不穏な空気と突然の対決
(鳥さんが可哀想だなあ)
などと、私はぼんやり思う。
別に、誰かが小鳥に酷いことをしているとか、そういうわけではない。私の視線の先にはアンジェがいるのだから。誰よりも優しいアンジェが小鳥をいじめたりするわけはない。
ただ、彼女は小声で唄を謳っているのだった。嬉しそうに、楽しそうに、機嫌よく。
そのアンジェの唇から奏でられていたのが、あまりにも可憐で澄み切った美しい歌声だったものだから、それを聞いた小鳥さんたちも恥ずかしく思って、さえずるのをやめちゃうかも、なんて思ったわけなのだった。
……ま、惚れた欲目ではあるというのもわかってるけどさ。でも実際可愛いんだもん。
私がアンジェと暮らし始めるようになってから結構経つ。その間、色々な彼女の声を聞いて来た。
たいていは可憐な素直な声。そして甘えるような声。たまには泣いた声や怒り声。そしてほんとに時々、めっちゃ怖い声も、聞いたことないわけではない。そのほかにも、人には言えないような、あんな声やこんな声だって、もちろん聞いた。
でも、歌を聞いたのは珍しいかも。夜を共にするとき、時々、子守歌代わりに口ずさんでくれたことはあったかな、って感じだけど、基本的には控えめで慎ましいアンジェが、自分から歌を披露したりするような機会はあまりなかった。
けれど、良く晴れたある日の午前中。洗濯物を干しながら、アンジェがニコニコとしながら小声で歌を歌っているという珍しい光景を私は目にしたのだった。
それだけでなく、時折、五指を繊細に動かしながら、何か楽器をつま弾いているようにも見える。もちろん今の彼女は素手だから、いわゆるエア楽器だ。ただ、そういった行為をついしてしまうほど、今の彼女が機嫌いいんだろうな、というのは伝わってくる。
……まあ、あれだ。
昨夜、一杯可愛がってあげたからかな、アンジェのこと。
ここのところ、ラフィーネさんとか、テュロンとか、キュリエナとかにいろんな事件が起きて、そちらの方にちょっとかかりきりだったかもしれない。
だからと言って別にアンジェをないがしろにしていたつもりはないんだけど。でもやっぱり、具体的に愛の形を表現にしてあげる、というのは、それはそれで大事なことではあると思う。
……えーと、その。アンジェだけじゃなく、私自身、その、なんだ。結構、燃えちゃったしね。
「……あ、ご主人さま」
木陰から覗いていた私の姿に、アンジェが気付いたようで、にっこりと春風に揺れる花のような微笑みを投げかけてくれた。
「精が出るわね、アンジェ。手伝いましょうか?」
「ご、ご主人さまに手伝っていただくなんて、とんでもありません! それに、もう終わるところですし」
慌てて手を振ったアンジェのびっくりした表情が可愛らしくて、私はくすりと笑う。笑いながら、ついでに聞いてみた。
「そういえばアンジェ、さっきから、歌を歌ってたみたいだけど……」
「お、お耳に入ってしまいましたか。はしたない真似で、申し訳ありません」
「ううん、とっても可愛らしかったわ。でも、歌いながら時々、こう……なんか、楽器を弾くみたいな手つきもしていたわね、あれは何?」
アンジェはますます顔を真っ赤にしてしまい、恥ずかしそうにうつむいた、もともと色白の彼女が頬を染めると、まるで桜の花が咲き誇るようで、艶っぽくも愛らしい。
「あれは、あの、なんと申しますか……。た、竪琴の、真似でした」
「竪琴? アンジェ、竪琴を習ってたの?」
