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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
55/84

少女と姉

「ラフィーネ……さん……」



 密やかに絞り出すような声が私の肺腑から漏れた。

 部屋の隅には、ラフィーネさんの影が小さく頼りなげに落ちている。その傷つき怯える内心を現すかのように。

 私のその声が彼女の耳に届くまでに、ずいぶん時間が掛かったような気がした。もちろんそんなわけはなく、ただ私の中で一瞬の歩みが遅かったに過ぎないのけれど。


 椅子の上で膝の上に手を組み、うなだれていたラフィーネさんは、そっと首を上げ、顔を回して、こちらに視線を送った。彼女の顔は憔悴に蒼褪め、やつれていて、私の心をかき乱す。

 彼女は、しばらく茫然とした後、きゅ、と唇を歪めた。

 泣き出しそうに。



「ラツキさん……どうして……どうしてここに……?」



 震えた声が、か細く響く。いつもの、天真爛漫で元気なラフィーネさんからはかけ離れた声が。

 私は思わず駆け寄って、彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。

 それほどに、ラフィーネさんの姿は儚げで朧に見えたのだ。そのまま虚空に消え去ってしまいそうなほど。

 けれど、私はその衝動を必死で抑え込む。私たちは友達で……友達であって……友達なのだから。

 その代わり、無理やりに、私は微笑んだ。


「どうしてって。あなたを助けるために。あなたを救うために。――あなたのために、です。ラフィーネさん」

「そうじゃなく……いえ、それもあるんですけど……」


 ラフィーネさんの口ぶりが戸惑いを現す。彼女が聞きたかった「どうして」は、whyであると同時にhowの意味でもあったのだろう。

 だが、小さく彼女も微笑んだ。私に釣られるように。



「……でも、素敵な言葉です。ありがとう、ラツキさん。……もしかして、あらかじめ用意してました? そのかっこいい言葉。ふふっ」



 くすり、と、ラフィーネさんの唇が可憐に形を変えた。

 その笑顔が見られただけでも、私の胸は熱くなり、昂ぶっていく感覚を覚えていた。






 私が何故、身柄を拘束されていたラフィーネさんに面会できたのか。

 それは、あの黒衣の聖務官との出会いによるものだった。


「私の名前も素性も、もう、とうの昔に捨てたものです。ですが……おそらくラフィーネは、まだ私を呼んでくれるでしょうね。――姉と」


 そう穏やかに言った、あの黒衣の聖務官に。


「姉……ラフィーネさんの、お姉さん……?」


 言葉を失って、私たちはまじまじと黒衣の聖務官を見つめる。咄嗟に身構えていたテュロンやキュリエナでさえも、次の行動を制されたほどの衝撃。

 屋敷に帰ってきたら平然と家の中にいた、というのも驚かされたけれど、それ以上に、彼女の口から語られたその素性には驚愕の念を禁じえなかった。

 確かに、その姿から醸し出される雰囲気、そして赤い髪、またその声も、ラフィーネさんをすぐに想起させるシンパシーを漂わせる人ではあったけれど。ラフィーネさんよりも4つか5つくらい年上、という感じだろうか。


 そういえば、以前。ラフィーネさん自身から、お姉さんがいるということをちらっと聞いたことはあったっけ。

 それが、この人なのだろうか。


 ……いや。

 あの時、確か、ラフィーネさんは、姉が「いる」ではなく――「いた」と言っていたはずではなかったか。

 過去形……つまり、今はいない、ということを言外に匂わせていたように思えた。私はその時、それ以上をラフィーネさんに問いただしはしなかったけれど。

 眉根を顰めた私の姿を見て、黒衣の聖務官は細い肩をすくめて小さく笑んだ。


「私のことを、ラフィーネから聞いていたご様子ですね――死んだとでも言っていましたか?」

「……いえ、あまり詳しくは聞かなかったわ。繊細な話だし、立ち入るようなことではないもの」

「ありがとう。その言葉だけでも、あなたがラフィーネに良くしてくれていることがわかります」


 柔らかくふんわりと微笑む黒衣の聖務官。

 お礼を言うのか。その言葉で、逆に私の方も、彼女がラフィーネさんに対して深い愛情を抱いていることが伝わるように感じた。

 彼女があの黒衣の聖務官ならば、『秘法』をエサにして様々な人を釣り上げ、世界の安定のためならば多少の犠牲者が出ることをも躊躇わない。そんな、ある意味冷酷な人であるはずなのだけど。


「……それで。私に、何の用なの」


 私の問いに、黒衣の聖務官はしとやかな首を微かに傾げて、答えた。


「ラフィーネにお会いになりたいのではありませんか、ラツキさん? ムグディフ外務卿殺害事件のことをお調べになっているのでしょう」

 

 私は彼女の真意を測りかね、その貌をじっと見据える。もちろん、彼女の顔には漆黒の仮面が張り付いており、その表情はうかがえないのだが。彼女が浮かべている微笑みも、たった今感じた温かみが奥に消え、どこか不穏な気配を感じさせる。

