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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
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結末と新たな挑戦

 私は振り返らなかった。

 剣をかざし、フォン=モウンの命を斬り裂ける体勢を保ったままで。

 そのままで、背後からのか細い、心を振り絞るような声を聴いていた。


「……やめて、ラツキ……」


 私の腰にすがりついているであろうミカエラの重みは、彼女の魂の、いや全身全霊の重さそのものだった。彼女が長い年月の中で育み愛おしんできた、思い出と愛そのものの重さだった。

 フォン=モウンの幼馴染であり、ユーゼルクの恋人でもあるミカエラにとって、私の次の一撃は、そのすべてを彼女から奪うものだ。彼女のこれまでの人生全てを斬り捨ててしまう剣になってしまうのだ。ユーゼルクと一体化しているフォン=モウンを斬れば、ユーゼルクの命も消えるのだから。


 ──私は振り返らなかった、と言った。

 もちろんそれは、目の前に今は力なく倒れかけているフォン=モウンを未だに警戒している、ということもある。

 深手を負わせ、事実上もう動くことができないはずの彼ではあるが、その力はやはり脅威だ。ほんの少しの油断が命取りになりかねない。


 だが、それだけではなく。

 それ以上に、私は、振り返るのが辛かったのだ。ミカエラの顔を見ることが。

 普段は勝気で強引な彼女の、その打ちひしがれた顔を見るのが。

 わかっているはずだ、ミカエラも。フォン=モウンをこのままにしては置けないと。

 『登攀者殺し』として多くの人々を手に掛けてきた彼を。

 しかし、そうわかっていて、なお。

 なおも、私にすがりつかざるを得なかった、ミカエラの想い。それが痛々しく、苦しく、哀しく伝わってきて──私はその悲痛な表情を見るのが、辛かった。

 

 ──私は振り返らなかった、と言った。

 だがそれは、真正面にいるフォン=モウンの顔をまともに見てしまうことでもあった。

 彼の蒼白だった顔には、幾分の赤みが差し、その虚ろだった瞳には、ほんの僅かに光が差したように思えた。

 自分の求めていたはずのものすべてに否定され、憧れだったという私に敗れて、今しも死を迎えようとしていたモウン。だが彼は今、ほんの微かに、希望を抱いたのだ。

 ミカエラという希望を。

 己を認め、望み、求めてくれるかもしれない存在を。


 (そう、か……)


 私は胸中で小さく呟く。わかったこと、と言うより、やはりそうだったのか、という思いで。


(モウン。あなたが真に求めていたのは、強さでもなく、皇帝になることでもなく、光の当たる表舞台に立つことでさえ、なかった。……あなたはただ、誰かに求めてほしかったのね。せめて、たった一人でいい、誰かに、自分を。──自分という存在を)


 ああ。

 軋んで、痛む。

 私自身の魂も、また。

 彼の望んでいたそれは、私だって同様に求めていたものだったのだから。

 この世界に来るまでは渇望しても手に入らなくて、喘ぎ悶えていたものだったから。

 

 確かにフォン=モウンは己を見失って壊れ、狂気に陥った怪物だ。

 だが同時に彼は、私自身を映す歪んだ鏡であるのかもしれなかった。いつか、どこかで、もしかしたら道を踏み外していたかもしれない私の。いや、すべての人間の。


 