「いえ、幼いころに、母から少しだけ。とても楽しかったのですけれど、でも、母が早くに亡くなったものですから、それきりでした。その頃の私の家には、もう新しく教師に付くと言いうような贅沢もできなくなっていましたから」
そっか。アンジェにとっては、ちょっと辛い話題だったかもしれない。
でも確かに、私が以前、アンジェのスキル構成を覗いてみた時には、竪琴のスキルは存在しなかったな。つまり、いわゆるスキルとして構築されるほどには経験を積めなかったってことのようね。
……でも、今なら。
「ねえアンジェ、竪琴がそんなに好きだったなら、今からだって習っていいのよ」
「え? でも、そんな、私、奴隷の身でそんな贅沢なこと……」
「奴隷だったら主人に心地よく過ごしてもらうのも務めじゃないかしら。私、アンジェの歌、好きよ。そしてきっと、あなたの竪琴も多分凄く素敵だと思う。だから、それを聞かせてもらうのは私のためにもなるわ。……ね?」
今の私たちはすでに塔の40階層を越えており、それによって得られる聖遺物の収入も相当のものになっている。だから金銭的な問題はないはず。
「ですが、ご主人さまのお世話をさせていただき、お屋敷のお手入れをする大切なお仕事もございますし」
「それはまあ、人も増えたんだし、みんなで少しずつ手分けてやればいいわよ。私だって多少は手伝えると思うし」
「あー、いえ、それは、その……」
アンジェが口籠った。これまでの遠慮したような口調ではなく、上目遣いにちょっと困ったような、苦笑したような表情で。
「……申し上げづらいのですが、ご主人さまに家事のお手伝いをしていただきますと、かえって余計に片付かなくなるような気がします」
「……言ったわね、アンジェ。……待ちなさい! お仕置き!」
「きゃっ、ごめんなさい! でも、本当のことですし!」
くすくす、と笑いながら逃げ出したアンジェを、私も、あははと笑いながら追いかけ、そのまま庭木の周りをぐるぐる回る。左近の桜に右近の橘、なんて風流なものではないけど。
……っていうか、客観的に見れば、今の私たちって、すごい恥ずかしいバカップルがじゃれあってるだけなんじゃなかろうか。
とか思ってたら案の定、
「なーにやってるんですかねえ、あの見てるだけで頭痛くなるような恥ずかしい人たちは」
屋敷の窓辺に頬杖をついて、こちらを呆れたような目で眺めながらつぶやいている声が聞こえる。 むー、ラフィーネさん、私の耳はいいんですからね。後で覚えててくださいよ。
「まあ、季節の変わり目には、ああいう頭のあったかい人たちが現れるものよ、うふふふ」
ラフィーネさんの傍らに立ってニヤニヤ笑っているのはキュリエナ。だから聞こえてるんだってば。後でほっぺた引っ張ってやるから。
「いえ、私の輝ける知性による知見からいたしますと、あれは下半身の鍛錬に相違ございませんわ。武術もその根本は足腰。そのことをさすがにご主人さまはよくご存知と見えますわ」
いやテュロンの言うことも間違ってはいないけど間違ってるから。
「でも、ただの追い駆けっこみたいにも見えるよ。楽しそう! 僕、まぜてもらってくるね!」
……メイアはメイアでほんとに無敵だなこの子は。
とはいえ、結局その後にほんとに混ざってきたメイアとテュロンと一緒に、私たちは庭で無邪気に追いかけっこをして遊んだのだった。
……ただ。
思えば、私たちがそんなふうに、子供のようにじゃれあって遊んでいたのは。
――誰もが目を背けようとしながら確固として存在する、聖都全体を覆う、重く暗鬱な空気から、無意識に遠ざかろうしていたから、だったのかも、しれない。
食事の時、改めてアンジェと竪琴の話に付いてみんなにも話してみた。
