理屈と理由
「ふええええ……ラツキさあん……眠いよお……おなか空いたよお……寂しかったよお……目と腰が痛いよお……ふえええええん」
まだ濃い朝靄と肌寒さの残る空気の中を、えぐえぐと泣き声が響く。その声とともに、よたよたと歩きながら一人の人影が現れた。
よれよれの服装とぼさぼさの真紅の髪の持ち主、つまりラフィーネさんが、昨夜徹夜して、いかに私の依頼に応じて頑張ってくれたかを、その哀れな姿は物語ってくれていた。
門の前でラフィーネさんを払暁から待っていた私の腕の中に、よろよろと彼女は倒れ込む。よしよしと背中を優しく叩きながら、私はなだめるように言った。
「ほんとにお疲れさまでした。アンジェに頼んで、居間に、少し早いけど朝食を温めておいてもらってますけど、食べる元気、ありますか?」
「うん。たべゆ。らふぃーね、ごはんたべゆ」
……疲労と空腹と眠気のあまり幼児退行してるよこの人。
寝かせた方がいいかなあとも思ったけど、本人がおなか空いてるというし、それに何より。――何より、彼女の持ってきてくれたはずの報告は重要なことだから。それはやはり、一刻も早く聞いておきたい。
居間には、アンジェの他にテュロン、キュリエナ、そして目をこすりながらも、メイアまでもが全員そろって私とラフィーネさんを待っていた。
部屋に入ってきた私たちを見て、早速アンジェが火にかけていたスープを下ろし、テュロンがパンとお茶を食卓に並べる。お茶は多少濃い目に淹れてあり、ラフィーネさんには悪いけど強制的に目を覚ましてもらおうという魂胆。
椅子に座るや否や、食卓ごと喰らい尽くす勢いで朝食にかぶりついたラフィーネさんは、地獄の業火が罪人を焼き尽くすがごとく、瞬時にそのすべてを平らげ尽くした。
彼女が見た目によらず健啖家であることはみんな承知していたけど、朝っぱらからよくこれだけ食べられるなあ。
……しかし、体に入ったあれだけの量の食事、どこに行くのかしら。何度も見ているけど、彼女の一糸まとわぬ裸身は、あんなボンキュッボンのエロボディなのに。
「ふわぁ、お腹いっぱい。さーて、じゃ、ひと眠りしましょうかねー」
お腹をポンとひとつ叩いて、満足そうに口をぬぐったラフィーネさんが席を立とうとするのを、私は襟首を掴んで強引に引きずりおろした。
「ラ・フィ・ー・ネ・さん?」
「あ、あははは。わかってますよ、冗談ですよラツキさん。……でも」
凄んだ私の声に一瞬たじたじとなりながらも、ラフィーネさんはしかし、微笑む。
「私が冗談を言えた、ということは、つまりそういうことです。ラツキさんの「まさか」の想像は、ありがたいことに外れでしたよ」
「ほ、本当ですか!? 良かった……!」
私はほっと安堵の息をついて、肩に入っていた力を抜いた。
ラフィーネさんが何を、そしてなぜ、聖殿に調べに行ってくれたのかは、あらかじめみんなにも話をしてある。
それが否定されたのは、私にとって、一つの重荷が肩から降りたような感覚だった。
何故なら、私がラフィーネさんに頼んだのは、こういうことだったからだ。
――『登攀者殺し』と、あの『暴走したユーゼルク』が同一存在である可能性はないか、それを調べてもらいたい、と。
もちろん、ユーゼルクがああいう状態になったのはあの時が初めてだったと彼自身は述懐していたし、彼の仲間たちもそう言っていた。
それが故意の嘘偽りだとは言わない。が、暴走状態になった時も含め、本人の記憶がそこまでしっかりとあてになるものなのかどうか。それに、ユーゼルクほどの身体能力があれば、仲間たちに知られずに一人で宿舎を抜け出すなどの行動を取ることだってできるのではないか。
