悪女と真心
『ひいふうみ……と、まあ、こんなとこでしょうかネー』
「渋すぎるでしょ。こっちはお得意さんなのよ。もう一声、勉強しなさいよ」
『相変わらず厚かましいデスネー。まあ人間も30を越えればそろそろ恥も外聞もなくなってくるようデスガ』
「まだ越えてないっ!」
げしっ。
ブーツのヒールが小気味いい音を立てて下品で派手な電光掲示板に叩きこまれる。
ここは、毎度おなじみ、クソ電飾の世界。
周囲は純白の闇に覆われ、その靄が掛かったような視界の中、浮き上がるようないくつかの明滅する光が激しく自己主張をしている。
私はEXスキル『ショッピング』を使用してこの世界を訪れることができる。最初のうちは状況に応じて必要なスキルやアイテムを購入していくのが主な用件だった。
だが、最近は以前とは異なり、スキルを買うのではなく、売却する用件で訪れることの方が多い。
……まあ、もうほとんど、購入ポイント残ってなかったしね。
10億なんて額を貰った時は使い切れるのかどうかさえ疑問だったけど、結構あっさりとなくなるものだ。
今のところは、現状で所持しているスキルやアイテムだけでも、特に生活や戦闘において不自由はない。頼れる仲間も増えたことだしね。
けれど、今後何があるかわからない。万一の時に備えて、購入ポイントの余剰は作っていた方がいいだろう。そう考えて、私は、ちょこちょことスキルを売りに来ている。
例えば、アンジェやラフィーネさんの魔法スキルや、あるいは学問や歴史に関する知識。またテュロンやキュリエナの身に付けている知識。それを『スキルコピー』の能力で私にコピーし、売ったりとかね。
そんな感じで仲間たちのスキルはだいたいコピーさせてもらい、ポイントに変えさせてもらっている。
そのおかげである程度のポイントは溜まったのだけれど、もしも大きな買い物をするときがあるとしたら、まだちょっと心もとないな。
ということで、最近私は、塔で倒す守護獣からもスキルをコピーし、それを売ったりもしていたのだった。
ただ、守護獣って、倒してしまうと光になって消えてしまうのよね。その場合はスキルをコピーするような暇はない。なので、うまく手加減して、一撃で倒さないようにしつつ、みんなに不自然に思われないようにスキルをコピーしてからとどめを刺す、みたいなことをしなければならず、かなりめんどくさい。
とはいえ、私たちが今現在到達している階層は既に35階を超えており、それだけに守護獣たちも手ごわくなっているのは確か。なので、私が多少苦戦しているように見えても、仲間たちにはそれほど不審には思われずに済んでいるようだった。
『……ではまあ、今回はこんなところでよろしいデスネ?』
「仕方ないわね。次回はもう少し色付けてよね。大体、私は世界の活性化っていうあんたの目的のために働いてるんだし、多少のサービスはあってしかるべきでしょう」
『それを言うのデシタラ、こちらも羅槻サンの新しい人生を用意してあげているのデスカラ、サービスしてくれてしかるべきデス』
むむー。ああ言えばこう言う。
でもまあ、確かに私とこのクソ電飾は相互の目的達成のためのWin-Winの関係にあるのは事実。死ぬような目にも遭ったりしたけど、その辺も含めて、こいつとは悪くないめぐりあわせだったとは思う。
『しかし、羅槻サンは無計画の癖に小心者と言いマスカ、手当たり次第に大きな買い物をする割には、すぐに必要のないポイントをちまちまと溜めたりもするんデスネー』
「うっさい。私だって、家をもって家族が出来たら多少は計画的になるわよ。いつ何が起きてもいいようにね」
『確かにそうデスネ』
と、クソ電飾はそこでいったん言葉を――文字表記を切り、やや間を置いてから、続けた。
『ご承知だとは思いマスガ、あなたの周りでおきた諸問題は、まだ解決されていないものも多いのデスカラネ』