別にアンジェだけ特別視するわけではないし、みんなそれぞれに、もしやりたいことがあるなら、できるだけやらせてあげたいとも思っているしね。
そういうと、テュロンなんかは史書や文献を借りて読んでみたい、という希望を出してきたので、それについても考慮しようと思う。この世界ではまだ、本を自費で買うというよりは貸本で読む方が一般的だ。
そして、肝心のアンジェの竪琴に関しては、メイアが無邪気に言ってくれた。
「そうだ、ご主人さまのお友達のユーゼルクさんのとこに、詩人さんがいたよね。あの人にアンジェ姉さま、教えてもらえばいいんじゃない?」
あー。そういえば、ユーゼルクの仲間というか恋人のエレインは吟遊詩人で、竪琴使いだっけ。
私とユーゼルクが友人かどうかはともかく、なんだかんだで結構いろんな付き合いのある人たちにはなってはいる。なので、一手二手、竪琴の引き方を教えてくれないかな、というくらいなら受けてくれるかもしれない。で、その後は、アンジェには私がコピーした『ラーニング・エンハンス』のスキルがあるので自分で成長できるし。
……にしても、「友人」かあ。
メイアは以前から、私とユーゼルクのことを友人だと思っている。
私もそれを強く否定するようなつもりはないのだが、なーんとなく引っかかるものがあるのよね。
もとより、私は女性しか愛せない女性だし、ユーゼルクもそんな私のことをとっくに見抜いているだろう。
実際、私がアンジェたちに向ける熱い視線や態度は、単なる仲間に対するそれを超えているものであるはずだし、私は特にそれを隠してはいない。大っぴらに喧伝してもいないけどね。
だから、私とユーゼルクとの間に恋愛感情なんかが発生する可能性は全くあり得ないし、それゆえにこそ、性別を超えたいい友人になれるのかもしれない。
でも。
それでも、なんだか心のどこかで、私はユーゼルクに対し、出会ってからずっと、不思議な違和感を抱き続けているのも事実なのだった。
私とほぼ互角に戦える唯一の戦士だから警戒しているのかな? うーん、それだけのことなのだろうか。彼がまぎれもない好青年で、邪念の欠片もない善人なのは、よくわかってるんだけどな。
「うーん。でも、ユーゼルクたちも忙しいと思うけどね。あの人たちも、もうそろそろ塔の90階層くらいには登ってるころじゃない?」
私がなんとなくそうはぐらかしたのも、少しユーゼルクに対してためらう気持ちがあったからかもしれない。いや、彼らが登攀者の誰よりも先に行っている以上、忙しいであろうこともまた事実ではあるんだけど。
しかし、そんな私の言葉を、あっさりとキュリエナが撃ち砕いた。
「あー、でも、そういえば、最近ユーゼルクたちはあんまり塔に登ってないみたいよ」
「……え? そうなの? なんで?」
「そこまでは知らないわ。ただ、こないだ酒場で飲んでたら、何となくそういう噂話が聞こえてきたのよ。ことによったら、ラツキ、あなたたち、もうすぐ彼らに追いつけるんじゃない?」
「いつかは追いつきたいとはいえ、さすがにそう簡単なことじゃないと思うけど……」
私は考え込んだ。
ユーゼルクたちが最近塔に登っていない?
それはそれで、気になる情報ではある。
隊の中の誰かが、病気とか怪我とか、したのだろうか。
でも、彼らのチームにはそれこそ吟遊詩人のエレインや間士のバートリー老人がいる。
エレインの詩には治癒の能力があるだろうし、バートリーは間士だけに、薬草の知識なんかも豊富そうだけどなあ。それでも治らない病気とか怪我だったり?
