間話(3) おとなとこども
「よろしいですか、メイア。決して、あのような大人になってはならないのですわ。……ご主人さまのようには」
指を一本ピンと立て、縦ロールを靡かせながら、もっともらしい態度で、テュロンはメイアに向かって諭していた。
メイアはその言を聞き、不思議そうに、そしてやや悲しそうに細い首を傾げる。
「どうして? 僕、ご主人さまのことは大好きだよ。テュロン姉さまはそうじゃないの?」
テュロンはくすりと愛おしそうな微笑を浮かべ、メイアの白い頬を撫でる。
「もちろん、私だってご主人さまのことは誰よりお慕い申し上げておりますわ。私の夢を初めて認めてくださった方。私の夢を共に歩んでくださる方。この身も心もすべて捧げているお方ですもの。……ですが」
くるりと細い身を回し、テュロンは醒めた目を背後に向けた。
「ですが、それとこれとは話が異なります。ご主人さまのああいったお姿は、見習ってはなりませんわ」
「あー……うん……」
メイアも、気まずそうに眼を逸らしながら、今度は素直に頷いた。
――そこには、ぐでんぐでんに酔いつぶれたラツキの姿があったからだった。
塔の15階層までを踏破した祝いとして、昨夜、ホームパーティーが行われた。ラツキとキュリエナ、そしてラフィーネの大人組三人は、そこで盛大に飲み、盛大に酔い、そして盛大に潰れたのである。
ラフィーネは酒を嗜まない、と、以前ラツキは聞いていた。だが、それは、彼女が酒に弱いであるとか、嫌いであるというような意味ではなかった。
単に、聖殿で酒をかっくらうのは同僚や上司の目に憚りがあるから絶っていた、というだけのことであり、したがって、他者の目の届かない屋敷で暮らすようになった今では、ラフィーネも誰に遠慮することもなく、大っぴらに酒を浴びるようになったのだった。
もちろん、ラツキとラフィーネは解毒の指輪がある。しかし、ラツキは言葉巧みにラフィーネから指輪を外させ、しかる後に、揃って痛飲し、夜を明かしたのだった。
昨夜――
「よおし、らちゅきさん、もう一杯行きましょー! わらしはまだまだ……うぷっ……」
青い顔をしたラフィーネが口を押え、よたよたと部屋を出ていく。その背中を見送りながら、キュリエナが座った眼で、けたけたと笑う。
「あはは! ひっく、どうやらこの勝負、勝つのは私とラツキのどっちかってことのようね! ……ひっく、ちょっとラツキ、聞いてるの? あなた頭が三つもあるんだから、一つくらいこっち向けてなさいよねー、あはは!」
「なあに言ってるのよ、キュリエナ。いつの間にかお屋敷がぐるぐる回る仕掛けなんて作っちゃって、ズルいわよ! そんな相手には負けない……ひくっ、からね!」
……当然ながら、ラツキの頭は一つだけだし、屋敷も回転などはしていないのだが。
そんなダメっぷりを目の当たりにし、諦めたように首を振って、アンジェもテュロンも自室に引っ込んだ。
そして、夜が明けて、朝。
「……アンジェ……指輪……指輪、とってきて……」
カバが悪夢を見てうなされてでもいるようなしわがれた唸り声を出しながら、ラツキは弱々しく懇願していた。
「指輪ですか? いえ、そんなことより早く治療をしませんと」
解毒の指輪を嵌めさえすれば、当然ラツキの二日酔いは治る。しかしこれもまた当然、アンジェはそのことを知らないので、心配そうに治癒魔法を使おうとしていた。
ラツキだけではなく、ラフィーネもキュリエナもそれぞれ思い切り轟沈している。
「ご主人さまたち、かわいそう。……でも、どうしてあんなになってまで、お酒飲みたがるのかな。わかってるなら、飲まなきゃいいのに」
不思議そうに言ったメイアに、テュロンは苦笑する。