私は押し黙って、網膜にチカチカと煩わしく映り込むその文字列を認識した。
直接的な敵であったレグダー男爵はいまや既に亡い。だが、彼一人を倒したからと言って、私が警戒し注意を払うべき対象がすべて雲散霧消したわけでも、またない。そのことは、もちろんわかっていた。
男爵の始末をつけてからも、私の心底に引っかかっている一つの事実がある。
それは――
「男爵の協力者」の存在だった。
かつて、私は男爵に『ディレイ・ヴォイス』と『ディレイ・サイト』のEXスキルを付け、彼の動向を探ったことがある。対象者の行動の録音・録画を可能にするスキルだ。
その際に明らかになったこと。それは、男爵が、ほぼ対等の立場で、自分の計画を話す相手がいるということだった。
だが、その相手が誰なのかまではわからない。後から考えてみれば、四か国会議の席で男爵を追いつめた時にそこまで吐かせることができたかもしれない、と何度か悔やみもしたのだけど。しかしあの場では私の精神状態もいっぱいいっぱいだったし、今となっては考えても詮無いことだ。
一時期、まだキュリエナが敵だったころに、キュリエナがその協力者なのかな、と考えたこともあったんだけどね。でも彼女の話では、男爵から具体的指示を直接は受けていなかったというし、違うみたい。
……だとすると、男爵と同じような脅威がまだ残っている可能性がある、ということになる。その「協力者」が私やアンジェを直接狙っているのかどうかはわからないのだけど。
「……まあ、気を付けるわ」
私は電飾に短く答えを残し、この白い世界を後にした。
自室のベッドの上で、私は元の世界に復帰する。
――「元の世界」か。
もちろんそれは、アンジェやみんながいる、この『神々の塔』の世界のことだ。
今となっては、生まれ育ったあの世界ではなく、この世界のことを普通に「元の世界」って感じるようになっているんだなあ、などと感慨にふけっていると、ドアが遠慮がちにノックされた。
「ご主人さま、そろそろお時間です。……ご主人さま?」
「ああ、御免なさいアンジェ、今行くわ」
扉の向こうから呼びかけたアンジェの可愛い声に応えて、私は手早く身支度を整える。
今日はみんなで出かける日なのだった。
と言っても、遊びに行くわけではない。一応、お仕事。
居間ではテュロン、メイア、キュリエナ、ラフィーネさんが待っていた。もっとも、キュリエナとラフィーネさんは、楽しそうな他の子たちとは異なり、ちょっとめんどくさそうな、あるいは面映ゆそうな表情を浮かべていたけれど。
そんな彼女たちと共に、私が赴いたのは、これもおなじみの場所。
奴隷商人のメガックさんのお店だった。
「ようこそ、ラツキ様。お待ちしておりました」
つるつるの卵頭がいつもより輝いているように見えるほどにニコニコして、メガックさんは大きく手を広げ、私たちを迎えた。
「今日もよろしくお願いします、メガックさん。今日くらいでおしまいですか?」
「担当者はそのように申しておりましたな。何日も貴重なお時間をいただいてしまい、申し訳なく思っております」
「いえ、いいんですよ。まあ正直、じっとしているのはちょっと疲れましたけどね」
言いかわしながら私たちはメガックさんのお店の奥、少し大きめの広間に入る。そこには、おでこから長い触覚を生やした種族のおじさんが待っていた。
彼の触角は興奮したようにあちこちへ落ち着かずに揺れ動き、そのギラギラした、白目のない目元にはちょっとアブない系の熱を孕んでいる。昆虫っぽい種族さんだ。一見アレな感じの人だが、悪い人ではないことはわかっている。
「いやいやいや、よく来てくれたね! さあさあさあ、今日もまた始めようじゃないか! ではではでは、さっそく着替えてくれたまえくれたまえ!」
虫っぽいおじさんは意気込んだ調子でそういうと、苦笑して顔を見合わせる私たちをよそに、夢中になった様子で描きかけのキャンバスに向かった。
――そう。
