宮本武蔵と柳生兵庫
本日は本編と間話の二話連続投稿になります。
こちらは本編です。
なまじ識字スキルを取っていたのがいけなかった。
聖殿をあっちこっちうろついて聖務官さんの一人に不審な目で見られ、詰問を受けた末に、事情を話して苦笑されてしまった。
……だって「登攀者登録」って書いてないんだもん!
聖務局で登攀者登録、とメガックさんは言っていたので、聖務局に行ったのだが、そこには「聖務者登録」と書かれたコーナーはあっても登攀者登録と書かれた場所はなかったのだ。
「『登攀者』というのは、俗語ですね」
私を見咎めた女性の聖務官さんは、困ったような笑みを浮かべて説明してくれた。
もちろんマスクをかぶっているので顔はわからないが、燃えるように鮮やかな真紅の髪が艶やかに美しい。声や話し方、また挙動も爽やかで、きびきびとしており、いい意味での体育会系という感じだ。顔の上半分はマスクをしているけれど、張りのある肌、シュッとした顎のラインや口元、あるいは声で判断する限りでは結構若い感じ。私の外見年齢である17歳よりも2歳か3歳上、くらいかな?
「聖殿での正式な名称は『聖務者』といいます。私達『聖務官』と紛らわしいこともあり、一般にはわかりやすい『登攀者』の名が知られているようですね」
赤毛の聖務官さんは説明してくれた。情報検索すれば一発だったのかもしれないが、思いこみというのは恐ろしいものだ。『登攀者』というものだと信じ込んで疑いもしなかったために、調べるという発想にさえたどり着かなかった。どんないい道具も使い手次第だよね。悪かったなくそぅ。
「年に数人は同じ間違いをなさる方がいらっしゃいます。お気になさらなくても大丈夫ですよ」
……それは慰めになっているのだろうか。がっくりと肩を落とす私を、赤毛の聖務官さんは聖務局の、登攀者……いや、聖務者登録コーナーまで連れて行ってくれた。
多くの人が並んでいる。彼らも登攀者志望なのだろう。意外に思ったのは、比較的年嵩の人も結構目立つということだった。これから登攀者になるわけだから、若い人が多いのかと思っていたのだが。
「あらかじめ一定の修業をなさってから塔に登られる方も多いですね。その方が、結果的には滞りなく早めに上層階にたどり着ける場合もあります。もちろん、人それぞれですけれどね」
赤毛の聖務官さんは私の疑問にはきはきと答えてくれた。そう言われればそうか。実戦しつつレベル上げ、という手法が常に妥当とも限るまい。
「では、こちらにお並びください。本日は聖務者希望の方が多いようですから、私もこれから受け付けに回りますね」
赤毛さんはそう言い残すと、カウンターの向こうに入っていった。まあ並ぶのは苦にならない。元日本人だからね。
カウンターには5人ほどの受付聖務官さんが座っていて、ずらっと並んでいる登攀者志望の人々を手際よくさばいていく。どうせなら赤毛さんに当たるといいな、と思いつつ待つこと20分余り。
あー。前に並ぶのがあと数人となったところで数えてみると、私は赤毛さんの担当には回らないな。ちぇー。
私は唇を尖らせ、ふうと一息つくと、右手を後ろに回した。そのまま背後の男の手首を無造作に掴んで捻り上げる。
「い、痛ええっ! な、なにを、おい、やめろ!」
「私のお尻に何か御用かしら」
私は背後にいた男を冷たい目で見下ろした。捻り上げられた腕が極まり、変な恰好で片膝をつき、ピクリとも動けずにいる相手を。
スカした感じの若い男。身につけている装備は悪くないようだが、肝心の腕がこれではね。ちなみに機能したのは、先ほど盗賊から複写したばかりのスキル『気配察知・中級』だったが、別にスキルなんか使わなくても、女なら「こういう気配」はすぐわかると思う。
「な、何言ってんだかわかんねえよ! 俺は何も……」
「そう、あなたは知らないのね。あなたの腕が勝手にやろうとしたことなのよね。それなら、そんな腕はもういらないんじゃないかしら」
ちょっとだけ角度を変える。ほんのちょっとだけ。別に力は必要ないのよね。