「まあ、メイアの言うことにも一理はあるのですが。けれど、メイアも大人になったらわかることかもしれませんわね」
しかし、テュロンのその言葉に、メイアはむっと可愛らしい唇を尖らせた。
「むー。テュロン姉さま、さっきから、大人は、とか、大人になれば、とか。僕だって、もう大人だもん」
「あらあら。それは失礼しましたわ、ふふふ」
微笑を浮かべながら、テュロンはメイアの頭を撫でる。しかし、メイアの機嫌はますます斜め上に尖ったようだった。
「ほんとだってば! 僕、大人なんだよ。ご主人さまに、この間、ちゃんと大人の恋人として扱ってもらったんだもん!」
ぴきっ、と空気が軋んでひび割れたような音を、その場にいたものは体感できたことだろう。テュロンはメイアの頭を撫でていた手を止め、アンジェはラツキを治療しかかっていた手を止めて、それぞれ表情を凍り付かせたまま、メイアを見つめた。
「……メイア? 恋人として? とは? どういう? 意味? でしょうかしら?」
「うん、あのね、なんか体中が蕩けちゃうみたいで、熱くて痺れるみたいで、すごく素敵だったよ!」
対してメイアはあくまでも明るく楽しそうに、そして嬉しそうに話す。
もちろんこの場でメイアが話をしているのは、過日、ラツキが彼女に与えたキスのことで、それ以上の意味はない。
しかし、アンジェとテュロンには別の意味で伝わってしまったようだった。
「……ご主人さま……いくらなんでもこんな小さなメイアに、もうお手を付けられていたのですか……」
アンジェが、今度は自分に襲ってきた頭痛を押さえる。一方テュロンは形のいい眉毛をしかめ、唇をへの字に曲げた。
「アンジェ、ご主人さまの治療は一番最後になさいませ。少し、反省をしていただく必要があると考えますわ」
「まあテュロン、それはご主人さまがお気の毒ですよ。……ですから、いい考えですね」
頷き合う二人に、ラツキは震える手を伸ばす。
「ちょ、待って、誤解……誤解だから……ちょっと、アンジェっ!」
が、その手は誰にも届くことなく、虚しくパタッと床に落ちたのだった。
「ではテュロン、お買い物、お願いしますね」
「お任せくださいませ。アンジェも大変でしょうけれど」
「ふふふ。まあ、仕方ないご主人さまたちに巡り合ってしまったと思って諦めます」
くすりと笑いながら、アンジェはちらりと、マグロ状態でぐったりしているラツキたちを見やった。その言葉は辛辣ではあったが、黄金の美しい眼差しには優しい慈愛の光が宿っている。
……ダメ亭主に甲斐甲斐しく尽くす健気な妻、と言ってしまっては実も蓋もないが。
アンジェは屋敷に残ってラツキたちの介抱を続け、テュロンは街へ買い物に行く、という分担で、この後の行動が決定していた。
そしてメイアも、テュロンのお手伝いとして同行することになっている。
「メイアも、ちゃんとテュロンの言うことを聞いてくださいね?」
「もう、アンジェ姉さままで僕を子ども扱いする。僕、お使いくらい、ちゃんとできるよ」
「ふふ、そうでしたね。ごめんなさい。それでは、いってらっしゃい」
春風のようなアンジェの柔らかい声に送られて、テュロンとメイアは街へと出かけた。
空は青くどこまでも高く、肌をそっと撫でるような風が吹き抜けていく。
小鳥たちのさえずる音が涼やかに、二人の耳をくすぐっていた。
メイアは、ふとその蒼穹の天を仰ぐ。雲のひとひらさえ浮かんではいない空。遠近感がつかめず、果てしない空の底に吸い込まれそうな、無限に墜ちて行ってしまいそうな錯覚を感じて、メイアは無意識に、きゅっとテュロンの手を握りしめた。
それに気付いて傍らを振り返ったテュロンは、メイアの小さな手の感触に微笑み、そっと手を握り返して道を歩んでいった。