……そして何よりも。
それなりに腕に覚えがあり、危機にも常に備えているはずの登攀者たちを、それも何人も、ほぼ無抵抗の状態で殺せるほどのものは誰か、と考えた時。――私の脳裏には、彼の名が浮かんできてしまったのだ。
けれど、ラフィーネさんの報告によれば、その考えは否定されるらしい。
私は耳を澄ませて彼女の次の言葉を聞く。
「えっとですね。いくつか根拠があるんですが、まず、わかりやすいのは魂魄板の記録です」
ラフィーネさんはそう言って、自分の魂魄板を胸元から出して見せた。各人の魂の文様を記録した個人認識票とでもいうべき魂魄板は、登攀者には誰でも与えられるものであり、私やキュリエナもそれぞれ持っている。
そして、聖殿を通り抜け、塔に向かう際には、その魂魄板をかざす必要がある。電車の改札のように、と、以前私は確か表現しただろうか。その記録はすべて残されているのだ。
「その、ぼーだいな記録をですね、ぜーんぶひっくり返して調べましてね。ぜーんぶ!」
ラフィーネさんは私にややジト目を向けながら続け、私は少し肩をすくめた。
「結果、ユーゼルクさんが単独で塔に入った記録は一件もありませんでした。それこそ、ユーゼルクさんが最初に塔に入ったころから遡ったんですけどね。その時には既に、ミカエラさんとエレインさんと一緒の三人組でしたから、ユーゼルクさんが一人で塔に入ったことは全くないということになります。……もちろん、最近も含めて」
ふーん。
とすれば、ユーゼルクが一人で塔に入って『登攀者殺し』と化す、というのは不可能か。
もちろん、ユーゼルクの仲間全員がそれに加担してれば話は別だが……さすがにそれはないだろう。この間、彼を止めてくれ、彼を斬ってくれと頼んできたのはミカエラたちなのだし。
などと考えている間にも、ラフィーネさんの話は続く。
アンジェが手際よくお茶のお代わりを注ぎ、ラフィーネさんはそれで喉をくいっと潤した。
アンジェ、相変わらず気の付く子。
「次に、事件の起きた階層に着目してみます。
登攀者の不審死が発生するのは圧倒的に下層階層が多いですね。
それに対し、ユーゼルクさんたちはここ数年、上層階層へ主に転移しており、下層へやってくるのは、一年に一度の、聖花の摘み手競争の時くらいです。まあ、この間の競争の時も不審死は起きてしまったわけで、そういう意味ではユーゼルクさんたちにも犯行の可能性がないわけではないですが、それ以外のすべての不審死はユーゼルクさんたちのいない階層で起きています。
従って、この点からもユーゼルクさんと不審死の関連性は否定されますね」
アリバイが成立するというわけか。
しかし、登攀者殺しと思われる不審死は、下層階層で主に発生していたのか。それはちょっと意識から漏れていたかも。
「もちろん、下層階層での不審死、つまり新人の不審死ですから、単純な事故によるものと考えられるものも多いでしょう。そういう意味では、すべての不審死を、いわゆる『登攀差殺し』によりものと即断するのは危険でしょうけどね。
しかし、明らかに事故と思われる案件を除いても、やはり、相当数の原因不明の死亡事件が残ってしまうのは確かです。その意味では、『登攀者殺し』の存在は……やはり否定できないのでしょうね」
ラフィーネさんが沈んだ口調で肩を落とした。彼女にとっては、改めて多くの記録を自分の目で調べてみて、やはりその都市伝説の実在を自ら確信せざるを得なかった、という衝撃もあるのだろう。