「痛ぇぇぇーっ!! ま、待て! 待ってくれ! 悪かった! つい、つい手が伸びちまって!」
私はやれやれともう一度息を付くと、手を放してやった。男はうずくまって手を押さえ、唸っている。大げさな。数分で痛みも消えるよ。
まあアレだ。ひらひらのミニプリーツに生足という誘うような格好をしている以上、ある程度私の自己責任ではある。だからじろじろ見られる程度は構わない。実際、ここまで街を歩いている途中、あるいは聖殿に入ってからもずっと、周り中から上から下まで見られまくっていたしね。見られることも女の本懐だくらいには思うけどさ。だからってお触りまでは許されていませんのよ。
それに、だいたい私のパンツを見た奴はほぼ死んでるんだぞ。 死の舞踏ならぬ 死のパンツとでも言おうか。それを回避してあげたんだからお礼を言われてもいいくらいなものだ。そういやメガックさんには見られてるのかな。アンジェリカには見られても……うん、いいけど。
とか何とかドタバタしていたら、いつの間にか列の順番が変わっていた。私の目の前では赤毛さんが口元に手を当ててクスクス笑っている。
「えっと……なんか、お騒がせしました」
こうなると逆に赤毛さんの担当に回ったのがちょっと恥ずかしい。きまり悪くなって謝ると、赤毛さんは小声でささやくように言った。
「いえ、私も女性として、ああいった殿方はちょっと、と思いますから」
にっこり笑うと、赤毛さんは改めて私を見つめる。
「では。聖務者の任に就くことをご希望なさっているのですね?」
作ったような綺麗な声でそう言ってから、今度はまた小声。
「つまり、『登攀者』ですね、ふふ」
なんか面白い人だ。可愛いというか。
「はい。『聖務者』になりたいと思います」
私は澄ました顔で答え、赤毛さんと顔を見合わせると、二人でぷっと噴き出した。
「もー、駄目ですよ、大切な事なんですから、真面目にしないと」
赤毛さんに「めっ」とされる。うん、可愛い。いや私は真面目にしてると思うんですが。
「ええと。では、聖務者が履行すべき義務と遵守すべき法についてお話しいたします……」
赤毛さんはさすがにプロらしく、大切な部分についてはきっちりとわかりやすい説明をしてくれた。
細かい点を除いてざっくり言えば、聖務者つまり登攀者はどの国家にも属せず聖殿にのみ属する。従ってどの国家に対しても納税や労役の義務を負わず、また国家法によって裁かれないが、反面、どの国家の法によっても庇護されない。聖殿法のみ遵守する義務を負い、またそれによって庇護されるが、ぶっちゃけ聖殿法は結構ザルなのであんまり頼らないようにね。基本的に自分の身は自分で守ってください。確かな証拠があれば裁いてあげるけどさ。あと聖殿には年に一度税金払え。他の国家よりは安いけど滞納したら許さないよ。
……と、そんなとこらしい。
その他、資金を融通してくれる制度とかも説明してくれたが、これは私には関係ない。一応資金は潤沢だ。
「――以上の事項を理解した上で、聖務者になることを望みますか。これが最終確認です」
「はい、望みます」
「わかりました。聖殿はあなたの意思を受け入れます。神々の試しに挑む者に栄光のあらんことを。ほむべきかな、いと高き塔」
赤毛さんは例の、両手を胸の前で交差するポーズを取って、私の成功を祈ってくれた。
「では、こちらに右手を出して下さい。あなたの魂魄波動紋様を記し、もって聖務者たる身分の証明といたします」
赤毛さんの座するカウンターの端には、青く発光する石板、あるいはクリスタルのようなものが用意されている。これに、私の魂の紋様を記録するということなのだろうか。
って、あれ?
いいのか、私。
魂の形なんてものが記録されたら、私が異世界者だということがバレたりしないのだろうか。この世界の人と私の魂の紋様に、何かすごい違いがあったりしないだろうか。バレたら私、死ぬんだけど。
うわ。それはちょっと考えていなかった。
なんか、ヤバい? あれ? どうする?