「……テュロン姉さま、まだぁ?」
「はい、もう少し待っていてくださいな。……それで、こちらの品物なのですが、もう一先ほどのものを出してみてくださいませ。こちらの品と比べますと、お値段と品質との均衡が取れているようには思えませんわ。そこでこちらの品物をですね……」
生欠伸を噛み殺すメイアを適当にあしらいつつ、道具屋で、テュロンはもう長い時間、店主と話し込んでいた。話し込んでいたというよりは、店主の顔を引きつらせ、泣きそうにさせていたというべきだろうが。
細かいことが気になるタイプのテュロンは、一つ品定めするにしても膨大な時間をかけ、根掘り葉掘り聞き糺し、徹底的に調べ上げないと気が済まない。
いつもはラツキやアンジェなどのストッパーがいるために、適当なところで切り上げさせられるのだが、今日の買い物は事実上無法地帯。テュロンの独壇場となっていた。
ふわぁ、と、メイアはもう一度可愛い欠伸。彼女はテュロンから視線を外して、店の軒先からぼんやりと外を眺めた。
最初のうちは道具屋の中の珍しいものをあれやこれやと見回るのも楽しいものだったが、とっくにその新鮮味は薄れてしまっている。
「ふわあ。テュロン姉さまはいろんなこと知ってるけど、周りが見えなくなっちゃう人だよねえ……」
こまっしゃくれたことを独り言ちたとき、一陣の薫風がからかうようにメイアの顔を撫で、彼女は思わず軽く眼を閉じた。
と同時、銀の鈴を振るような可憐な声が聞こえた。
「ねえ、ねえ、お兄ちゃん」
最初は、メイアはその声に応じなかった。自分のことだとは思わなかったから。
けれど次いで、
「ねえ、お兄ちゃんったら」
彼女の裾を引っ張った誰かに驚いて、メイアは閉じていた眼を開け、振り向く。
そこには、白い、袖のゆったりとしたワンピースを纏った、小さな女の子が立っていたのだった。
メイアよりもさらに幼く、そして背も低い、本当に稚い少女。
くりくりとした大きな瞳は黒目がちで輝いており、ふわっとした黒い髪は肩口のあたりまで伸びていた。その髪の中に一筋、真紅の髪の流れが混じっているのが眼を引く。
「……僕のこと?」
眉を顰め、メイアはその少女を見下ろす。少女はにこっと人懐こい笑みを浮かべ、メイアを親しげな面持ちで見上げていた。
「そうだよ、お兄ちゃん!」
「……僕、女の子だよ。お・ん・な・の・こ!」
空色のショートヘアに、飾り気のない短衣、活動的なショートパンツ姿のほっそりしたメイアは、可憐な少年に見紛う人も多い。
そんな姿をしているのが悪いと言われればそうなのだが、それでもメイアは自分が男の子と間違われることを、あまり嬉しくは思っていない。
口を尖らせたメイアに、少女は少し目を丸くし、けれどくすっと笑いかけた。
「そうなんだ。じゃあ。お姉ちゃんだね!」
「……う、うん」
屈託のない少女に、メイアはやや毒気を抜かれた感で頷く。
(……お姉ちゃん……か……)
メイアはラツキたちの仲間の中では自他ともに認める末の妹的な位置にいる。そんな自分が、「お姉ちゃん」と呼ばれたという初めての経験は、メイアの心を甘くくすぐっていた。
「……それで、僕に何か用なの?」
「うん、あのね、あたし、大事なものをなくしちゃったの。大事なものなの。大事なの。それで、探すの、誰か手伝ってくれないかなって」
「えっと……それが、なんで僕なの?」
「だってお姉ちゃん、優しそうだったし。それに、すごく暇そうにしてたから」
む、とメイアは言葉に詰まる。おそらく、この賑やかでせわしない商店街の中で、誰よりも暇そうにしていたのは、確かにメイアかもしれなかった。
「でも、そういうのは、例えば聖務官さんとか、そういう人に頼むといいと思うな。そりゃ、僕だって手伝ってあげたいとは思うけど……」