 けれど。

 私は、これまで自分が考えていた以上に、多分。

 残酷、なのだったと、思い知らされる。

 その自分の酷薄さに内心忸怩たる思いを抱きながらも、私はゆっくりと唇を開いた。

 背後のミカエラに対して。


「ミカエラ。……なぜ、私を止めるの?」

「なぜ? ……だって、それは……」

「いえ、聞き方を変えるわ。ミカエラ、あなた──『誰のために私を止めるの?』」

「え!?」


 息を飲む音が背中から聞こえる。

 同時に、慄然とした表情のモウンの顔も視界に映った。

 まるで敵はモウンではなくミカエラででもあるかのように、私は鋭い口調を緩めない。


「あなたはどちらを助けたかったの、ミカエラ。……フォン=モウンなの、それとも、ユーゼルクなの」


 もちろん、問わずともわかり切っている、二者択一の問題などではないことくらい。

 ミカエラにとって、フォン=モウンは幼い日の憧憬の象徴であり、ユーゼルクは今と未来の愛と幸福の対象だ。

 そのどちらも混然一体となっているのが今のモウン。だから、ミカエラにとってはどちらかを選ぶという話ではない、彼女は彼女のすべての想いを込めて私を止めたのだ。


 そうわかっていて、私はそれでも、問うた。

 選べと。

 剣をモウンに対して構えながら、私は同時にミカエラに向かっても刃を擬している心境だった。

 いや、事実、そうなのだろう。

 ミカエラの全身が硬直し、その呼吸が浅く荒くなっているのが感じられる。


「……ラツキ……なんでそんなこと……!? だって……」

「あなた自身、わかっているはず。言葉にしなさい、ミカエラ。言葉はそのためにあるのよ、形にされるために。──あなたが助けたいのは。求めているのは。どちらなの!?」


 その場の誰もが寂として音もなく静まり返っていた。

 ミカエラとフォン=モウンの喘ぐような息遣いだけが小さく響く。

 数瞬の静寂の後に。

 ミカエラの、老婆のように掠れた声が、漏れた。



「……ユーゼルク、よ」



 ──私は振り返らなかった、と言った。

 ……振り返っていれば、良かった。

 振り返っていれば、フォン=モウンの表情を見なくて済んだのに。

 人の内面のすべてが一瞬で撃ち砕かれた、その表情を。この世のすべての絶望を凝縮したようなその凄惨で無残な表情を。……見なくて済んだのに。

 

 喉から血を滴らせるようなささやきが、平原の中に流れていく。

 平坦で感情を失ったような、モウンの声。


「……ミカエラ……なぜ……僕は君の……」

「モウン。あなたは……あなたじゃない。私の知ってるあなたじゃない。私の仲良しだった幼馴染は、もういない。あの、どんくさいけど優しかったあの子は」


 ミカエラはその反対に、己の中で滾る感情を必死で押し殺したような声を絞り出す。


「……モウン。あなたが初めて、何の関係もない、何の罪もない人を殺した時に。あなたは、あなた自身も殺したのよ。あなたが最初に殺したのは、あなた自身だったのよ……!」

 

 ぎり、と歯を噛みしめる音が背中から聞こえる。


「モウン! あなたは、私の知ってるフォン=モウンの仇だわ!」


 絶叫が、虚空に吸い込まれた。

 ミカエラの絶叫であり、同時にモウンの絶叫でもあった。

 いや、悲鳴と呼ぶべきであったかもしれない、モウンの発したそれは。口が裂け、喉が切り裂かれるような、──魂を磨り潰されたような、悲鳴。



「ああ、あ……あああああああああああ!!!!」



 ぞくり、と、私のみならずその場にいる全員の背筋が凍り付く。

 モウンはもはや、何も見ていなかった。何も見えていなかった。

 天空に向かって無為に、無意味に悲鳴を上げ続けるその姿は、この世のものとも思えない恐怖だった。

 震える彼の手から落ちた大剣がそのまま影の中にどぼりと落ち込む。まるで漆黒の底なし沼が呑み込んだかのように。

 そして彼自身の、虚ろになった眼から。口から。耳から鼻から。

 汚泥のような、夜の闇より深く濃い、黒が。そう、「黒」としか呼べないような何かが、どろどろと溢れ出し、モウンの身を覆っていく。……飲み込んで、いく。彼のすべてを。

 私たちは声を上げることも、身じろぎすることもできず、その光景をただ見つめるだけだった。

 一階層の、暖かい日光が降り注ぐ爽やかで清々しい草原の環境。そこにはあまりにもそぐわない、それは恐ろしくも悍ましい景色だった。

 


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 しばらくはごぼごぼと泡立つような音を立てていた漆黒の塊が、何の反応も示さなくなってから。

 私は、凍り付いたような自分の身体をそっと、関節が軋むような感覚で動かし、それに近づこうとしかけた。

 が、その瞬間。

 漆黒の塊の中から、細い、一筋の光が天へと昇ったのだ。

 いや、その光の線は一条、また一条と数を増やし、やがて、陽光をもしのいで煌めく黄金の奔流となって天空高く吹き上がった。その輝きは黒の塊を内側から吹き飛ばし、消滅させていく。

 その眩ゆさに、思わず目を背けた私たちが、そっと目を開いた時。

 そこには、一人の人影があった。



 電撃の火花を放つ殲煌雷刃を片手に付いた、まぎれもない、ユーゼルクの、姿が。



 憔悴しきり、やつれ果て、血の気を失った顔つきには日ごろの逞しさも快活さも欠片もなかったが、それでも確かに、そこにいたのはユーゼルクだった。フォン=モウンの姿が消えた代わりに。