「どうかなさいましたか?」
赤毛さんが不思議そうに首を傾げる。待て、落ち着け。これは電飾野郎の罠だ。
冷静になって考えるんだ。転移するときの基本ポイントとして一億を支払っている。それは転移先の世界に適合させるためだったはずだ。それは肉体に限定してのことなのか。転移先の世界で生きるために魂の形状を作り直すことが必要ならば、それもまた処理されていると考えるのが妥当ではないか。
……魂に形状だのなんだのあるのかは分かんないけどね。そもそも、元の世界とこっちの世界で魂に変わりはないかもしれないじゃん。というかそっちのほうがあり得そうだ。
うん。転移基本ポイントの中に魂の変化が含まれていると考えるにしても、どっちの世界でも魂は同質で差異はないと考えるにしても、あまり過剰に警戒する必要はない、かもしれない。
いいや、やってみよう。
「えっと、ここに手を置けばいいんですね」
「はい、どうぞ」
赤毛さんが私の手を取って光る石板の上に導いてくれた。柔らかくしなやかで、温かい手。ちょっとドキッとする。
と思う間もなく、それまではぼうっと朧に光っているだけだった石板から強い輝きが発せられ、私の手を包んだ。いや、手だけではない。手から腕、胸、体中に光が沁みとおり、私の内部を走り抜けていくのがわかる。それは不快な快感ともいうべき異様な感覚だった。
一瞬の後、何事もなかったかのように輝きは止み、元の薄い光に戻っていた。同時に、石板の下から何かがポンと弾き出される。あ、魂魄板だ。メガックさんから借りたものとは異なり、何か紋章のようなものも浮かんでいる。
「終了しました。これは聖殿の紋章。あなたが正式な登攀者だという証明です」
赤毛さんがにこやかに言う。特に異常はなかったようだ。杞憂だったか。ほっとする。
「こちらの魂魄波紋投影板にあなたの魂魄波紋が記録されています。聖殿の側にも記録が残っていますので、これが身元の保証になります。それ以外にも、一時的に他の方の魂魄波紋を記録することもできます」
赤毛さんはそこまで真面目に説明すると、今度は砕けた調子で続けた。
「……先ほど申し上げたように、聖務者の方々にはあまり聖殿の保護が及ばないので、こうした魔道具を使って、注意深く自分や相手の身元を確認することが必要になってくるんですよね。大変だとは思うんですけど。でもうまく使えば便利なものですよ。なんと言っても、タダでもらえますしね、ふふ」
うん。タダは素晴らしい。それはこの世界においても共通の感覚であるようだ。
まあ何にせよ、これで私は晴れて登攀者の資格を得ることができたわけか。同時に身元も保証された。根無し草だった異世界人の私にとって、早めに職業と身元の保証ができたのは非常に大きいだろう。
「いろいろありがとうございました……」
席を立ちかけて、私はふと、あることに気づき、赤毛さんに質問してみた。
「あの、私先ほど治安局に懸賞金をもらいに行きまして。その際に尋ね忘れたことがあるんですが、聞いてもいいですか?」
「何でしょう。私にわかる範囲なら」
そう言ってくれた赤毛さんの好意に甘えて、気になっていたことを尋ねてみる。赤毛さんは私の質問を肯定してくれた。よし。これで行動できる。
「あらためて、お世話になりました」
「いえいえ。これも神々のお導きですよ」
赤毛さんはそう言ってから、不意にカウンター越しに私に上半身を寄せてきた。ふわりと美しい真紅の髪が揺れる。ちょっと驚いた私に、少しだけ小さな声で、彼女は言った。
「私、ラフィーネといいます。よければお名前、うかがっても?」
赤毛さん――、いやラフィーネさんの口元には快活な笑みが浮かんでいる。とても人懐こい、見るものを心楽しくさせてくれるような笑みが。
私の唇も自然に微笑みを形作る。
「ラツキです。どうぞよろしく、ラフィーネさん」
ラフィーネさんの元を辞してから、私は金融局へ向かった。
金融局は文字通り聖都の、いや世界の金融を左右する場所らしいが、その辺は私にはあまり興味はない。私がこの場所へ赴いたのは、持ち金を預けるためだ。
