする少女の脳裏に行くべき場所がすぐさま浮かんだ。同時に、最後の記憶である風呂場の天井と赤く染まってゆく湯舟が映し出される。
「そうね、もういかないと」
また別の佑衣がそう言うと黒のフードを目深に被る。
周りの一文字佑衣たちも黒のローブを纏い顕にしているのは鼻から顎にかけての顔の一部だけだった。それまでそれぞれ違う服を着ていた事など気にもかけずに、促された少女はゆっくりと頷いた。
佑衣の一人に手を引かれ歩く少女は自分が着ている服が子供の頃のものだと気づく。
「ママ・・・」
母親の手作りのワンピース。十七歳の体で何故か着られている淡いオレンジの幼児服、それは父親のお気に入りでもあった。
「お父さん・・・」
少女が両親の顔を思い浮かべると、二人との思い出が怒涛のように頭に流れ込んでは消えて逝った。同時に、学校や塾などでの何気ない日常が何の脈略も無くリピートされた。
そして、本郷の事も・・・
「湊くん・・・」
すべての回想が懐かしく暖かかった。悲しくはないが、少しだけ寂しいような感情を抱く少女の背後から聞き覚えのある声が彼女を呼ぶ。
「佑衣!」
振り向くと、一文字佑衣は遥か遠くに本郷湊の姿を見て取れた。
馴染みの、しかし何故か懐旧の情を抱く影の名を呼ぼうとしたが声が出なかった。
「佑衣、逝くな・・・」という本郷の声が途中で途切れた。まるでガラスの壁に遮られたかのような兄の形姿は次の瞬間には霧散するように消えて無くなった。
佑衣の手を引く黒ローブに促され、彼女はまた前を向き歩みを進める。
遠くから母の声が自分を呼んでいたが、少女は振り返る事も立ち止まる事もできなかった。そうしてはならない理に囚われているように思えたのだ。
淡々と歩く佑衣、感情や体の自由が薄れてゆく彼女の白い腕を後ろから何者かが掴んだ。
ワンピースの袖から顕になった腕を見ることすらできなかったが、その懐かしい感触はそれが誰の手であるのかを少女に明確に物語っていた。
「お父さん・・・」
声が出た。顔を傾ける事も目を動かす事さえできなかったかったが、絞り出すように言葉を発する事ができたのだ。
横を歩く黒ローブの者が驚くように見つめる佑衣の耳にはハウリング交じりの父の声が聞こえ始める。
「佑衣・・・逝くな・・・」
「お父さん、私・・・」
また声を発した佑衣の言葉を遮るように黒ローブの一人が佑衣の父に言う。
「なによ、今更父親ぶって・・・」
「そうよ、あなたに私を止める資格なんてないわ」
今度は佑衣の手を引く者が言った。
「それに、『私』が決めた事、だもの」
言葉無く頷こうとする佑衣。
「た、頼む・・・」
苦しそうな父の声と共に佑衣には自分の腕を掴む手に力が入ったのがわかった。
「ふん、無駄よ。そもそもここは生者の入れぬ地」
黒ローブの一人の声色が少し変化すると、佑衣の腕を掴んだ手が炎に包まれた。
「はっ!」
佑衣に炎の熱さは感じられなかったが、燃える手の苦しみが彼女には伝わっていた。
「ぐっ・・・がっ・・・」
佑衣の父はもがき苦しみながら言葉を搾り出す。
「お・・・お前らに・・・娘は・・・渡さん!」
炎がぶすぶすと手を焼いてゆく。皮膚がただれ溶け、肉の焼ける匂いが立ち込める。
「こ、この・・・死神どもめ!」
父がそう叫ぶと、黒ローブの下の自分と同じ顔が髑髏に変わったのを佑衣は察した。
「諦めの悪い男だ」
「よかろう、娘と共にこちらへ逝くがよい」
黒ローブたちの声が低く悍ましく響くと、手を包む火は更に燃え上がり、あとは骨を焼き尽くすのみとなった。
「ううう・・・」
佑衣の父は更に苦しみ呻き声を挙げるも、骨だけになったその手を放そうとはしない。
その苦痛は佑衣に伝わり続けた。
「も、もう、やめて!」
体は言う事を聞かなくとも、少女は大声で叫び、懇願の涙を流した。
だが、死神たちは佑衣を連れ歩き続ける。
また、骨が火に弾けひび割れを起こしても、彼女の父は諦めない。
「誰か・・・助けて・・・」
小さく絞り出た泣き声が彼岸の地に虚しく吸い込まれて往ったその時、佑衣の頭を鷲掴みにする手があった。
少女にはそれが青白く優しい手である事がすぐにわかった。
いつか差し伸べられたあの手であるという事が。
「破・邪・攞・袈・木・蓮・・・」
彼の地に響く益田四郎の声は、何やら呪文のようだった。
彼は口早くそれを唱えると「は!」と気合をつけた。
すると、佑衣の見ていた世界の天地が逆転し、死神たちの姿もさかさまになった。
「これは・・・」
佑衣は自分が回転したのか、世界が反転したのか分からなかったが、自らの意思で死神から手を離した。
手を切られた死神は舌打ちをしたように思えたが、他の者たちは無表情のままだったと少女は感知した。
彼岸の景色は徐々に白けてゆきホワイトアウトと共に死神たちの後ろ姿も消えた。
気付けば真っ白な空間に少女は一人っきりで、腕を掴んでいた骨の手も頭を掴んでいた優しい手もすでに無かった。
少しの時間が流れ、少女は一人呟いた。
「私は、まだ・・・」
自らの想いを言い終える前に漆黒が彼女を包む。
ほんの刹那、光の無い世界に身を置いた少女の耳に聞き覚えのある声が届き、暖かい手が自分の手を握っている事に気付く。
ゆっくりと薄く開いた一文字佑衣の瞳に映ったのは泣き顔の父と母、そして、本郷湊の姿だった。
「わ、私・・・」
少女が発しようとした謝罪の言葉は、両親の大きな泣き声で遮られた。
一文字佑衣は自らの意思で現世へと戻って来たのだ。