私たちの今日のお仕事は、モデル。
絵のモデルなのだった。
きっかけになったのは、ちょっと前のこと。テュロンが仲間入りした後で、あの伯爵夫人の事件が起きる直前くらいの時期だったと思う。
ラフィーネさんと私たちは、お菓子をつつきながら、確か、こんなことを駄弁っていたことがあった。
「いやあ、それにしても壮観ですねえ」
「何が壮観なんです?」
「だって、いずれ劣らぬ絶世の美少女三人で登攀隊を組むとか、滅多にあるものじゃないですよ。実は私たち聖務官の間でも、そろそろ、ラツキさんたちのことは噂に上りはじめてます。すんごい可愛い子たちで揃った隊があるって」
で、私はその時思ったのだった。アイドルグループみたいね、と。
そんなことを、メガックさんのお店へ追加投資の話で赴いた際、茶飲み話のついでとしてちょっと話したのだったが、メガックさんはその話題に、思った以上に食いついてきた。
もちろんこの世界にアイドルという感覚は馴染みが薄い。けれど、評判の高い歌姫や舞姫という存在はあるわけで、そういった女性たちを描き、ブロマイドのように売り出すという商売はある。浮世絵の役者絵みたいな感じかな。
ということで、思い付きのように私が持ち出した話に、メガックさんは非常に興味を示したのだ。つまり、私たちの絵姿を描かせ、それを使ってお店の宣伝をしたい、と。
もちろん最初は戸惑った。私は何もアイドルになるためにこの世界に来たのではないし、だいたい、なんか気恥ずかしいし。
けれど、メガックさんの度重なる説得は私の心を動かした。
というのは、私はメガックさんに対して、かなりの負い目を感じているからだ。
メイアが仲間入りした「聖花の摘み手」の競争の事件の時、私を狙ったレグダー男爵の陰謀の巻き添えになる形で、メガックさんは危うく破産の憂き目に遭うところだった。
もちろんその事件は無事解決したのだけど、関係のない彼を巻き込んでしまった、という申し訳ない気持ちはずっと私の中にある。
それに、どうせ「聖花の摘み手」に選ばれた私の顔はそこそこ有名になってしまっているのだし、今更隠したって仕方がない。だったらむしろ、その知名度を利用したほうがいいのかも、とも思うし。
そして最後に、モデルになる謝礼金がなかなかの高額であったから、ということも否定しない。
さっきクソ電飾のところに行ってスキルを売却したけれど、同様にこの世界の金貨を交換することもできるのだ。最初にこの世界に来るときに、ポイントを金貨に交換出来たように、その逆も可能というわけ。
それはあまり効率のいい交換ではないのだけれど、でも多少なりともプラスになるのなら、やらないよりはやった方がいい。
……という様々な理由から、私はメガックさんの依頼を引き受け、モデルになったのだった。
もっとも、その私の決断に、二人ばかり、眉をしかめた者がいる。ラフィーネさんとキュリエナだ。
「私、建前っていうか名目上は、一応、ラツキさんの仲間じゃなくて、そのお目付け役なんですよねえ。しかも聖務官っていうお役目ですし、そんな私がニコニコしながら皆さんと絵に描かれていいものなんでしょうか……」
と首を傾げたのはラフィーネさん。
ラフィーネさんは生活態度自体はテキトーな人だけど、一応、真面目なとこは真面目でもあるのよね。
とはいえ、
「だからいいんじゃないですか。ラフィーネさんが一緒に描かれることで、ちゃーんと私たちと共に行動して、監査官として見張ってますよ、って証拠になりますよ」
という私の舌先三寸に、あっさりと、「それもそうですねー、あははー」と騙さ……頷いてくれた。うん。彼女はちょろ……簡単でいい。
しかしそれに対して、キュリエナはあきれ果てたように腰に手を当て、顎をツンと上げて、私を斜め上から見下ろしたのだった。