 だがそれでも、私は彼女の問いに肯定せざるを得ない。


「……ええ。でも、会いたいと言って会えるような状況じゃないわね」

「そうですね、聖殿に身柄を拘束されているのですから、普通ならば。ですが、普通ではない手段を取れば、会うことはできます」


 黒衣の聖務官はそういうと、法衣の奥から魂魄板を取り出した。

 人の魂の波紋を記録する魂魄版は、身分証明をするものでもある。私やキュリエナも登攀者としてそれを持っているけれど、私たちのものとは異なって、彼女の出した魂魄版は黒く染まっており、重厚でどこか不気味なものだった。


「私の魂魄紋をあなたの魂魄版に転写します。それを聖殿に見せれば、ラフィーネと面会が叶うでしょう」

「それはありがたい話だけど、でも、なぜ私に便宜を図ってくれるの? それに、なぜあなた自身が動かないの?」


 問い詰めた私だったが、黒衣の聖務官の態度は春の夜風のように柔らかで、泰然自若とした様子を崩さない。


「まず、今回の事件は私たちにとっても放置するわけにはいきません。私たちの存在そのものを駆け引きの材料に使われるようなことは、秩序への挑戦であり冒涜ですから。しかし、ご存知のように、私たちは表の社会に出ることを極力避けたいのも事実です。ですので――」

「身代わりに、私を道具に使おうというわけ?」

「はい。お互いにお互いを利用し合うとお考えになればよろしいかと」


 皮肉めいた私の言葉をそのまま受け止めて、黒衣の聖務官はにこやかに返した。

 彼女が言ったのは、無論レグダー男爵のことだろう。

 男爵は、秘法と黒の聖務官の存在を掴み、それをネタに聖殿をゆすって、自分の提案に聖殿が反対できないという状況を作出した。

 黒衣の聖務官としては、当然、それを黙って看過することはできない。だが、相手が相手。帝国の高級官僚だということもあって、あまり表立った行動はしにくい。

 そこで、私、というわけか。私をうまく動かして、この事件を解決させようというわけだ。


 確かに私の方も、ラフィーネさんを放っておけないわけだから、黒の聖務官の助力が得られることはありがたい。だから、彼女の言うように相互利用の関係になるわけだけど。

 でも。

 でも、さ。



「――ラフィーネさんのため、とは言わないの? あなたの妹なんでしょう? ……大切な」



 秩序とかも大事だけど。でも。

 妹のために、と。ラフィーネさんを救うために、と。一言でも、彼女は、そうは言ってくれないのだろうか。それが、私が寂しく、そして悲しく思った点だった。

 けれど、黒衣の聖務官は、影が揺れるように微かに笑った。



「私たちは個人の感情で動くことは許されません。ですが、……あなたがそう思って行動してくださるのなら、私はそれに感謝するでしょう」


 それは場を繕うための形式的な言葉だろうか。それとも黒衣の聖務官の真意だろうか。

 仮面の奥の彼女の心を推し量ることは私にはできなかった。でも、先ほど、ほんの少しだけど言葉の端に滲んだ、妹への……ラフィーネさんへの情義は本当のものであると、私は信じたい。


「わかったわ。あなたたちに使われてあげる」

「ありがとうございます。では、魂魄版をこちらに。転写を行う間、私たちの把握している事情もお伝えしましょう……」






 ……と。

 そんな流れがあったわけなのだった。

 私は黒の聖務官に魂魄紋を転写してもらい、それを聖殿に持ち込んだ。

 結構偉い人のところにまで話が行ったらしいけど、多少待たされた挙句、私にはラフィーネさんと面会できる許可が下りた。と言っても許可が出たのは私だけで、アンジェたちは控室で待っていてもらうことにはなったけど。


 ついでに、今更ではあるが、これで、黒の聖務官が正式な聖殿の一員、それも相当高位の存在であったということが傍証されたことにもなるわね。今までは、黒の聖務官が聖殿のものであるだろうというのは、ほぼ確定であるとはいえ、推論に過ぎなかったのだけど。


 それはともかく、私はラフィーネさんがいるという部屋に案内された。

 今はちょうど取り調べがひと段落ついており、彼女の体は空いているらしい。

 ラフィーネさんはまだ犯人と断定されたわけではないから、牢屋などに入れられてはいない。しかし、見張りの付いた一室に、事実上の軟禁状態で押し込められてはいた。


 そこは、私たちも良くラフィーネさんと話をするのに使っていたような、控室のうちの一部屋。

 みんなでワイワイととりとめもない話をしていた時は、明るく開放的な作りの部屋だと思っていた。けれど、ラフィーネさんが一人ぼっちで不安と怯えの中で過ごしている今は、その同じ部屋が、底冷えのするように寒々として無機質な場所に感じられた。