ふう、とラフィーネさんは吐息をついて、最後にもう一言付け加えた。
「あー、あと、時期的にもずれが見られますね。ユーゼルクさんが初めて塔に登ったのは10年半前。で、ご存知のように、彼らは僅か4か月半で10階層まで踏破するという記録を達成してますから、それ以降はずっと中階層以上に彼らはいます。
一方、下層階で不審死が目立つようになったのは、断続的なんですが、一番最初は約10年ほど前あたりです。ですから、半年ほどの時間差があり、その点からもユーゼルクさんが登攀者殺しという説は否定されるでしょうね」
こくん、と最後のお茶を飲みほして、ラフィーネさんの話は終わった。
いずれにせよ、ユーゼルクが『登攀者殺し』ではないことが分かったわけだから、これで少しは気が楽に……
「……めんどくさいことになったわね」
ぼーっと天井を仰ぎながらラフィーネさんの話を聞き流してたように見えたキュリエナが、ぽつりと、さも面倒そうに言った。
え? めんどくさい? なんで? だってユーゼルクと登攀者殺しは別だってわかったのに……。
けれど、テュロンまでがキュリエナの言に眉をしかめつつ、頷く。
「つまり私たちの身の周りには、『登攀者殺し』の問題と、ユーゼルク様の暴走の問題が二つ別個に存在するということになってしまったわけですわ。しかも、どちらもその詳細がわからないままに。いわば、悩みごとが増えてしまったのです」
……あ。
あー、そっか。ユーゼルクが登攀者殺しじゃないってことは、彼の暴走に気を付けながら、さらに登攀者殺しを探さなきゃいけないわけか。
「だから、いっそのこと、ユーゼルクが登攀者殺しであってくれた方が楽だったのに。そうすれば、彼をラツキが斬っちゃえば、それで全部おしまいになったのにね」
いつもの皮肉な笑みに白い牙を覗かせながら、キュリエナがまた物騒な冗談を言う。
めっ、と睨みつけた私の視線をくすくすと笑いながら外して、けれどキュリエナは、今度は一転、気楽そうに続けた。
「……とはいえ、ユーゼルクの問題はラツキが何とかできるってことが分かったんだし、またあの症状が現れたなら、ラツキにぜーんぶ押し付ければそでいいわよね。基本的に私たちは登攀者殺しの方に考えを集中すればいいだけで」
「ちょ、ちょっと、キュリエナ?」
慌てる私たちに、しかし仲間たちも頷く。……いや頷かないでよ!
「我が輝く知性を持って判断しましても、実際問題として、ご主人さま以外には、ユーゼルク様のあの状態を止められる方はおられませんもの。ご主人さま、仕方のないことだと諦めてくださいませ」
鬼だ。ここに鬼の群れがいる……。
……まあ、ユーゼルクの件は再発するかどうかもわからないし、このままもう二度と発症せず消えてくれるかもしれない。今のうちからあんまり過度に心配しても仕方ないだろう。
ということで、私たちはまず、登攀者殺しの危険性から身を守るため、登攀者たちに安全策を取るように訴えることから始めることにした。
「すいません、ラツキさん。聖殿として公式にご協力出来なくて」
ラフィーネさんが申し訳なさそうに謝るが、別に彼女のせいではない。
最低限の聖殿法にしか拘束を受けない私たち登攀者は、自由と自主自律がその誇りであり、拠って立つものであるからだ。
だから聖殿も、強制力のある命令のようなものを出すことはなかなかできず、せいぜい注意勧告、と言ったようなお触れを出すことしかできない。
……まあ、それは私たちもまた同じなのだけど。