「あのねラツキ。私、間士なのよ、間士。闇に生きる影。諜報と裏切りと陰謀の世界で生きる者なの。どこの間士がこれ見よがしに、自分の肖像画なんてものを描かせて、しかもそれを世間にばら撒いて喜ぶのよ」
「でも今は登攀者でしょ。ならいいじゃない」
「それはラツキに雇われてるからであって、その仕事が終わったら、あとはまた間士に戻るわよ、私」
「間士になんか戻さないって言ったら?」
悪戯っぽい笑みを口元に称えて、私はキュリエナの顔を眺めた。
彼女の白銀の目が少し細められ、次いで、艶めいた唇が苦笑の形に歪む。
「ずっと私を離さないって言いたいの、ラツキ? 殺し文句のつもりかしら? 確かに今の私はあなたに惹かれてる。心も、そして、ふふ、身体もね。だからあなたと一緒に過ごすことに文句はないわ。けど」
キュリエナはいつもの皮肉気な光を瞳に宿す。銀の瞳が遠い星の瞬きのように揺れた。
「だけど、いつまでもその気持ちのままでいるかどうかなんてことはわからないわよ、私自身にさえね。いつかは私、あなたにだって飽きるかもしれない。飽きたらあなたを捨てるかもしれない。そうなったら私はまた間士に戻る。幻滅も軽蔑もしてくれていいけど、私は永遠の愛なんて誓わないし、誓うような女でもないわ。……これまでの人生でそうだったようにね」
キュリエナらしいと言えばらしい、それはドライでクールで、そして少し寂しい言葉だった。
キュリエナに、いつか私に飽きるかもしれないし、捨てるかもしれない、と言われたこと自体には衝撃も不満もない。ある意味、彼女に相応しい物言いだと思ったからだ。
しかし、それは少しだけ、もの悲しく、私の胸に響いた。
私が悲しいというよりは、キュリエナに対して。そんな彼女が、少しだけ痛々しくて。
もちろん、私が上から目線で彼女の生き方を憐れむとか、そういう話ではない。キュリエナのそういった生き方、愛し方を私は尊重しているし、ある種の敬意も払っている。
けれど、それでも。
自分の愛を、自分でさえ信じきれない彼女は、なんだか、冷えた小さな影を必死で引きずっているように、私には思えたのだった。
「まあ、それでも、いいじゃない」
と、私は、そんな内心を押し隠すように明るく気軽な口調で返した。
「今回の件であなたの顔が売れたとするじゃない? そうすると、世間的にはあなたの顔はその顔なんだ、って認識が広まるわけよ。だとすればかえって、変装なり整形なりをした時に、あなただってバレにくくなる。つまりあなたが闇の仕事に戻ったとしても、逆に仕事がやりやすくなるってわけよ」
むぐ、と珍しくキュリエナが言葉に詰まる。私の強引な理屈に、半分呆れたようにではあったけど。
「あなたも口から出まかせがずいぶんうまくなったわね、ラツキ。で、その真意は?」
「みんな揃った記念の絵が欲しいの。大事なみんなと、一緒の絵。いけない?」
ぷっ、とキュリエナは噴き出す。イヤミっぽい笑い方ではなく、心から楽しそうに。
「あはは。あなたのそういう少女趣味なとこ、好きよラツキ。そう、みんなの記念の絵、ね。なるほどね。あはは」
むー。悪かったわね、少女趣味で。だって、この世界には写真とかプリクラとか、ないんだもの。みんな揃った思い出を残したくて、肖像画くらいあってもいいよね、って思ったって悪くはないでしょ。
頬を膨らませた私に、キュリエナは、くすくすと相変わらず笑みを残しながらも、それでも結局は頷いたのだった。
ということで、私たちの肖像画は完成した。
オリジナルの一枚が大きくメガックさんのお店に飾られて宣伝となり、それを魔法で、いわば縮小コピーした色紙が売り出され、これも結構な人気を博したようだった。
私がこの世界に来た翌日くらいだったかな、山賊のねぐらを探索したことがあって、そこで春画を見つけたことがあったんだけど、こんな感じで作られていたのかもね。
酒場や食事処に行っても、そんな私たちの肖像画を手にしている人はそこそこ見るようになった。
