プロローグ
日本へ向かう708便は、バルト海上空の太陽を浴び銀色に光っていた。
ファーストクラスのCA佐々木香織は、静かな笑みを浮かべ搭乗客に気を配りながら客席の後方へと歩いて行く途中、不意に足を止めた。
一人の少年の姿に心を奪われたのだ。
窓側のゆったりとしたシートの前に投げ出されたデニムは左足を上に組まれており、とても長く見える。
オーソドックスな無地のシャツの胸元は少し余計に開けられていて、窓から差し込む日差しを受け透き通るように白い肌と大きな十字のペンダントが光る。
右手で頬杖をつき窓の外遥か遠くをおぼろげに見つめる瞳はグレーがかった緑色に澄み、半開きの瞼を長いまつ毛が覆う。
機体からか雲からの反射光を受け明るめの栗毛色の髪はブロンドのように輝き、鼻筋の通った白い端正な横顔は光の中に溶けてしまいそうに思えた。
ヘルシンキ空港で機内に搭乗した時も離陸後もその存在は確かに目立っていたが、個人的興味ではなく佐々木はCAとして仕事上この少年の事は把握していたはずだった。
だが、この光の中に佇む姿は、まるで以前ベネチアかどこかで見た中世の宗教画を彷彿させ、性別を超えた――人ですらない何か――が持ち合わせる美しさを醸し出しているかのように思えた。
思わず、ほんの一瞬立ち止まって、その少年を見つめてしまったのだ。
視線を感じた少年は少しだけ嫌悪感をあらわにし無言のまま佐々木を一瞥した。
何か用か?と言わんばかりの少年に佐々木はあわてて我に帰りその場を凌ごうと営業スマイルを浮かべた。
「w-Would you like something? 」
しかし、少年はゆっくりとまばたきをして不機嫌そうに視線を窓の外へと戻した。
佐々木が恥ずかしさと気まずさに少し顔を赤らめたところへ、少年の隣の席の女が洗面所から戻ってきた。
「ターちゃん。せっかくお姉さんが話しかけて来てくれてるのに、何?その態度!」
少年は大きく溜息をつき瞳を閉じた。
二十代後半に見える黒髪の女は、何処と無く気品がありながらも人懐っこい笑顔で佐々木に言った。
「ごめんなさいねぇ。この子、すごい人見知りなの。てか、ほとんど極度の対人恐怖症?みたいな・・・」
「いえ、そんな、私の方こそお休みのところをお邪魔してしまったのでは・・・」
「い~えぇ、いつも青っ白い顔して寝てるんだか起きてるんだか・・・そう、この子に血をくださらない?いつも貧血気味でね・・・」
「は?・・・『血』?ですか?・・・」
「そう、200CCくらいでいいわ。できれば、B型を。この子Bが大好きなのよ」
「は、はぁ・・・あの・・・」
困惑気味の佐々木に、少年の同行者とみられる美女は少し吹き笑いしながら謝った。
「ごめん、ごめん。冗談、冗談よ。トマトジュースかなにか持って来てくれる?ああ、この子タバスコは嫌いだから要らないわ。それと、私にはスコッチ。シングルモルトがあれば尚結構、銘柄はお任せするわ」
「はい、かしこまりました」
女の快活さに圧倒されてか、出された助け舟にあわてて乗ろうと思ったのか、
CAは注文された飲み物をそそくさと取りに行った。
長い黒髪をかきあげながら少年に微笑むと女は自分の席に乱暴に腰掛けた。
黒のタイトスカートから伸びる美しい足を少年と同じように組むと、右側の肘掛から大きく身を乗り出し細いながらも幅広い少年の肩に顎を乗せて言った。
「ご機嫌斜め?それとも・・・日本に行くのが不安なのかなぁ?・・・ターちゃんは・・・」
少年は小さな溜息と共に少しだけ目を開け雲の海を眺めながら心の中で呟いた。
もう、いい加減その呼び方やめてくれよ・・・ママ