「……ユー、ゼル……ク……?」


 ミカエラが信じられないものを見たように、とぎれとぎれに呟く。

 ユーゼルクは蒼褪め、疲れ切ったその顔を上げて、それでも。それでも、ミカエラに、柔らかな微笑を贈った。

 他の誰でもない、ユーゼルク本人の、それは邪気のない美しい笑顔だった。


「ユーゼルクっ……!!」


 喉に何かが詰まったような声でその名を呼びながら、ミカエラは彼の胸板に飛びついた。

 その時、私は初めて彼女の顔を見た。歓喜に満ち、嬉し涙でくしゃくしゃになった表情を。

 続いて、エレイン、ルーフェン、バートリー、ロッグロック。ユーゼルクの仲間たちが次々と駆け寄ってくる。

 私はその光景を見ながら、制限距離に掛からないように、静かに身を引いた。

 言いようのない疲労感が私の総身を包み込んでいた。



 ──ろくに根拠もない、勘に頼った、ただの賭けだった。

 だが、フォン=モウンは先刻、自ら言ったのだ。

 自分がユーゼルクに勝っていたのは、強い執念と憎悪だけだったと。その怨念が彼の力の源だったと。

 ……ならば、モウンの、その力の源泉を断ち切ればどうなるか。

 モウンの心の奥底にあったのは、誰かに認めてほしいというたった一つの想いだった。

 その想いを撃ち砕けば、彼の力は消えるかもしれない。

 そうすれば、モウンに取り込まれたユーゼルクが再びその力を取り戻し、姿を現すことができるかもしれない。

 最後はユーゼルク本人の力と意思の強さを信じるしかないけれど、でも、僅かであっても、可能性はある。

 

 私はそう感じ、そのように行動した。

 フォン=モウンの、今やたった一つの希望のよすがとなっていたミカエラ。そのミカエラ自身に、モウンを否定させる、という方法を取って。

 強引でも、私がミカエラに、モウンとユーゼルクのどちらかを選ばせたのは、そのためだったのだ。


 ……結果的には、それは、成功したのだろう。

 フォン=モウンは自ら生み出した憎悪そのものに飲み込まれて消え去り、代わってユーゼルクはその形を取り戻すことができたのだから。

 だが……。



「……ご主人さま」


 アンジェの細い指が優しく私の頬に触れるまで、私は彼女が近くに来ていたことに気付かなかった。

 いや。

 彼女の指が、私の流した涙をぬぐってくれたことにも、気づかなかったのだ。自分が泣いていたということにも。


「……お辛い役を、お引き受けになりましたね」

 

 アンジェが愛おしむように、私の頬を撫でてくれている。

 すべてを理解してくれている、と。

 そう伝わってきて、私は、もう押し止めることができずに、しゃくりあげた。


 フォン=モウンは確かに、許すことのできない邪悪だった。何らかの形で処断しなければならないのは確かだった。

 ……けれど、それでも、あそこまでの悲痛と絶望を彼に突きつけるだけの資格が、私にあったのだろうか。

 せめて一太刀で命を断ち切り、死なせてやるべきではなかったのか。


 ユーゼルクは生きている。ということは、彼と命を共有するモウンもまた、死んではいないということだ。……死ねていないということだ。

 彼は自分の作り出した憎悪の迷宮の中で、永遠に苦しみ続けながら生き永らえなければならないということなのだ。終わらない悪夢を見続けなければならないということなのだ。

 そんな、あまりにも残酷な拷問のようなことをする権利が、私にあったのか。

 自責の念が胸を貫き、私は剣を落とし、両手で顔を覆ってしまった。

 その私の背を、そっと抱いてくる小さな手。テュロンの声が聞こえる。


「ご主人さま。それでもご主人さまは、ユーゼルク様をお救いになられました。いえ、彼の御方ばかりだけでなく、私たち、この場にいる全員の命も。そして皇太子殿下、ひいては帝国も、ですわ」


 私は無言でこくんと頷く。

 もちろん、だから私に免罪符が下されるというたぐいの話ではない。差し引きしてプラスが多いからあとは問題ない、と言うほどシンプルな話ではない。

 けれど、それでも、私を気遣ってくれるテュロンの心が、体温を通じて伝わってくる。それは素直に、嬉しいと思えた。


「ラツキさん、私たちができなかったことを、あなたが代わってやってくださったんです。それが罪だとあなたが思うなら、私たちみんなでそれを背負います。……背負わせてください」