顔なじみの店員さんなんかも、面白そうに教えてくれる。「この間も、ラツキさんたちの肖像画を手に、いつかは私もこんな風になるの、って目をキラキラさせてた若い子がいましたよ」とかね。
ちょっと気恥ずかしくて苦笑しちゃうけど、その言い方だと、その新人さんは女性なのかな。
なんにせよ、私はいつの間にか、かつてのユーゼルクたちに近い立場になりかけてるんだな、と自覚せざるを得ない。
とはいえ、もちろん、登攀者たちのの最大の憧れはまだユーゼルクたちだけどね。私たちの隊も、相当ペースを上げて登っているとはいえ、まだユーゼルクたちの到達した階層には追い付けていないのだし。
と、まあ、そんなこんなで、穏やかで楽しい、私たちの日常はゆっくりと過ぎていく、ように、思えた。
――けれど。
肖像画が出来てからしばらく経った頃。
いつものように塔に向かった私たち一行が、天移門に登って塔内に転移しようとした時のことだった。
一つの天移門を通り、塔から出てくる一隊の登攀者たちがいた。それ自体はいつもの光景。だが、彼らの形相は血相が変わり、焦燥と恐懼に彩られていた。
塔の中で守護獣と戦い、危なく逃げ帰ってきたのだろうか。しかし、もうすでに、安全な塔の外へと脱出したにもかかわらず、いまだに恐慌に襲われ続けているように見える彼らの姿は、私たちの注目を引かずにはいなかった。
「ちょ、ちょっと、あなたたち、大丈夫?」
思わず声を掛けた私をハッとした面持ちで彼らは見直し、そして別の驚きを湛える。
「あ、あんた、聖花の摘み手のラツキさんかい!? ちょうどよかった、付いてきてくれねえか。俺たちだけじゃ手に負えねえ。もしかしたら、すぐそばにいるんじゃねえかと思うと……」
「落ち着いて話して。何がどうなったっていうの?」
怯え、動転する彼らをなだめながら私は事情を糺す。だが、その答えは、私たち自身をも驚愕させるに十分なものだった。
「と、登攀者の死体が! 死体が見つかったんだよ!」
――登攀者の死体。
本来ならば、それは例外的な場合を除き、見つかるはずのないもの。
守護獣に殺された登攀者は、光になってその遺体は消えてしまうからだ。
もちろん、守護獣によって命を奪われるのではなく、事故などで命を落とすケースも存在する。だが、私に急を告げた登攀者たちの慌てぶりからすると、単純な事故でもあるまい。
仲間たちと互いに顔を見合わせ、私たちは暗黙のうちに一つの結論を共有する。
――「登攀者殺し」。
『秘法』と並ぶもう一つの都市伝説。そして、男爵の協力者の問題と並んで、私の周囲にわだかまるもう一つの未解決問題。
かつて聖歌の摘み手の競争の時に、私はその「登攀者殺し」の手によるのではないかと思われる殺人を目の当たりにした。それが、今再び動き出したというのか。
今慌てて逃げだしてきた登攀者たちの様子も理解できる。彼ら自身言っていたように、いつどこに『そいつ』が潜んでいるかわからないのだから。
「とにかく、その遺体を見に行ってみましょう。もしかしたら、ただの事故とか急病なのかもしれないし。ラフィーネさん、いいですか?」
「はい、聖務官として、その御遺体の様子を確認させていただきます」
事故や急病なんて言葉、私自身さえ信じてはいないけれど、一応の可能性を排除しないという意味で私は言葉にする。
ラフィーネさんはしっかりと頷いてくれた。こういうときに聖務官が同じ隊にいてくれると助かるな。
私たちは緊張に満ちた表情を浮かべ、登攀者たちを道案内に、天移門へと向かった。
案内されたその場所は、3階層。
低階層であり、難度は低い。環境としては、川の多い地形。と言っても大河や急流、激流ではなく、穏やかな流れのせせらぎと言った感じの川だ。新人の登攀者たちは、ここで水辺での戦いに慣れていく、そんな階層。
……その小さな、のどかなとさえ言えそうなせせらぎの中に、その遺体はあった。