私たちは登攀者たちの集まる場所、酒場や道具屋などに、そしてもちろん塔の周辺などに行って、顔見知りの、あるいは知らない登攀者たちにさえも、この話を説いて回ってみた。登攀者殺しの危険から身を守るために集団行動を取った方がいい、と。
彼らはその話の趣旨を理解してくれた。必要性をわかってはくれた。
……だが、なかなか承知してはくれなかった。
「ラツキさん、あんたの言うことはもっともだし、わかるよ。それに、聖花の摘み手のあんたほどの人が、俺らなんかを心配してくれてるのもありがてえと思う。それは本心だよ。本心なんだがな……」
登攀者たちは太い眉の根を寄せ、あるいは濃い髯の中の厚い唇を曲げて、困った顔を私たちに向ける。
「だが、こっちにも生活ってもんがある。明日の飯をどうするって問題がよ。そりゃ、数日くらいならまだいいさ。だが、いつになるかわからない登攀者殺し退治が終わるまで、ずっとみんなでご一緒に、なんてことはできるわけがない。率直に言って、登攀者殺しに殺されるのも、金が稼げなくなって野垂れ死ぬのも、たいして変わらないんだよ、俺たちみたいなのにはさ」
――それは冷徹で非情で、しかし無視しようのない現実だった。
登攀者という職業がシステムとして成立しており、それが塔に登ってお金を稼ぐ、というスタイルを取っている限り、登攀者たちにとって、私の忠告は、理解はできるとはいえ、結局は実現不可能な空理空論に過ぎないのだ。
特に、登攀者殺しが主に現れるのは下層階。その下層階で頑張っている登攀者たちは、まだ十分にお金も溜まっていないだろうから、余計に私たちの考えに賛同は出来なくなってしまうわけなのだった。
「なかなか、うまくいかないものねえ……」
疲れ切ってしまった私たちは一軒の酒場に入り、愚痴をこぼしながら杯を傾けていた。
アンジェとテュロン、メイアはお茶だけど。
「皆様のおっしゃることもわかるのですが……」
アンジェもため息をつく。が、キュリエナが細い肩をすくめ、くいっと盃を煽りながら、半ば揶揄するような口調で言う。
「ま、死んでもいいから金稼ぎに行きたいんだっていうなら、もう、好きにすれば? って私なんかは思うけどね。自分がどんな死に方するかを選ぶのだって、登攀者に与えられた自由のひとつだもの。そこまでして止める理由ってあるのかしらね」
「ですが、それではあまりにも……!」
アンジェが悲しげな顔をしてキュリエナに反論しようとした時、メイアがふと顔を上げ、きょとんとした顔で私の服の袖を引っ張った。
「ねえご主人さま、あっちの隅っこにいる人、なんだかじっとこっちを見てるよ?」
「え?」
言われて私がそちらを見ると、酒場の一番奥の片隅、照明も届きにくいような一卓に、一人で静かに飲んでいる青年の姿があった。
ひょろりとした線の細い長身を少し前屈みにし、トウモロコシ色の髪とやや暗いまなざしを持ったその青年を私は知っている。
「フォン=モウン!」
私は声を上げ、こちらから手を振った。
モウンはどこか気まずそうな表情を浮かべ、やや遠慮がちに手を上げて答えてくれた。
フォン=モウン。
かつて私とアンジェが二人だけで塔に登っていたころ、私に課せられた絶対の禁忌――異世界転移者だと疑われる、という事件が危うく起きそうになったことがある。
その結果、私は全身を砕き尽くされ、焼き滅ぼされるかと思うほどの烈しい苦痛に襲われ、意識を失ったのだった。折悪しくちょうどその時、守護獣が私たちを狙って接近しており、そのままでは私もアンジェも助からないところだった。
そこを救ってくれたのが、彼。フォン=モウンだったのである。
私は自分の盃をもってみんなを連れ、彼の卓へと歩み寄った。命の恩人である彼のことは、みんなにも話しておいたことがある。