さっきも言ったとおり、私は別にユーゼルクたち個人が嫌いなわけではないのだし、心配と言えば心配ではあるわね。
「……それに」
と、私は、自分の頬に掛かった髪を一筋払って、声音を改めた。
「どうせ彼と会うなら、話し合っておかなければならないこともあったわね」
言って、私はまっすぐにキュリエナを見る。彼女の玉貌から、いつもの皮肉めいた笑みが瞬時にしてすっと消えた。その白銀の目には冷たく静かな、それだけに恐ろしい闘志が宿る。
私が何を言おうとしたのか、キュリエナは理解したのだ。
――『登攀者殺し』に関してのことだと。
そう、そのことが。『登攀者殺し』の存在こそが、聖都を覆う沈鬱な雰囲気の原因だった。
キュリエナのかつての恋人だった登攀者の少女が不審の死を遂げてからも、幾人か、塔の中で登攀者の遺体が見つかる事件が続いていたのだ。
聖殿は口止めしていたが、人の口に戸は立てられず、隠すよりも現れるもの。『登攀者殺し』が再び行動を活発化させたのではないか、という噂は、既に巷間で声を潜められつつ語り合われる恐怖になりかけていた。
ラフィーネさんも、悔し気な顔つきで唇を噛む。聖殿としてもその登攀者殺しの噂を捨て置いているわけではなく、全力で調査中ではあるようだが、眼に見えた効果は上がっていないようだったからだ。
とするならば。聖殿に任せきりではなく、私たち登攀者自身も、何らかの自衛手段を講じる必要だってあるだろう。たとえばなるべく小人数では登らないようにするとか、人数制限に引っかからない範囲を保ちながら、複数のチームがお互いに目視できる距離で行動するとかだ。
ただ、そうすることで、守護獣を狩ってそれを金銭に替える、という、登攀者の多くにとってのメリットは大きく損なわれる可能性がある。人数が増えればそれだけ分け前は少なくなるわけだし、複数チームでまとめて登るとなれば、守護獣が現れたとしても、それを狩れるのはそのうちの1チームだけ、なんてことにだってなるかもしれないしね。
しかし、実際に無視できない被害――『登攀者殺し』ではないかと疑われる謎の被害が広がっている以上、デメリットを承知で何らかの行動は起こすべきではないだろうか。
そして、登攀者たちの頂点であり憧れであるユーゼルクと、聖花の摘み手である私とが連名で注意声明を出せば、それには一定の効果が見込めるのではないだろうか。
私はそういった自分の考えをみんなに説明し、彼女たちもそれに賛同してくれた。
「……じゃあ、みんな。近いうち、ユーゼルクのとこ、行ってみましょうか。もし病気だったらお見舞いに。そうじゃなくてただ休んでるだけなら、アンジェの竪琴の件、頼めるかもしれないしね、そして、登攀者のみんなに、共同で注意をしてくれるならもっとありがたいし」
私はみんなを見回して、今後の行動について決断を下したのだった。
……だからね、ここでもう一度改めて、強調しておきたい。
私はユーゼルクたちのことを心配して、彼らのお見舞いに行ったんだし。
それに、登攀者のみんなのことを心配して、登攀者殺しに注意するように相談しに行ったんだよ、ってことを。
つまり純粋な善意で、好意で、優しさでだ。
――それが何で、彼と戦う羽目になるのよ。
「いたーっ! って言うか、来たーっ!」
「ええええええ!? な、何!?」
ユーゼルクの家を訪れ、守衛さんに案内を乞おうとしたまさにその瞬間。
家の戸口が内側から激しい勢いで開け放たれ、そこから雪崩を打つように二人の人影が走り出してきた。その人影は猛禽類が獲物を捉えるかのように、がしっと私の両肩を掴むと、血走った眼で私の顔を睨みつけた。
「ミ、ミカエラ!? どうしたのよあなた」
金色の瞳で凝視するその相手に私は仰天した。