柔らかで優しい風が頬を撫でていき、暖かい陽光がやんわりと私たちを包み抱きしめる。
守護獣が現れそうな様子はなく、場合によってはお弁当をもってピクニックにさえ適しているかもしれない。
そんな、周囲の牧歌的とさえいえる景色と、それはあまりにも不調和だった。
――岸辺から川の中に上半身を浸したまま、もう動かない、その遺体は。
私は無言のまま、まずその様子を調べる。アンジェには風と光の複合魔法で、その状況を記録してもらった。後で聖殿に提出する必要もあるだろう。
その遺体が上半身を浸していたのは、文字通りの岸辺近く。下半身はまだ土の上に残っているほどの距離だ。岸から川に顔を付けて水を飲もうとした、というようにさえ見える。
川の深さはごく浅く、水中に立ったとしてもせいぜい膝下、ふくらはぎ程度の水量しかない。
……そんな浅い、穏やかな流れの川の中で、被害者は死んでいたのだ。
外傷も特に見当たらない。まるで、溺れ死んだかのように――この浅い水量の中で。
事故も急病も、あり得るだろうか。誰かに強引に顔を水に漬けられて殺された、としか考えられないのではないだろうか。
だが、被害者の腰の剣には手もかかっていない。岸辺の土にも、暴れた様子もない。無抵抗のまま殺された?
……それとも自殺? いや、まさかね。『塔』に対して敬虔な信仰を持つこの世界の住人が、その尊い塔を汚すような自殺をするとは思えない。それも、浅い川に顔をつけて自殺するなんていう、著しく不自然な方法を取ってまで。
この事件が『登攀者殺し』の仕業だとするなら、そのもっとも不気味な点はまさにそこだ。単に殺人者だというだけではなく、何もかもがわからないこと――手口も動機も被害者の選択基準も全く分からないことが。
「ねえご主人さま、この人、いつまでもこのままだと可哀想だよ……」
メイアが悲しそうにつぶやく。一応、現状の確認はしたし、確かにいつまでも遺体をこのままにしておくのも気の毒だ。私はテュロンの力を借りて、「彼女」を岸辺に引っ張り上げた。
「彼女」。そう、その犠牲者は、体形や髪型、服装からして、女性のようだった。しかも若い女性。まあ、3階層にいる新人の登攀者なんだから若いんだろうけど。
「彼女」は、おそらく可愛らしい、整った顔つきをしていたのだろう、と、思う。
だが今の「彼女」の形相は、苦悶に引きつり、喘ぎ、悶えながら残酷に死んでいった――そんな死にざまを彷彿とさせるような、歪んで軋んだ表情に彩られていた。
私は思わず眉を顰め、それでも、「彼女」の白く剥かれていた眼だけは閉ざし、胸の前で手を組み合わせてあげた。それだけでも、少しは「彼女」の顔は穏やかになったように思う。いや、思いたかった。
「……むごいものですわね。しかし、この殺され方は……確かに、あの、世界の摘み手の競争の時に遭遇した御遺体のそれに、似たところがあるように思いますわ。だとするならば……」
細い指を顎に当てて、テュロンが考え込むように言う。
確かに、特に険阻な地形でもないところで、あまり抵抗した様子もなく、不自然に苦悶の表情を浮かべて事切れている、というのは、あの時に近い状況かもしれない。あの時の殺しが「登攀者殺し」によるものだと仮定するなら、やはり今回もそうなのだろうか。
「そうね。キュリエナはどう思う……?」
あの事件の時、遺体を詳しく調べたのはキュリエナだった。そのことを思い出し、私はキュリエナを振り返って尋ねようとした。けれど。
――キュリエナは、岸辺に仁王立ちになったまま、動かなかった。
「彼女」の遺体を打ち眺める乾き切ったキュリエナの眼差しは、凍り付いた久遠の中に孤影を遥かに引いて佇むようなその内面を映し出していた。
氷の彫像のように、瞬きもせず、眉毛一本さえ微動だにさせない無表情のまま、キュリエナは微かに何事かを口中で呟く。他の人には到底聞き取れないであろうその声を、しかし、スキルで強化された私の聴覚は拾っていた。