私はクソ電飾のところで大量の金貨を得て、この重さと量では持ち歩くの大変だな、と思ったが、この世界の人々は聖殿にお金を預けているらしい。聖殿に絶対的な尊崇が向けられているこの世界では、この場所こそが安心確実な保管場所になるというわけだ。
もっとも、聖殿は文字通り資産をただ預かるだけで、それを運用して利息を付けたりはしないようだ。なので、大商人にハイリスクを承知で財産を預け、ハイリターンを望む人もいるらしい。メガックさんが私に期待しているのも、そのあたりなのかもしれない。
金融局にお金を預けたあとは、忘れずに資産証明をもらう。これがないと3日後のオークションに参加できないからね。ちなみに資産証明も魂魄板への記録だった。便利だなこの異世界スマホ。
しかし、私が預けた財産は、メガックさんから謝礼としてもらった金貨100枚と、盗賊どもから奪った14枚の計114枚に過ぎない。ポイントを変換して作った金貨100枚は背嚢に収めたままだ。どこからそんな大金を得たのかといわれると説明のしようがないし。また盗賊から奪ったお金のうち、銀貨31枚は生活費として持って行くことにする。金貨に換算すればこれで3枚分。金貨一枚で庶民一カ月分の生活費に相当するわけだから、十分大金だ。
――さて、これで聖殿での用事は済んだな。
あとはさっきラフィーネさんに確認したことをすればいい。
そう考えながら聖殿入口の大エントランスホールまで戻ってきた時。周囲に突如、ざわめきが起こった。
驚いて見回してみると、ホールにいる大勢の登攀者たちが一斉に同じ方向を注視している。いやそれだけではなく、吹き抜けになっている二階や三階の廊下からも、多数の人々がホールを見降ろしていた。
その視線は、ホールの正面最奥、巨大な出入り口の方に向けられ、釘づけだった。武骨な荒くれ者たちの目には、しかし一人残らず少年の日に帰ったような、情熱的、いや熱狂的とも言うべき強い光が宿っている。彼らの表情は輝き、握りしめられたその拳は、強い感情を抑えられないように震えていた。
ホール奥の扉が大きく開いた途端、ざわめきは歓声に変わった。
「き、来た! あ、あれが 殲煌雷刃のユーゼルクか!」
「ユーゼルク! ほ、本物のユーゼルクだ!」
「ユーゼルク! お、俺、あんたに憧れて登攀者になったんだよ!」
「お、俺もだ! 少しでもあんたに近づきたいって!!」
唖然としている私の周りで、上ずった声があちこちから上がる。そのように興奮しきった登攀者たちの他にも、
「やれやれ、またさらに一階層上に到達したって言うぜ。今更驚きもしねえがな」
「かなわねえなあ、あいつらほんとにどういう連中なんだ」
「仕方ねえさ。元から持ってるものが違うんだ。凡俗の俺たちなんぞが追いつけるような代物じゃねえのさ」
肩をすくめ、呆れと称賛、諦めと憧れ、嫉妬と羨望の入り混じった複雑な目を向けているものも少なからずいた。
そんな種々雑多な感情を向けられている対象。それが、扉の奥から軽やかな足取りで歩み出てくる。
一瞬光り輝いているように見えたのは、その黄金の髪と瞳のせいだろうか。それとも、背負った長剣の煌めきゆえだろうか。いやそれだけではない。全身からあふれ出る自信と活力、そして無邪気で無垢とも言える微笑みからうかがわれる内面の人の好さ。それが「彼」の存在自体に輝きを与えているのだ。
彼のすぐ横に並ぶ二人の女性、そしてその後から進む獣人、老人、巨人もそれぞれに圧倒的な存在感を示しているが、やはり衆人の意識を引いてやまないのは先頭の男。贈られる声援ににこやかに手を振って応じている、その男だった。
私もまた、その男から目を離せない。だが、高揚しきっている周囲とは全く異なる温度で、私は彼を見据えていた。頭の中が凍りつくような温度で。
あれは。
まずい。
まずい、ものだ。
こんな話を聞いたことがある。江戸時代初期の話だ。