ちらり、とメイアは店の奥に目をやった。そこでは相変わらずテュロンが店主に向かって大演説会を展開している。
「聖務官さんって、どこにいるのか、あたし知らないんだもん。だから、ねえ、お姉ちゃん、お願い!」
「……うーん……」
メイアは細い顎を撫でながら、しばし考え込んだ。少女のあどけない瞳に、真摯な輝きを見て、彼女はふうと小さく息をつく。
「じゃあ、聖務官さんを探すだけだよ? いい?」
「うん、お姉ちゃん!」
ぴょこん、と弾むように跳ねた少女に苦笑させられつつ、メイアはとことこと店の奥に入りなおした。そこで舌鋒火を噴きまくっているテュロンのミニドレスの裾を、メイアは引っ張る。先ほど、自分が少女にされたように。
「ですからこの商品は……どうしましたの、メイア?」
「姉さま、僕、ちょっとだけ外に出ていてもいいかな。すぐ戻るよ」
「あまり遠くへ行ってはいけませんわよ?」
「うん。でも、大丈夫だよ。僕、子供じゃないんだから!」
元気に宣言すると、メイアは身を翻し、店の外へと駆け出した。
そこで待っていた少女に頷くと、二人の少女は人ごみの商店街へと歩き出す。
メイアの頬には、いつしか赤みが差し、その口元には零れるような笑顔が浮かんでいた。
(……なんだろ。なんだか、風も光も、みんな踊ってるみたい、かも)
メイアは、自分の小さな胸の奥で機嫌よく口笛でも吹き出しそうな、弾んだ心に気付いていた。
いつも見慣れた聖都の街並みが、なぜかとても広く明るく感じられる。
少しだけ怖いけれど、その何倍もワクワクした気持ちが止まらない。
――それは、彼女がほとんど初めて、自分で決めて自分で踏み出した、小さな小さな冒険だったから。
力を見極める「眼」の能力を持って生まれてきたメイアは、聖殿への献納奴隷となるために大切に育てられた。しかしそれは、自由に羽ばたく翼を縛られたままの生活でもあった。
ラツキと出会って以降のメイアは、それまでとは変わった生き方を謳歌してはいたけれど、どこへ出かけるにも、やはり「ご主人さま」や「姉さま」たちがいつも一緒だった。
そのことに、不満を覚えたことはない。大好きなラツキや仲間たちと一緒にいるのは幸せなことだったから。
けれど、それとは別に。
自分の小さな足を、自分の選んだ小さな地に、踏みしめたいと思うときは来る。
奴隷商を逃げ出した時のように誰かに唆されたわけではない。
メイアは、今、自分で、自分の心の赴くままに、自由に走り出したのだった。
もっとも、メイアの高揚はそれほど長く続くことはなかった。
少女と連れ立って少し行った先に、早くも見つけてしまったからである。仮面と法服に身を包んだ、巡回中の聖務官を。
聖務官を探しに来たのだからそれでいいはずなのだけれど、どことなく意気込みがしぼんでしまった気もするメイアだった。
「あー。見つかっちゃった、ね」
少し肩透かしな思いではあったが、それでもメイアは、少女を連れて、聖務官の元へと歩み寄った。
その聖務官は、仮面の下から鋭い鈎の様な嘴を突き出し、背に大きな翅を生やした、鳥人の種族のようだった。
「あの、聖務官さん」
声を掛けたメイアに、鳥人の聖務官はきびきびとした挙措で顔を向けた。仮面越しに鋭い猛禽類の眼光が光り、メイアは少し肩をすくめる。
だが、その聖務官は外見にそぐわない優しい声でメイアに尋ねた。
「ほむべきかな、いと高き塔。どうかなさいましたか?」
「えっと、ほむべきかな、いと高き塔。あのね、こっちの子が、なんだか大事なものをなくしちゃったんだっていうの。それで、聖務官さんに届けたらいいんじゃないかって僕が教えてあげたんだ」