それは確かにミカエラ。ユーゼルクの仲間であり幼馴染であり、そして恋人でもある女性だ。いつも割とテンションの高い子ではあるのだが、それにしたって、今のこの状態は何なんだ。
ミカエラの背後には青銀色に輝く美しい髪を靡かせた知的な美女が立つ。彼女がエレイン。さっきの私たちの話の中で話題に上った、ユーゼルクの仲間の吟遊詩人であり、もう一人のユーゼルクの恋人。
「ちょうど上の窓からあなたの来るのが見えたのよ、ラツキ。こっちから探しに行こうと思ってたところだったけど、いいところに来たわ、塔のお導きね、もう逃がさないから!」
「……ですからミカエラ。それが仮にも他人に物を頼む態度ですかと毎回申し上げています。本当に脳味噌はおろか神経のすべてまで筋肉でできているような人ですね。……とはいえ、ラツキさん。急を要する事態なのは事実。ぜひご協力をお願いいたしたく」
ミカエラがきゃんきゃんと盛りの付いた犬のように吠え掛かる。いつもならそれを冷静に突っ込むエレインもまた、内面の焦りを隠しもしない様子で私に頭を下げ、戸内に連れ込もうとするようにせわしなく腕を取った。
「だから二人とも、事情が分かんないんだってば。協力しようにも、何がどうなってるのよ」
「説明してる時間もないのよ。ただ言えることは一つ、ユーゼルクを助けてほしいの!」
その驚愕するような言葉の意味を噛みしめる暇さえなく、私たちはまるで攫われるようにしてユーゼルクの宿舎の中へと引っ張り込まれた。
脂汗をその美しい顔に流れるままに任せたミカエラとエレインに引きずられるまま、私たちはわけもわからず宿舎の階段をすっ飛ばすようにして登りぬける。
たどり着いたのは、いつも通される居心地のいい居間ではなく、その上の天井裏部屋だった。
「……ユ……ユーゼルク……ッ!?」
掠れた声で私は部屋の中央にいるその人物の名を呼ぶ。
黄金に輝いていた髪は乱れ、澄んでいたその目は濁り、端正な顔立ちにはくっきりと隈が浮かんで頬がこけた、憔悴しきった様子の彼を。
しかも、それだけではなかった。
彼は大剣・殲煌雷刃を片手にして椅子に座っていたが、その身は厳重に鎖で緊縛され、さらにその両肩を、岩人族の巨人、ロッグロックがしっかりと押さえつけていた。さらに、ユーゼルクの喉元には、狼人族の剣士・ルーフェンの妖刀が突きつけられ、また間士の老人バートリーも苦無を構えて油断なくユーゼルクを見据えている。
その異常な状況に私たちが声を失った一瞬、誰よりも先に悲鳴にも似た声を上げて後ずさり、私にすがり着いたのは、メイアだった。
「……ご主人さまっ!……あれは……あれは何!? 何かがいるよ! 何か、怖いものが!」
その時メイアが見つめていたのは、異様な姿のユーゼルク本人ではなく、仲間に異常な行為を働いているルーフェンたちでもない。
輝いていたのは、メイアの右目。普段は前髪に隠されているその紫紺の瞳は、常ならざる力や存在を波として捉え、認識する異能の力を持つ。
――そのメイアの右目が見ていたのは、ユーゼルクの、さらに奥にあるもの、だった。
ユーゼルクの中。
そこに、何かが、ある。いや、いる、のか。
うつむいていた顔をやっとと言った疲れ切った様子で上げて、ユーゼルクが青ざめた表情で微かに微笑んだ。
「……ラツキ。来てくれたんだね。この格好は、気にしないでくれ。僕の方から仲間たちに頼んでいるんだ。……だが、長くは保ちそうにないけれどね。……君のお仲間のおちびさんの、言った通りなのさ……!」
「どういうことなの……!」
たじろいだ私に、傍らのミカエラが早口で断じるように、言った。
「ラツキ。――ユーゼルクを、斬って!」
……今度こそ、私は二の句が継げなかった。
何を、言われたのか。私は、今。
だがそんな理解をする時間など私に許されてはいなかった。
ユーゼルクの身体が、震え出したのだ。