「お久しぶりね、フォン=モウン。元気だった? 御免なさいね、あなたが一人でゆっくりと過ごしたいのはわかってるけど、やっぱり、御挨拶くらいはしたくて。あなたは私とアンジェの命の恩人ですもの」
私が釈明すると、彼は肩をすくめながら小さな笑みを浮かべ、席を勧めてくれた。
その仕草はぎこちないながらも歓迎の意図が見え、特に迷惑がっている様子は見られなかったことに、私はほっと安堵する。
「い、いや、ぼ、僕の方こそ、気を使わせてしまったね、ラツキ。き、君たちがこの店に入ってきたときからわかってたし、僕から挨拶しようかとも思ったんだけど、何か深刻な話をしていたようだったから、つ、つい声を掛けそびれてしまったんだ」
「ああ……まあ、ちょっと、ね」
答えを濁した私に、モウンはこくりと細い顎を縦に振った。
「き、君たちが、登攀者たちに色々な話をして回ってるのは、ぼ、僕も知ってるよ。――あの、『登攀者殺し』のこと、だよね」
「ええ、その通りよ。でも、なかなか成果が出なくてね」
そこまで言って、私はあることにはっと気づき、顔を上げた。
「そういえば、モウン。あなたも単独の登攀者だったんじゃない? なるべく気を付けて、できれば行動は他の人と一緒に……」
だが、モウンは私のそんな言葉に苦笑で答える。
「し、知っての通り、僕は登攀者って言っても、ほんの趣味みたいなものさ。ありがたいことに、塔で稼がなくても、金は十分にあるからね。だ、だから、危険が去るまでは、塔の外でじっとしていようと思えばできるんだよ。こ、こうやって、酒場の隅でね」
それは自慢ではなく、むしろ悲しい痛みを伴った自嘲の言葉だった。モウンは、自分の代々の家系である騎士としても、また登攀者としても一人前になれず、ただ無為に金だけを受け取って意味のない生を送っていることに、強い自責の念を抱いているのだ。
私が何と言っていいか迷っている間に、今度はモウンが、その前髪の間からきらりと光る眼差しを向けた。
「と、ところでラツキ。その話のことで、き、君に会ったら、聞いてみたいと思うことがあったんだ。い、いいかな? ぼ、僕は半分登攀者で、半分一般人みたいな中途半端な立場だから、半ば外側から登攀者の世界を見ている。だからなのかな、不思議なんだよ」
「え?」
きょとんとした私に、モウンはまっすぐ言葉をぶつけてきた。予想もしなかった言葉を。
「ラ、ラツキ。君たちは何故、そ、そんなに一生懸命、『登攀者殺し』の対策を立てているんだい? 君たちには、何の関係もないことなのに」
その口調には皮肉も嫌味も感じられなかった。ただ純粋に、不思議に思ったことを素直に口にしている。それだけの自然な問いかけだった。
「ラツキ。き、君の、君たちほどの強さなら、どんな相手でも、もうそれほど苦戦はしないだろう。だ、だから、恐れる必要はそんなにないんじゃないか。
そ、それに、『登攀者殺し』は低階層から中階層に現れるそうだね。い、今のラツキたちは、そんなところよりもっと上の階層に行っているんだろう? だったら、そいつと遭遇する可能性さえ、まずないはずだ。
……だ、だから、何故、と思うのさ。何故、君たちと直接関係のない、見えない亡霊のような相手に、そんなに必死になっているんだろう、って」
しばしの間、私たちは無言だった。
それはあまりにも根本的で、しかしそれゆえに答えにくい質問だったからだ。
何故。何故、ただの、一介の登攀者である私たちが、『登攀者殺し』という重大な問題に取り組む必要がある?