「それはそれは、ありがとうございます。あなたは親切な人なのですね。それで……その子は、どこに?」
「……えっ?」
聖務官の言葉に目を丸くし、メイアは慌ててきょろきょろと周囲を見回したが、いつの間にか、あの少女の姿は見えない。
「あ、あれ!? 聖務官さん、本当だよ、僕、嘘なんかついてないよ。ほんとに、女の子がいたんだ」
「はい、疑っているわけではありません。ですが、その落とし物をしたというご本人がいないと、話を聞くこともできません。もしその子が見つかったら、改めて聖殿に相談に来てください」
「う……うん……」
諭すような聖務官に、メイアはしゅんとうなだれ、力なく頷いた。
聖務官は慰めるようにぽんと軽くメイアの肩を叩くと、会釈して再び人ごみの中へ消えていく。
その後ろ姿を見送って、ため息をつきながら振り返ったメイアの前に。
ふわりと騒いだ風と共に……少女がいた。
「わあ!?」
「お姉ちゃん、どうしたの?」
思わず後ずさったメイアと、きょとん、と小首を傾げる少女。
「き、きみ、どこ行ってたの!? せっかく聖務官さんを見つけたのに!」
「だって……あの聖務官さん、なんだかちょっと怖かったんだもん。食べられちゃいそうで」
「食べられちゃうって……。確かに、見た目はちょっと怖い感じの人だったけど」
メイアは困惑して細い腕を腰に当てた。少女は、その彼女の腕を取る。
「ねえ、やっぱり、お姉ちゃんが一緒に探してくれない? 大体どこに落としたのかはわかってるの。一緒に探してくれたらすぐ見つかると思うの」
メイアを見つめるまっすぐな目は、疑うことを知らないかのように純朴な光で煌めいている。メイアは、少しうつむいて考え込んだ。
少女が自分に寄せる期待を実感して、メイアの心は揺らぐ。
(この子は、僕を頼ってくれてるんだ。僕、「お姉ちゃん」なんだ。……すぐに見つかるっていうなら……探してあげようかな。時間が掛かるようなら、一度戻ってテュロン姉さまに相談すればいいし)
メイアはこくんと頷くと、少女に微笑みかけた。
「わかったよ。でも、ほんの少しの間だけだよ?」
「うん! ありがとう、お姉ちゃん!」
太陽が差し込むような眩しい笑顔で少女は笑う。メイアもまた、そんな少女の姿に釣られて、思わずころころと笑いだしてしまった。
二人の少女は、笑いさざめき合いながら、再び連れ立って雑踏の中を駆けだしていった。
「それで、どのあたりなの? っていうか、きみが何を落としたのかも聞いてなかったよ」
「あっち! 落としたのは、宝物!」
「……それじゃわかんないよ……」
「とにかく、あっちなの! それに、できれば急ぎたいの」
少女に手を取られ、メイアは聖都を走りぬけていく。少女の独特な長い袖はひらひらと揺らめいて、風に乗るようだった。
「あっちの、森のところ。多分、あのへんなの」
「ちょっと遠くない? ここからあの森だと、通りを大きく回り込んでいかないといけないんじゃないかな」
少女の指差した方向を見て、メイアは眉を顰めた。聖都の中にいくつかある森林公園のうちの一か所である。しかし、今いる場所からそこへたどり着くには、いくつかの通りを何度も越えていかなければならないはず、というのがメイアの知識だった。
だが、少女は不思議そうな顔で振り返る。
「まーっすぐ行けば、近いよ?」
「まーっすぐっていっても、道が……え?」
メイアに言い終わらせもせず、少女は急に方向を変えて大通りを外れた。少女に手を引かれて、メイアはがくんと体を揺らしながら、足をもつれさせて彼女に導かれる。
「ちょっときみ、どこに……わあ!?」
少女はひょいひょいと弾むような足取りで裏道や小道を駆け抜ける。そのまま、一見突き当りと見えた壁が少し崩れていた場所を軽々と乗り越えた。