「そろそろ……落ちそうだ……ラツキ……おそらくもう見境いなしに僕はこの剣を振るいだす。そうなった僕を止められるのは、君だけだ……ラツ……!」
彼の言葉は言い終わりを許されることがなかった。
ほんの僅か、体を捻る。ごく微かな、風のような動き。無論、その程度の力で、テュロンたち地龍族と並び称されるほどの怪力を誇る岩人族のロッグロックを、力ずくで振り払うことなどできはしない。
……しないが。
だが、いかなる巨大な生き物でも、ふわりとでも力を一点に加えられれば、目に見えない極少の規模で重心は揺れるのだ。もちろん、その程度の微かに揺れた重心など、一瞬にも満たない時間で元に戻る。だが。
その一瞬さえ与えずに。一点を揺るがせた、その動きを全く途絶えさせずに。まさに、風の流れるような動きで、崩れた体勢を別方向に払えば。
――バランスは、崩れるのだ。
スピードではない。いかに速くおこなっても意味はない。むしろ、速くおこなおうとすればそれだけ動き自体はぶつりと途切れがちだ。
その術技の肝要な部分は、流れにこそ、ある。まったく断絶のない一挙動で崩しと払いを同時に軽やかに成し遂げる、流れに。
ロッグロックの巨体がぐらりとかしぎ、たたらを踏んだ。そこへ潜りこんだユーゼルクの身体が、拘束されていながらも見事に巨人の体勢を崩し、彼を大きく転倒させた。狼人ルーフェンが剣を構えていた、まさにその方向へ。
慌ててバートリー、そしてルーフェンも剣を引き、後方へ飛んで構え直そうとする、その剣を引く動作に、ユーゼルクは自ら身体を寄せ、そして、「斬らせた」。自分を拘束していた鎖を。
『殲煌雷刃』を引きずるようにやや前かがみで立ち上がったユーゼルクの、金色に澄み渡っていたはずの瞳はどんよりと曇り、濁っていた。
『……カエセ。ナニモカモ。……オマエノモノデハ、ナイ……!』
しわがれた声が、ユーゼルクのはずの男の口から漏れる。誰に対しての言葉なのか。
何かの重さに耐えきれぬように震えるその両手は、しかし、大剣を握りしめたまま、ゆっくりと構えられた。
剣の刃に小さく雷閃が走る。
……なるほど。
これが、私の呼ばれた理由か。
「全員、建物の外に出て!」
鋭く飛ばした私の声に、バートリーとルーフェン、そしてキュリエナが真っ先に反応し、残りの人数を無理やりに部屋の外へ引きずり出した。
この素早い対応はありがたい。正直、邪魔なのだ。私以外は。
多分、ユーゼルクたちのチームでも、ユーゼルク以外のメンバーがそろって彼に挑めば、彼を倒すことはできるだろうと思う。彼らにはそれだけの力がある。
……ただしそれは、ユーゼルク自身、そして他の何人かの命と引き換えにだ。
だが、もちろん、ミカエラたちはそれを望まなかった。
ユーゼルクを殺さずに、そして殺されずに、無力化し、制圧する。
それは単なる殺し合いよりもはるかに困難で厄介な仕事だった。
「『斬って』、……か……」
私は、ゆっくりと歩み寄ってくるユーゼルクを見ながら苦く口中で呟いた。
ミカエラたちは、聖花の摘み手の競争の時に、見ている。私の剣・陽炎が、アンジェの肉体を傷つけずに、魔法だけを斬って光芒剣を現出させた力があることを。
彼女たちはおそらく、私のその力に賭けたのだ。
ユーゼルクのの中にある「何か」を斬ってくれ、と。
「確かに、あなたたちには、色々と借りが多かったけどね、ユーゼルク。それはいつか返さなきゃとは思ってたけど、だからってこれはちょっと、利息多く取り立てすぎじゃないかしら……!?」
私は双剣を鞘走らせながら、湧き上がってくる泥のような味の唾を飲み込んだ。
同時。
ユーゼルクが剣を引きずりながら、獣のように跳躍した――!
ユーゼルクの姿をしたそいつの口から、くぐもった声が漏れる。
『センコウ……!!』
うわ、ちょ、ま!!?