「……馬鹿な子。どうして登攀者になんかなったのよ。どんな無謀な夢を見ていたの。馬鹿な子。馬鹿な子……」
私は唖然として、風に触れられたキュリエナの銀髪が頼りなげに揺らめくさまを見つめていた。
「彼女」の遺体は聖殿へと引き渡された。私たちと、そして「彼女」を発見した登攀者たちには当分の間、その事実をあまり口外しないようにとの注意があった。『登攀者殺し』であるならば、登攀者たちのみならず、聖都全体に対してもその衝撃は大きく、動揺が免れないからだろう。
だが、私の関心は他のところにあった。
「彼女」に対して見せた、キュリエナの反応だ。
……知り合い、だったのだろうか。
だが、その事実を迂闊に尋ねていいものとも思えず、私は躊躇していた。
「ラツキ。分かりやす過ぎ」
しかし、そんな私の振る舞いがあまりにもぎこちなかったのか、キュリエナの方が苦笑しながら私に口を開いてきたのだった。
どぎまぎしながら、私は目を逸らす。場所は私の部屋で、二人きりだ。
「な、なにが?」
「いいわよ、気づいてないふりなんか。それにしても、目ざといわね。良く私が知ってるってわかったものね、……あの子のことを」
最後の一言だけ、少し喉に物が詰まったような調子で、キュリエナは言った。
「お知り合い、だったの?」
私の問いに、キュリエナは口の端を僅かに上げ、かろうじて笑みとわかるような表情を形作る。長い銀色の睫毛が少し影を落として、彼女の瞳の動きを隠した。
小さな吐息をそっと漏らしてから、キュリエナは少し疲れたように、言葉を零す。
「私が昔……そう、昔、飼っていた、子よ。ふふふ。ええ、飼っていた子」
そう、か。
キュリエナの、昔の――恋人、だったのか。
銀の髪をまるで滝のように流れ落としながら、キュリエナは私のベッドに腰を下ろした。隣に座っている私に伝わってくる彼女の体温は、どこか冷えて感じた。
「で、飽きて、捨てたの。ふふふ。言ったでしょう? 私、飽きたら捨てるって。そういう女だって。それがまさか、こんな再会をするとはね」
投げやりな口調のキュリエナを、私は痛々しい思いで見る。
「彼女は、別に間士でも、登攀者でも、登攀者希望でもなかったの?」
「もちろんよ。ただの……普通の、女の子だったわ。危ない世界になんか、何の縁もゆかりもない子だった」
「そう。じゃあ、それで別れたのね」
「え?」
怪訝な目をするキュリエナを私はまっすぐに見返す。
「あなたはそういう仕事をしているから、その子のことを危険な世界に巻き込みたくないと思って……」
言いかけた途端、けたたましい勢いでキュリエナが笑いだした。顔を上げ、唇を大きく開けた狂ったような哄笑。
「あはははははは! ラツキ、あなた冗談にもほどがあるわよ! あははははは!!」
部屋に響き渡るような荒れた笑い声を轟かせた彼女は、唐突にピタッとその声を止めて、私を睨みつけた。血走った眼で。
「あのねラツキ、あなたの中で私をどんなに美化してるか知らないけど、その虚像を私に押し付けないでよね。私はこれまで数え切れないほど人を殺し、人を裏切り、人を陥れて生きてきた女よ。その私が、つまらない娘一人にこだわって、その身を案じたですって?」
「わかってるわ。あなたがそういう世界に生きて来たってことくらいは」
激昂するキュリエナに対し、私は静かに応える。
「でもキュリエナ。あなたが恋を知らないとは思わない。そして、恋を知っているなら、その人を大事に思うのも自然だわ。美化なのかもしれないけど、私はそう思う」
睨み合うように、私とキュリエナは視線を斬り結ばせた。
さすがにこうした時のキュリエナは、恐るべき闇の住人としての姿を見せ、私の背筋には微かに汗が伝う。
だが、それでも私は、なおも言い募った。
「あなたは自分を美化するなっていうけど。じゃあ私も言うわ、キュリエナ。自分を過度に悪人に見せようとするのは、自分を美化するのと同じくらい寂しいことじゃないかしらね」