遅れてその壁を乗り越えたメイアは、小さな寂れた、人気のない建物の裏庭に出ていたことを知り、目を白黒させる。
少女はニコッと笑うと、さらにその建物の脇を通って、半ば壊れかけた、物置のような小屋に近づいた。
何をするのかとメイアが見ていると、彼女はちゅうちょなく小屋の壁に飛びつき、窓枠や軒をうまく伝って、見る間に屋根の上へと登り着いてしまった。
「さ、お姉ちゃんも、早く」
「え、ええ!?」
屋根の上から顔を出して手招きする少女に、メイアはたじろぐ。だが、ここまで来て退くこともならず、彼女はおっかなびっくりな物腰で手を伸ばし、少女に力を借りながら、何とかよたよたと小屋の屋根へとたどり着いた。
「さ、もう少しだよ!」
少女は楽し気に言うと、身軽に小屋の屋根から母屋の一階の屋根に飛び移り、そこからさらに母屋の屋上へと、まるで踊るような身のこなしで飛び上がっていった。
「ぼ、僕も、それ、やるの!?」
「だいじょーぶ。やってみたら簡単だよ!」
顔をひきつらせたメイアに、少女が声をかける。
うー、と少し唸ったメイアだったが、半ば破れかぶれの気持ちで、思い切って少女に倣い、跳んでみる。一瞬体勢が崩れかけ、肝を冷やしたが、少女がうまく掴まえてくれて、なんとか少女と同じように、屋根に登りきることができた。
「ここから、あっちの屋根に跳び移って、そこからまた、あっちの屋根にいくの。で、そこの垣根を潜ってあっちの通りに出るの。そうやっていけば、森まですぐだよ、お姉ちゃん!」
「そ、そうなんだ……」
確かに、道なりに辿ると時間が掛かりそうな位置関係だったが、こうして直線距離で突っ切っていくとすれば、意外と早くたどり着けそうではあった。
「でもきみ、どうしてそんなこと知ってるの?」
「上から見てたから! さ、いこ、お姉ちゃん!」
メイアが聞き返すよりも早く、少女は次なる目標へ向かって身を躍らせた。
やむを得ずメイアも後へ続く。
大変なことになった、と思いつつも、しかし、彼女の口許には、小さな笑みが浮かぶ。
メイアの脳裏には、故郷での日々が淡く蘇っていた。
『よいかな、メイア。決して、真似をしてはならぬ』
里長が、メイアに向かって、謹厳に言ったものだった。
『子供たちが今朝、樹に登って、足を滑らせて落ちたのじゃ。危ないからの。メイアはしてはならぬ』
また他の時は、メイアの身の回りの世話をしてくれたおばさんが、彼女の髪を梳きながら、やはり言ったのだった。
『うちの子がね、昨日、泥と落ち葉に塗れて帰ってきて。聞いたら、茂みを誰が一番早く潜り抜けるかの競争をしていたっていうのよ。まったく困った子たち。それに比べると、メイアちゃんはおとなしくて、ほんとにいい子よね』
メイアは、それらの話を素直に聞いていた。自分が里の人々にとってどれほど大切な存在か、そして人々がどれだけ親身になって自分に優しくしてくれているかを、わかっていたから。
だから、メイアは木に登って落ちたことも、泥と落ち葉だらけになって遊んだことも、ない。なかった。
けれど。
今、自分は、崩れた壁を飛び越え、小屋に登り、屋根から屋根に跳び移り、垣根を潜り抜けながら聖都の街並みを横断するという、里にいた頃には想像もできなかった行動を取っていた。
危ないことはわかっている。いけないことかもしれないということも。
けれど、なんだろう。この体も心も躍動し、高らかに歌い、ステップを踏んでいるような高揚感は。
(みんなは……里の子たちは、こんな気持ち、味わっていたのかなぁ)
メイアはとくんとくんと心臓が笑っている音を感じながら、少女に続いて宙を舞っていた。
「お姉ちゃん、ついたよ! このへん!」