その沈黙を破り、真っ先に口火を切ったのは、ラフィーネさんだった。
「……それが聖なる塔を汚す行為だからです。すべての人々の尊崇を集める偉大なる塔を穢し、蔑し、貶める不遜な行為だからです。それを見過ごすわけにはいきません」
確かにそれは聖務官たるラフィーネさんらしい、生真面目な、信仰心に溢れた言葉だった。
だが、それを聞いたテュロンとキュリエナが、ふっと笑みを漏らす。
「ラフィーネ様、それは『信者として』のお言葉ですわね。でしたら素晴らしい教科書通りのお答えといえますわ。ですが、『聖務官として』のラフィーネ様には、さらにもう一歩、理由があるのではございません? 私たちにまで、お隠しにならずともよろしいのですのに」
「あ、あはは。ばれてましたか」
そうテュロンに言われて、ラフィーネさんは照れたように笑った。しかしその次の瞬間、きゅっと唇を結び、やや低い、しかしはっきりした声で、続けたのだ。
「そうですね。正直、世の秩序を守る『聖務官として』なら、まだ理由はあります。
今、この世界には四大国をはじめとして多くの国家がありますが、それらの国家間では長い間、大規模な争いは起きていません。それはひとえに、聖殿の調停があるからです。民衆の絶大な支持を集める聖殿が調停に乗り出せば、どの国家もそれを無視するわけにはいきません。
……そしてその聖殿の権威は、まさに『塔』に依拠しているのです。いかなる技術でも魔法でも、決して破壊も再現もし得ない美しさと堅牢さ、そして神秘性を有する『塔』が、現実に存在するからこそ、それを奉じる聖殿には高い権威が認められているのです」
ラフィーネさんはちょっと口を切って、持って来た自分の盃で唇を潤した。
「しかし、『登攀者殺し』の跋扈を許し続ければ、聖殿は、そして塔は、そんな異質な存在を排除することができないという認識が広まってしまいかねません。それは聖殿と塔への信仰の低下、そして権威の低下へと繋がる危険性を秘めています。
すなわち言い換えれば、各国間の争いに対して、聖殿が平和的手段を持って解決できなくなる可能性があるということなのです。それだけは止めなければなりません。それが、私がこの問題を重視する理由です。
……『塔』を、そういった政治的な目的に利用するって発想自体、ちょっと不敬ですからね。だからさっきは、一応の表向きの理由をお話してみたんですけど、お二人には見抜かれちゃいましたね」
……そう、か。
登攀者殺しの存在が長引けば、そこまでの、世界全体を巻き込んだ大事になる可能性すらある。ラフィーネさんはそこまで見据えていたのか。
ラフィーネさん、ただのポンコツさんじゃなかったんだな。……なんてね。もちろんラフィーネさんがほんとは真面目な、頼れる人だってことはわかってたよ。ほんとに。ほんとだってば。
フォン=モウンもまた、ラフィーネさんの答えに感じるものがあったようだった。彼は微かに前髪を揺らし、顔に落ちるその影が不安定に踊る。
「……な、なるほどね。他の人たちも、同じ理由なのかい?」
「いえ、私は別の理由ですわ」
尋ねたモウンに、今度はテュロンが無意味に胸を張る。同時に、無意味にびしっと虚空を指差し、毅然とした口調で、彼女は言い放った。
「不明の正体! 不明の手口! 不明の動機! 不明の目的! ああ、それは謎! まさに謎! そこには謎が、謎そのものが形をもって蠢いていると言ってよろしいでしょう。そして!」
テュロンは無意味にぐるんと回転して、栗色の縦ロールを靡かせながら、つんと上顎を天井に向け、無意味に両手を広げて陶酔するように宣言した。
「そしてそこに謎がある限り、この私は逃げたりは致しません! これは、この私に向けられた挑戦なのですわ! 解いてみろ、暴いて見ろと、我が輝く知性に向けて、謎が立ち向かって来ているのです! ならば、このテュロン、容赦は致しませんわ! 必ずその正体を、白日のもとに晒してご覧にいれましょう!」
……えーと。
まあその、なんだ。
テュロンはテュロンで、相変わらず、テュロン以外の何者でもなかった。
それはそれで彼女らしいというか、ああテュロンってそういう子だよなあというか。
でもまあ、その意気込みは伝わったからいい……んだろうか。