「……私がそうだっていうの?」
「そうは言わない。でも、そうならないでほしい、って思ってる」
しばし、私たちは無言のまま見つめ合った。恋人としてではなく、まるで仇敵のように。
私は視線を切らないまま、そっと、口を開いた。ラフィーネさんが聖殿から聞き込んでくれた、「そのこと」を。
「……あのね、キュリエナ。犠牲になった彼女は、持っていたんですって。荷物の中に。――私たちの肖像画を」
「……え……!?」
一瞬言葉を失ったキュリエナに、私は続ける。
「私たちの肖像画を見ながら、『いつかは私もこんなふうになるんだ』って言っていた新人の女の子がいた、って話を聞いたでしょ。それが、彼女だったみたい。だから、多分、その相手は。彼女が憧れていた相手は。それは、私じゃなく。……多分」
「……何を……何を言っているのよ……」
キュリエナの震える声が、僅かに開けられた唇の間から弱々しく漏れた。その繊手が、自分の胸を押さえる。
「あの子は、私に憧れて、登攀者になったというの? 私の肖像画を見て、私に追いつくために、私を追いかけるために……?」
そして。
そして、「彼女」は、死んだ。
それは、キュリエナのせいではない。誰のせいでも。
けれど、とても悲しく皮肉なめぐりあわせなのは、事実だった。
「彼女」は、まだキュリエナを愛していたのだろうか。だから、キュリエナに捨てられても、まだ彼女を追っていたのだろうか。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
もう終わった恋だと、気持ちの整理はついていたとしても、「彼女」はキュリエナの生き方にはまだ憧れていたのかもしれない。だから、キュリエナの足跡を追いかけて、新たな生き方を登攀者に見出したのかもしれない。
そのどちらが真実だったのかは、もう誰にも分らないことだけれど。
キュリエナに、涙はなかった。彼女の中に、流す涙はない。泣くすべを、彼女は持たない。それは悲しいことだけれど。それはとても苦しいことだけれど。
しかし、流せない涙の代わりに、キュリエナの銀の睫毛は、震えていた。ごく微かにだけれど、確かに。
飽きて捨てただけなのか、それとも「彼女」の身を案じたのか。真実はキュリエナの中にしかないし、あるいはキュリエナ自身ですらわかっていないかもしれない。
だが、それでも。もう過去の、終わった恋だとしても。
かつて愛した少女の死という事実は、キュリエナの中で、一つの冷徹な残響となって彼女の内面を揺さぶったのだと、思う。
「……ラツキ」
キュリエナは、体の深奥から絞り出すように、言う。言って、彼女はうつむいた。髪がさらりと流れて、その表情を隠す。
私は問うような無言で続きを促す。彼女は、ぽつりと、呟いた。
「ラツキ。……あなたを、抱きたい。いつもあなたに抱いてもらってるけど、今夜は、私が、あなたを、抱きたい」
おそるおそる、と言った様子で、キュリエナは顔を上げた。翳りを刷いた表情に、私は微笑む。
「ええ、いいわよ」
あっさりとした私の答えに、逆にキュリエナが戸惑った顔を見せる。
「え……いいの、ラツキ? 私、あなたを、あなたの身体を、自分の気持ちのはけ口にしたいって言ってるのよ? わかってる?」
「ふふ。いつもそうしたいなんて言い出したらひっぱたくけど。でも」
私は手を伸ばして、キュリエナの細い顎の下をなぞった。
「でも、今夜は、今夜だけは。あなたのはけ口にしてくれていい。それでいいわ」
キュリエナはそれ以上何も言わず、私を抱きしめた。
そのまま、ベッドの上に私たちは倒れ込む。
きっと、どこか切ない夜が私たちを通り過ぎていくのだろう。
私たちのどちらかが立てたはずのすすり泣くような声が、まるで果てない遠い場所から聞こえてくるような。
……そんな気が、した。