稀代の剣豪である宮本武蔵と、おなじく柳生新陰流の達人である柳生兵庫が、ある時、尾張城下の道端で、偶然行き会ったという。
二人はそれまでに面識もない。写真も何もない時代であり、相互の顔や姿を知る由もなかった。
それでも二人は、出会った途端、ごく当たり前のように、こう言ったという。
「新免武蔵殿ですな」
「柳生兵庫助殿ですな」
そうして二人はお互いに呵々大笑し、別れたと。
その話が事実かどうかは知らない。余りにも講談か何かっぽい話すぎるし、創作かもしれない。だが、事実かもしれない。私はそう思った。なぜなら、私自身がその時、わかったからだ。
――この男は私に匹敵する、と。
それは私というよりも、私の中のスキルが全力で警告してきた感覚だった。ESスキル、この世界では選ばれた者しか習得しえないはずの、そのスキルが。天才中の天才という資質、そしてそれに加えて努力と環境のすべてに恵まれていなければ、決して到達できないはずの、そのスキルが。己と同等の存在を認めて、悲鳴のように叫ぶ、その警告だった。
楽しそうに歩んできたその男が、私の目の前でふとその足をとめた時、私の緊張は最高点に達した。
いや、無論わかっている。別にこの男と私の間には何の関わりもないし、登攀者同士は別に対立関係にあるわけでもない。むしろ仲間だろう。さらにいえば衆人環視の中、そして何より尊い聖殿の中で、いきなり「何か」が始まるわけもない。
だがそれでも、相手も分かっているはずなのだ。私も分かったように――武蔵と柳生兵庫のように。相互の力量を、技量を。理屈の上ではありえても、現実としては信じ難い、自分と同レベルの強さという存在を。
だからこそ、彼も私の前で、止まったのだ。
「……なにか、ご用?」
私は絞り出すように声を放つ。掌にはすでに汗。絶対に何もないと頭ではわかっているはずなのに、それでも陽炎と不知火を瞬時に抜き放てる姿勢を、私の身体はいつの間にか取っていた。
「いや、すまない。美しい人だと思ってね」
彼は明るく声を掛けてくる。豊かな響きの、人を魅了する力に満ちた声だ。そのまなざしは深く、柔和でありながらも惰弱に流れない整った顔立ちは微笑みに彩られている。
「ありがとう。自分の外見は知っているわ」
「ははは、それが嫌味に聞こえないからすごいね。しかし、君ほど美しい人がいたなら目立つだろうに、僕は君を初めて見たな。最近登攀者になった人かい?」
会話をしながら、同時に私の脳内でめまぐるしくシミュレーションが展開される。もし彼と戦うことになったら?
一撃――一撃入れることはできる。しかしそれは完璧な致命の打込みにはならない。彼は傷を負いながらも反撃してくるだろう。そして私もまたそれを回避しきれない。相互に手負いとなって、ではその後は? 傷自体は彼の方が重く、私は軽傷で済むだろう、しかしそれでも私が必ず勝つといいきれない何か不可思議な重圧が、私を鷲掴みにしている。
「そうね、最近よ。具体的にはたった今」
「そうか。それは素晴らしい。旅立ちの記念すべき日に出会えたんだね。僕からも君の行く先を祝福させて欲しいな」
「ありがとう。あなたの進む道にも幸運があるといいわね」
私の言葉に、彼は目を丸くし、そして愉快そうに笑った。
「ははは! 他の人から幸運を祈ってもらったのはとても久しぶりだよ。嬉しいものだね。――さて、いきなり声をかけてすまなかった。僕の名はユーゼルク。良ければ、名前を教えてもらえるかい?」
「……ラツキ」
「ラツキか。いつかまた会えるといいね」
短く答えた私に、彼はもう一度笑いかけると、踵を返し、去って行った。
くそ。
私は誰に対してでもない呪詛を心中で吐き散らす。
彼は、笑った。
お互いの力量を理解していたはずなのに、そしてそのことに対して私は神経をすり減らしていたのに、彼はそれでも笑ったのだ。笑う心のゆとりがあったのだ。実際の戦闘能力で言えば、おそらく紙一重の差で私の方が上だ。しかし。しかし私は笑えなかった。
その事実に、私は唇を噛み、しばし立ちつくしていた。