しばらく毒気を抜かれたような静寂が場を支配したが、こほん、と咳払いして、次に唇を開いたのはキュリエナだった。
「ええと、フォン=モウンさん、だったかしら? 私の考えは、もともとはあなたに近いのよ。関係のないことなら、放っておけばいい。何も好きこのんで、無用の面倒ごとに首を突っ込む必要なんてない、ってね」
ふわぁ、と小さなあくびさえ噛み殺しながら、キュリエナは無造作に物を放り投げるようなあっさりした口調で言った。
その言葉にみんなの注目が集まった瞬間、けれど。キュリエナの白銀の眼は女豹のように鋭く光を放っていた。獲物をどこまでも追い詰め、残忍に牙と爪を突き立てるまで已むことのない、それは獰猛な肉食獣の目。
「……でもね、そいつは私の過去に踏み込んで蹂躙した。確かにそれは私自身の捨てた過去、見放して顧みなかった過去よ。だから、復讐とか敵討ちとか、そんな青くさい、鬱陶しいことを言うわけじゃないわ。それでもね、私の過去は私だけのものなのよ。それをどこの誰とも知らない奴に勝手に踏み荒らされて、そのままにはしておかないわ」
キュリエナのしっとりとした唇の端に覗く小さな白い牙は、普段なら時として艶めかしささえ感じさせるアクセント。しかし、今はその牙が、文字通り獲物の肉を裂き骨を砕き、血をすする凶器そのもののように、禍々しい光を放っていた。
「……過去、ですか。そうですね」
キュリエナの言葉に、黄金の髪を静かに揺らして深く頷いたのはアンジェだった。
「私の兄も登攀者でしたが、守護獣に討たれ、魂を塔に召されました。魂を塔に捧げる、それ自体は光栄なことです。ですが、光栄ではあっても、やはり家族を失った痛みと悲しみと寂しさは、消えることなくこの胸に今も残り続けています」
アンジェは繊細な手でその胸をそっと抑え、内心の疼きに耐えるように目を伏せた。黄金の睫毛を辛く切なそうに震わせて。
「塔に魂を捧げることができたという光栄な死を迎えてさえ、そうなのです。まして、得体のしれない何者かに、無為に命を奪われ、栄光という慰めを受けることさえもなかった方々……。その死を冒涜され、苦しんで亡くなった方々や、ご遺族の無念はいかほどのものでしょうか。私はそれを想うと、何かをしないではいられない、そんな気持ちになるんです」
深く静かで澄んだ湖面を思わせる、アンジェの清らかな声だった。けれどその奥には、決して揺るぎない明確な強い意志が、はっきりと宿っていた。
アンジェの隣にいたメイアは、続いて困ったように首を傾げる。
まだ幼い彼女に、他のみんなのように整然とした理由があるのだろうか。あったとして、それをわかるように説明できるだろうか。
だが、そんな私の姉バカ的な思いを余所に、メイアはそれでも、何かを自分の中から絞り出すような、懸命な口調で、私たちに視線を向けたのだ。
「僕、難しいことはよくわかんない。でもね、あの、亡くなった人たちの身体を、僕は「視た」んだ。そこには、「何か」が、まだ少しだけこびりついてたんだよ。亡くなった人たちのものじゃない「何か」が。
……そしてその「何か」は、……上手く言えないけど、怒りながら笑って、笑いながら泣いて、泣きながら叫んでる。そんな感じのものだったんだ。僕、あんなものは初めて見たよ。だから、それが何なのか、どういうことなのか、知りたいなって、そう思うんだ」
私はみんなの話を聞きながら、不思議な感情の揺さぶりを受けている自分を感じていた。
みんな、理由は違う。それぞれ、全く異なる理由があった。まったく異なる視点があった。
それでも、それでも私たちは、同じ一つの方向を向いていたのだ。
それは、少しだけ、感動に近い感情であったかもしれない。私たちの想いは当然のようにみんな異なっていて、それでもやっぱり、当然のように一つなのだと。
一方、フォン=モウンは手を組んで食卓の上に乗せたまま彫像のように動かず、まるで眠っているかのようにみんなの話を聞いていた。
だが、時折話の節目節目に揺れる、濁った黄色の髪の動きだけが、彼もまたそれぞれの話に没入し、真剣に聞き入っていることを示していた。
そしてモウンは、最後に、私に目を向けた。