 ラフィーネさんの声が静かに染み通る。その言葉は、心強く、そして重い。

 聖職者、聖務官である彼女が、あえて「罪」を負うと言ってくれることの意味。それはラフィーネさん自身の覚悟の大きさを示すものだった。私のために。私のために、この愛しい友は。そこまで決意を固めてくれたのだ。


「そうね。ラツキ、誇りなさい、自分を。そうじゃないと、あなたを誇りに思う私の気持ちがバカみたいじゃない、ふふふ」

 

 相変らず飄々と冗談めかして言うキュリエナの言葉が聞こえ、私はまだ目を涙に濡らしながらも、思わず苦笑してしまった。

 私が、キュリエナの誇りか。この子がまさか、そこまで私に寄り添ってくれていたなんて。

 

「ご主人さま、やっと笑ってくれた! 良かった、僕、ご主人さまが笑ってくれるためになら何でもしようって思ってたよ」

 

 顔を上げると、メイアが嬉しそうにすがりついてくる。尻尾があればぶんぶんと勢い良く振っているような、全身で好意そのものをぶつけてくれるこの子らしい態度で、彼女は私への愛を表現してくれていた。


 私には、彼女たちがいる。

 アンジェ。テュロン。ラフィーネさん。キュリエナ。メイア。

 そのぬくもりの心地よさが、安らぎの中の切ないような幸福感が、私を魂ごと包んでくれていた。

 忘れることはできない。あのフォン=モウンの絶望を。忘れてはいけない、私がそれを行ったのだということを。

 けれど、それでも。愛する少女たちの存在は、私の中の、小さな勇気を掻き立ててくれていた。自分の行為に向き合おうという勇気を。



「……ラツキ」


 まだ弱々しい声がかかり、私は顔を向ける。

 ユーゼルクが、剣で体を支えながら、こちらへ歩いてきていた。

 私も、彼に向かって急いで歩を進める。


「ユーゼルク。大丈夫なの?」

「ああ。すまなかったね、迷惑をかけた。そして、ありがとう。君には二度も救ってもらった」


 ユーゼルクの眼もとには、今まで見たことのなかった苦悩の色があった。

 常に快活で明朗で、笑顔を絶やさなかった彼の表情に、初めて昏い影が深く刷かれていた。


「……僕も、僕自身のこと、そして……「彼」のことを、初めて知った。──正直、今はどう考えていいのかわからない。僕の中に今でもいる「彼」のことも含めてね」


 ユーゼルクは苦し気に足元に視線を落とす。己の影に。その中の己の分身を見据えるように。

 

「……でも、あなたにはミカエラたちがいるわ。仲間たちが。私に愛する仲間たちがいてくれるのと同じように、素晴らしい友たちがね」

「……ああ、そうだな。その通りだ。今は……みんなに甘えてもいい時なのかもしれない、な……」


 ユーゼルクは力なく微笑み、しかし、しっかりと頷いた。

 彼が、「造られた存在」だという自分自身への激しい衝撃を、どのように解消していくのか。自分が生まれたために苦しみ、そして壊れてしまった一人の哀れな怪物がいたことを、どう昇華していくのか。

 それは、私のあずかり知らない、彼自身が解決していくしかない問題だ。

 けれど、ユーゼルクには確かに、仲間がいた。

 それはこれからも、間違いなく彼を支えてくれるだろう、と私は思う。

 深い苦しみと悩み。一生抱え続けなければならない煩悶。しかし、それを得たことで、今、ユーゼルクは真の意味で、「人間」として新たに生まれ出でたのかもしれなかった。




 

 かくして、皇太子殿下の一階層踏破の儀式は、つつがなく終了した。

 これで、殿下が新皇帝に即位する資格は得られたわけだ。

 殿下は、しかし喜びを表に顕すことはなく、むしろ口を堅く引き締めていた。


「……ラツキ殿。今回の事件で、わしは考えさせられたよ。無論、これまでの帝国の政策とて、弱者救済を全く考えていなかったわけではない。それなりの対応はしておったはずだ。だが、ある意味で実力主義に偏重しすぎていたきらいはあったのかもしれぬ。変わってゆかねばならぬのかもしれんな、帝国も」