元気いっぱいに言う少女とは対照的に、メイアはくたくたになって膝から頽れそうになる体をやっとの思いで支えていた。
森林公園の外れ、草むらがくるぶしほどまでに茂った一角に、二人はたどり着いていた。
「そ、そう……よかったね……それで、何を探せばいいのかな?……」
「えっとね。綺麗な石! 緑色にきらきら光ってるの!」
「綺麗な石か。わかったよ」
綺麗な石を宝物にしているのか。そういうところは子供っぽくてかわいいな、と思いながら、メイアはよたよたと草を分け、少女と一緒に、その石とやらを探し始める。
とはいえ、
(キラキラ光るっていってもなあ。小さな石なら、そんな簡単に見つかるようなものでもなさそう……)
そんなふうに考えていたメイアの目に……いや、「瞳」に、その時、映り込んだものがあった。
『力』を感じ取り、『波』として把握することのできる、メイアの右目。
その深い紫紺の瞳に、ささやかな、しかし確かな『力の波』が映っていたのだった。
「……え!?」
慌ててその方向をメイアは凝視し、位置を読み取りながら、あたふたと草むらを分けて首を突っ込んでみる。
そこには。
懸命に自分の居場所を訴えているかのように、自ら翠色の可憐な光を放つ小さな輝石が、確かにあったのだった。
「ね、ねえ! もしかしたら、きみの探していたのって、これ!?」
拾い上げて示したメイアに、少女は歓喜の表情を浮かべてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「うん、そう! それがあたしの探してたものなの! やっぱり、お姉ちゃんに頼んでよかった!」
「そ、そうなの。それは良かったけど……」
メイアは改めて、自分の手の中で輝く石を見る。太陽の輝きを跳ねて光っているのではなく、自ら光を放つ、この小さな石から感じられる、力。
(これ……多分、ううん、きっと、聖遺物だ)
『塔』の守護獣が登攀者によって倒された際に、時折遺す貴重な品。強い魔力を秘めていたり、あるいは様々な能力を有していたりもする、稀有な宝物だった。
「ありがとう、お姉ちゃん。――これでやっと、お姉ちゃんにこれ、渡せるね」
「……え?」
光る石を少女に手渡そうとしたメイアは、手を軽く握られ、石を自らの手に包むようにされて戸惑った。
少女の面持ちは真面目で、冗談を言っているようには見えない。
「どういうことなの?」
「ごめんね、お姉ちゃん。あたし、最初からお姉ちゃんを探してたんだ。お母さんから聞いた通りの姿だったから、すぐにわかったの」
くすっと少女は笑いながら、舞うようにひらひらと長い袖を風に流した。
「あたしが旅立つときに、あたしのお母さんから、頼まれたことだったの。この石はね、お母さんが集めた、きれいなたからものの中で、一番すてきなものなんだって。だから、お母さんの一番のお友だちのお姉ちゃんに、これをあげたいんだって。そう、あたし、頼まれたの。だけど途中で落としちゃって、えへへ」
「よ、よくわかんない。きみのお母さんって……?」
問おうとしたメイアの目前で、少女の姿が、まるで霧の中に溶け込むように輪郭を失い始めた。同時、掌中の聖遺物が少しずつ光を失っていく。
「ど、どうしたの、きみ!?」
「あんまり長い時間はこうしていられないんだって。だから急いでたんだけど、間に合ってよかったな。じゃあお姉ちゃん、確かにお母さんのたからもの、あげたからね!」
少女の言葉が木霊のように響いて消える。その時巻き起こった一陣の涼風に、メイアは思わず目を閉じた。先ほど、少女と初めて出会ったときのように。
そしてメイアが再び目を見らいた時、少女の姿はどこにも見えなかった。
けれど、その代わりに。