いきなり最大火力ブッパなの!?
私は慌てて左手の漆黒の剣・不知火を身構える。――刃筋が立ったか否かの、そんな刹那。
『ライジン……ッ!!』
枯れた猿叫と共に、ユーゼルクの剣から凄まじい勢いで放たれた黄金の光。
それは周囲を焼き尽くし喰らい尽くさずにはおかない雷撃の龍――!
「不知火――っ!!」
私はその雷撃に、漆黒の魔剣を叩きつけた。雷撃の津波のような圧力で体が持って行かれそうになるのを歯を食いしばって堪えつつ、強引に身体を捻って……
「つぇええええいっ!」
身体に猛牙を立てようとした電撃を、私は受け止め、溜めながらも、角度をつけて、部屋の片隅に無理やりに「ブン投げた」。
これが、不知火の能力の一つ、魔法反射。
かつて伯爵夫人の事件の時にも、私はユーゼルクの殲煌雷刃を真っ向から反射して、怪物――『淀み』を両面焼きにしてやったことがある。
だが、今回は真正面に反射するわけにはいかない。そんなことをすればユーゼルクの照り焼きが出来上がってしまう。だから私はその雷撃を、誰もいない部屋の一方に叩きつけたのだ。
みんなをこの部屋から退避させたのは、これが理由。あの洞窟の様なだだっ広い空間でもないこんな場所で、他に人がいたのでは、誰かに当たっちゃうかも、なんて配慮をしながらではとても戦えない。
右手の剣・陽炎の魔法斬断能力で雷撃を斬っても良かったのだが、最終的な目的はこの陽炎でユーゼルクを斬ることなのだから、なるべく右手は「活きた」状態、フリーハンドにしておきたかったのだ。
雷撃が叩きつけられた部屋の片隅は、耳をつんざく衝撃音、そして視界を覆うほどの噴煙とばら撒かれた瓦礫と共に、壁が丸ごと吹っ飛んで外界が丸見えになっていた。……部屋の修理代までは私は責任取らないぞ。
さすがにいきなり超必を叩きつけただけのことはあり、ユーゼルクも体勢を立て直すのにやや時間が掛かっている。が、すぐにも次の一刹は襲い来るだろう。
だが。
私は次の一撃に備えつつ、二種類の微妙な違和感を覚えてもいた。
以前、洞窟での戦いで、一度『殲煌雷刃』を受けた経験があるからこその、それは違和感。
(……この程度の威力だっけ?)
確かに、凄まじい勢いだった。侮れない衝撃だった。だがそれでも、あの地下洞窟で受けた時この身に刻まれたほどの、恐ろしい迫力と猛圧は、今の一閃にはなかったように、私は感じていたのだ。
ユーゼルクが目に見えるほどに消耗しているのは確かだけれど、それだけが理由なのだろうか?
それに、もう一つ。
……なんでいきなり、『殲煌雷刃』を撃ってきたの?
ユーゼルクはあの地下洞窟での『淀み』との戦いの際、まさに自分が撃ったその技が反射されるところを、自分自身の目で見ているはずじゃない。
だから、迂闊に私に雷撃を撃てば跳ね返され、まるで焼き網の下に落ちて焦げた焼き肉の欠片みたいな状態になりかねないことを承知していたはずではないのだろうか。
それなのに、しょっぱなから、ためらいもなく撃ってきたのはなぜ?
……だが、じっくり考える時間はない。いい方向に切り替えるんだ。ユーゼルクが、そして殲煌雷刃が本来の力ではないのなら、それだけこっちの対処もしやすくなるってことよね。
私は改めて不知火を眼前に立て、陽炎を車に構えながら、幽鬼のように揺らめくユーゼルクの姿を見つめ直す。
どんよりとした昏いユーゼルクの瞳が、乱れた前髪の影から、私を睨みつけていた。