「そうですね」


 私も同意し、言葉を継いだ。


「これほどの事件から何の教訓も得られなかったとしたら、あまりにも関わった人たちが哀れすぎます。真相は表沙汰にできない事件ですが、そうであるからこそ、せめて殿下におかれましては、この事件の意味をお考えいただきたく存じます」


 殿下は厳しいまなざしのまま、深く頷いた。


「それに、な。今回の事件を材料にすれば、フェルゲイン公爵家の勢力を削ることもできよう。少なくとも頂門の一針にはなるはずだ。……このようなことまで取引材料に使おうとするわしを、ラツキ殿は軽侮するかもしれぬがな」

「いえ。できることならばなさるべきでしょう。殿下のお進みになる道は遠く険しいのですから」


 そう、殿下にとっても、それは重い宿題だ。帝国の国家としての姿勢自体、意識自体の変革。それは彼が皇帝に即位したのち、おそらく一生かかって終わるかどうかの大事業だろう。

 それでも、踏み出すことに、意味はある。そう信じたかった。





 『登攀者殺し』は見事、倒された。

 その正体は恐ろしくも悍ましい怪物であった。だがもはやその脅威は去った。これはラツキ・サホとユーゼルク・フェルゲインたちの功績である。

 ──聖殿からの公式発表はそのようになった。

 もちろん、ラフィーネさんによって真実は報告されたのだが、あまりにも大きな影響を考慮してか、聖殿は当り障りのない「事実」のみを布告したのだった。まあ一応、聖殿の発表内容それ自体に偽りはない。


 聖都中は安堵と歓びに包まれ、称賛の渦が私たちを包みこんだ。

 その歓喜の中、たった一人の、目立たない登攀者の姿が永遠に消え去ったことを、誰も気にする者はいなかった。いつも孤独に酒場の隅で一人過ごしていた、やせっぽちの青年のことを。

 私はそのことに痛むほどの哀切を感じながら、ユーゼルクを見舞っていた。


「みんなは、僕に付き合ってくれるそうだよ」


 寝台に横たわったユーゼルクは感慨深そうに言う。


「みんなだけで、先に行ってくれてもいいと言ったんだけどね」

「あなたがいなければ意味がないと言われたんでしょう?」

「ああ。ありがたいことにね」


 ユーゼルクの衰弱は激しく、相当の月日を掛けた療養とリハビリが必要との診断が下っていた。治癒魔法で急速に回復させようとすれば、肉体が耐えきれない恐れがあるほどに。

 肉体だけではなく、心のリハビリも、もちろん必要だろう。そのためにも、やはり時間が必要になる。時間と、そして心を通じた仲間が。


「しばらく、僕は脱落だ。そのあいだに、きっと、『塔』の登攀階数は君に追い越されてしまうだろうな。……でも、仕方がない。君ならば、悔しくはないよ、ラツキ」

「ほんとに?」

「ん?」

「ほんとに、悔しくない?」


 悪戯っぽく問いかけた私に、ユーゼルクはしばらく黙って目線を逸らし、そして苦笑を浮かべながら、答えた。


「……ほんとは、結構悔しい、かな」

「ふふふ。それでいいのよ。そう思うのが当たり前だわ。後から追いかけてきて。いつでも待ってるわ」


 私は微笑んだ。ユーゼルクがもし、悔しくない、と答えるだけなら、それは以前の通り、『理想の人間として造られた』ユーゼルクのままだっただろう。

 だが、今の彼は悔しさを覚えている。そして、それがまた、回復の原動力にもなるはず。一人の人間として、それがきっと本来のあるべき姿なんだ。


「じゃあ、なるべくゆっくり登ってくれ、ラツキ。僕たちがすぐに追いつけるように」

「そうはいかないわ。さっさと登りきってしまうから、そう思っていて」


 私たちは笑い合って、手を握った。

 ……その手は、重かった。

 私は今、ユーゼルクから、バトンを渡されたのだ。

 名実ともに登攀者の第一人者としての地位を。

 そして、『塔』を征服するという栄誉を受ける資格を。

 私は息を深く吸い、窓の外を見る。

 巨大に聳える『塔』が、挑むような威容を誇ってそこにある。


(待っていなさい)


 私は胸中で呟く。堅い決意を持って。


(必ず、頂点を極めてみせるから)


 私の旅の最後の目的地が、今や明確にこの手の届く位置にまで来ていることを、私は実感としてこの身に刻んでいた。


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