――メイアの頭上を嬉しそうに、楽しそうにさえずりながら飛び回る、一羽の小鳥の姿を、メイアは認めたのだった。
「まさか……」
唖然としてメイアはその小鳥を打ち眺める。
白い羽を羽ばたかせ、小さな可愛らしい頭には、一筋の朱い線が入った、その小鳥を。
その鳥に似た姿を、メイアは以前にも見たことがあった。
メイアが里で暮らしていたころに。
そう、彼女の部屋の前の大木で育ち、彼女が見守り続け、そして大きくなって巣立って行った、あの小鳥と同じものだった。
小鳥は幾度か名残を惜しむようにメイアの周りを飛び回ると、やがて大きく羽を一打ちし、空高くへと消えていった。
広く深い空を見上げるメイアの手の中には、すっかり光を失ってしまった聖遺物が一つ、少しだけ寂しそうに残されていた。
メイアには、わからない。
少女は、あの小鳥だったのだろうか。そしてあの小鳥は、メイアがかつて里で見守り続けていたあの鳥の子なのだろうか。
きらきらと輝くものを集める鳥の習性から、どこかに隠されていた聖遺物を、あの鳥は見つけた。その聖遺物の力で、小鳥は仮初めに人の姿を取り、メイアに会いに来たのだろうか。
いや、そもそも。
あの少女の姿を見た、と思っているのは、メイアだけなのだ。他の誰も、少女には会っていない。鳥人の聖務官にも、少女は見えていないようだったから。
ならば、聖遺物の力と、メイアの瞳の力が複合的に作用し、幻を見せたのだろうか。彼女は最初から、ただの小鳥と話していたのだろうか。
メイアには、わからない。
……けれど。
彼女の手の中にある聖遺物の小さな重みと、そこに託された思いは、確かにメイアに伝わっていた。
「ありがとう、僕の最初のお友だち。きみはもう立派な大人になって、可愛い子供を育てていたんだね」
メイアは胸の中で小さく呟く。
彼女は暖かい幸福感と、そしてどこか心の奥底をきゅっと締め付けられる切なさの入り混じった、不思議な感覚に満たされていた。
メイアが店に戻った時、ちょうどテュロンはすべての品物を選別し終えていた。
テュロンにとってはいつもの日常であり、変わったことなど何一つなく時間は過ぎている。
そのことに、メイアは少し、笑った。
楽しいからということではなく、苦笑というわけでもない。ただ、どこか奇妙なおかしみがあったのだ。
テュロンの選んだ山のような荷物の一部をメイアも抱いて、二人は帰途に就く。
屋敷への途中まで来たときに、テュロンが声を上げた。
「あら、ご主人さまたちですわ、メイア」
「あ、ほんとだ。迎えに来てくれたんだね!」
道の向こうから、ラツキ、アンジェ、キュリエナ、ラフィーネが揃って手を振りながら歩いてくる。
メイアは何かたまらない気持ちがこみあげ、駆け出していくと、勢いよくラツキに飛びついた。
「ご主人さま! ご主人さま、ただいまっ!」
「お帰りなさい、メイア。今日はテュロンのお手伝いしてくれたのね。偉いわ。もう大人の仲間入りね」
ラツキはメイアの頭を撫でながら言う。メイアが大人扱いしてほしがっていた、とアンジェから聞いていたのだろう。
けれど、メイアは首を振った。
「ううん、僕、まだ、もう少し子供でいるよ。子供をもっとちゃんとやってからじゃないと、大人になれないと思うんだ」
その言葉に、ラツキたちはきょとんと顔を見合わせる。
「お姉ちゃん」として少女と共に小さな冒険をし、「子供」として危ない遊びをして、そして昔の友達が、今は母親になったことを知る。
そんな、大人でもあり子供でもあるメイアの一日が、もうすぐ、静かに穏やかに、暮れていこうとしている。
メイアの懐では、力を失ってただの石になった聖遺物が、けれど優しく、彼女を見守っていた。