彼は何も言わなかったが、当然、私自身の理由を聞きたいのだろう。モウンだけでなく、アンジェたちみんなも。
理由。
理由ね。
もちろん、私にも、ある。
理屈として端的に言ってしまえば、まず、それはあのクソ電飾との契約だ。
閉鎖され、淀んだこの世界を活性化し、浮き上がってきた淀みを清めるために、私はこの世界での生き直しという特権を得た。
その淀みは、伯爵夫人の事件の時にまみえたような、あんな化け物だけとは限らない。この登攀者殺しの事件もまた、その歪んだ世界の起こした現象の一つである可能性もあるのではないかと私は考えている。
だがもちろん、そのことは口にできない。できないし、何よりも、そうやってクソ電飾の掌中でいいように転がされるだけのために、私はここにいるわけではない。
いってみれば、それはただの、行動するための「理屈」に過ぎない。
もうひとつの。
そして、私にとってはより大きな。そんな「理由」が、確かに、ある。
私は、微かに開いた唇の隙間から、細く長く、息を吐いた。
薄く閉ざした瞼の裏に、一人の面影が朧に霞んで消える。
ああ、と私は胸中で自分自身にささやく。
ああ、私の理由は、そこにある、と。
モウンに対してではなく、アンジェたちにでもなく。私は誰にというわけではなく、独り言のように呟き始めた。
「……ちいさな、ね。ちっちゃな、小さな誓いが、私の中にあるのよ。それが理由で私は塔に登っているの。塔の頂点を極めたい、塔を征服したいと思っているの」
――彼女がそんなことで喜ぶかどうかはわからないけど。
笑うかな。それとも、困った顔をするのかな。
「……でも、塔を極めるって、どういうことなのかしら。ただ、てっぺんに登ればそれでいいの?
……何となく、私はそれだけじゃいけないと思う。塔の中を蠢いている、わけのわからないものをきちんと片付けて、綺麗な状態で頂上まで辿りついて、綺麗な景色を晴れ晴れとした心でしっかり見る。それができて初めて、私の中では、本当に塔を極めたってことになるんだと思う。……だから」
私は、ふと「戻ってきた」ように、みんなの顔を見回した。それまでの私は、遠い別の場所、別の時間、別の誰かに対して話しかけていたのだった。
「だから、私は、『登攀者殺し』の始末をつけたい。怪物なら退治したいし、何か理由のある現象ならその元を絶ちたいし、イカれた殺人者なら倒したい。そうしないと、私はすっきりした気持ちで上には登れない。――それが私の『理由』よ」
アンジェにさえも、その私の中の微妙な心の動きをここまで打ち明けたことはなかった。
それゆえにだろう、みんなはただ黙って、私の言葉を聞いていた。その響きが虚空に吸い込まれて消えていくまで。
やがて、モウンがやや緩慢な動作で顔を起こし、私たちを見つめた。
薄黄色い彼の瞳の奥には、何かを推し量るような思慮が宿っているように、私には思えた。
「……そ、そうか。君たちの、それぞれの覚悟はよくわかったよ。だ、だったら、僕も、もう、これ以上無粋なことは言うべきじゃないね」
そういうと、モウンは改めて私に向かい、やや感情を押さえられないような、微かに震える声で続けた。
「ラ、ラツキ。君は僕を自分の命の恩人だって言うけど、僕にとっても、君は、僕がただの無能で無意味な存在じゃない、誰かに何かをしてあげられるんだってことを教えてくれた、お、恩人でもあるんだよ。……も、もちろん僕は、こんな貧弱な体だから、君たちの力にはなれない。だ。だから、せめて」
モウンは目の前の大盃を取り上げ、薄い笑みを浮かべて、私たちにかざした。
「せめて、君たちの志とその行く末に、この盃を捧げさせてくれないか」
私たちは互いに顔を見合わせ、そしてにっこりと微笑みあう。
「ありがとう、フォン=モウン。その気持ち、嬉しいわ。ありがたく、受けさせてもらうわね」
私たちは相互の盃を高く掲げ、清々しい思いで打ち合わせた。
各人の盃は酒であったり茶であったりとそれぞれ異なり、従ってその音質も異なるけれど、一つに混ざりあったその音色は、高く澄んで共鳴し、美しく響き渡っていく。
私たちそれぞれの個別の思い、そしてそれでいながら一つにまとまった願い。それを、その鮮やかな音色は、爽やかに、そして凛冽に象徴しているかのようだった。