 案内してくれた聖務官さんが、見張りの人に事情を説明してくれて、私は扉を開ける。

 こくり、と生唾を飲み込んでから、私は単身、一歩、中に踏み込んだ。

 そこに、彼女がいた。

 ぽつんと、小さな子供のように頼りなげな影を引いて、うなだれたまま椅子に深くその身を預けた彼女が。

 そして、私は、彼女の名を呼んだのだった。






「ラツキさん、私、私、やってません! 私は……!」


 言い募ろうとしたラフィーネさんを、私はむしろ叱るようにたった一言、遮った。


「当たり前です!」


 逆に唖然とした様子のラフィーネさんが一瞬言葉を失う。その後、恐る恐る、今度は確かめるように、一言一言区切りながら、彼女は言う。


「あ、あの。えっと。状況を見れば、私がやったように見えるのはわかるんです。だけど……」 

「だけどラフィーネさんじゃない。そんなのわかってます。だから、大丈夫」

「……信じてくれるんですか、ラツキさん?」


 唇を震わせたラフィーネさんに、私は、莞爾と微笑んだ。


「信じるんじゃありません。知ってるんです。あなたがそんなことするわけないって」


 ラフィーネさんは少し沈黙し、その後、静かに息を吐いた。苦笑交じりの、けれどとても嬉しそうな吐息を。


「ラツキさん……ほんとに、あなたって人は。自分のことについてはいつも自信なさげなくせに、他の人のことについてはムキになりますよね」

「う。……そ、そうかなあ」

「そうですよ。それこそ、『そんなのわかってます』です。だって、私はいつも、あなたを見てきたんですから」


 仮面の奥からラフィーネさんの真っ直ぐな視線を感じて、私は少したじろいだ。

 そ……そういう言い方をされるとですね……困る。困るぞ。

 抱いちゃいけない感情が、体の奥で震えている感じがするじゃない……。


 こ、こほん。

 私は意味なく空咳を一つして、ラフィーネさんに向き直った。


「え、えっと。それでですね。あの事件の時、ラフィーネさんが見聞きしたことについて、教えてほしいんです。思い出したくはないでしょうけれど」

「はい……と言っても、特に何を言えばいいのか……」


 困ったように首を傾げるラフィーネさん。それでも彼女は、ぽつりぽつりと、記憶の糸を手繰りながら言葉を紡いでくれた。



 それによると。

 フォジョン駐留官が案内する形で、ラフィーネさんが控えていた食卓にムグディフ外務卿が現れたのだという。

 ラフィーネさんは新しい酒瓶の封を切って、二つの盃に酒を満たし、一杯を自分が毒見をし、もう一杯を外務卿に捧げた。彼はそれを勢いよく、ぐびりと浴びるように飲み干した後、苦しみだし、倒れて息を引き取った。

 すぐにフォジョン駐留官が外務卿の隣に跪き、必死な様子で介護をしていたが、間に合わなかったという。


 ここまでは、あまり新しい情報はない。今までも聞いたことの、まあ裏付け程度にしかなっていない。

 

「んー。その盃は、最初から食卓にあったものだったんですよね? 駐留官や外務卿が持ってきたものとかじゃなく。あるいは、他の盃とすり替えられたりするようなこともなく?」

「はい、もちろん。他のものと見間違えたりもしません。私の担当した食卓に用意されていたのは、香りの高いお酒で、その香りを堪能してもらえるよう、盃は他のものとは違い、口の広い大きなものでした。ですから、他の盃と取り違えたりはしません」


 口の広い特別な盃か。そういえば、あの夜会で用意されていた他の盃は、口の狭い細長いものが多かった。立食形式だから、零さないようにそういった形状が多かったのかな。

 しかし、他と形が違うというのなら、盃を毒入りの別のものにすり替えるというのは無理か……。

 まあもちろん、すり替えがあったとして、じゃあそのすり替える盃をどこに隠し持ってたんだ、って話にはなるんだけどね。あの厳重な身体検査を潜り抜けて。


「で、駐留官が外務卿を必死で介抱していたんですね?」


 そう、そこも、不審と言えば不審な点なのよね。

 私たちの調べでは、フォジョン駐留官は、闇賭博場でレグダー男爵に嵌められ、その手先になっている可能性が高い。

 で、男爵の意図としては、反帝国派の巨魁である外務卿を消したかったのではないか、というのが私たちの観測だ。


 だとすれば、なぜ男爵の手先である可能性が高い駐留官は、ターゲットであるはずの外務卿を介抱したんだろう。

 衆人環視の元だったので、放っておくわけにはいかないから、だろうか?

 その可能性もあるだろうけど、でも、咄嗟の出来事で身がすくんでしまった、とでもいえば、別に介抱しなくても言い訳は通るような気もする。


「どんなふうに介抱をしていたんです?」

「私、その時はもうほんとに驚いて、茫然としてしまってましたから……。でも、駐留官がお手持ちの綺麗な手巾を惜しげもなくお使いになって、外務卿の口からこぼれた泡を清めようとなさっていたのは何となく見えていました」


 手巾(ハンカチ)? ……ああそういえば、駐留官は夜会の時、手巾持ってたっけ。

 待てよ。もしかしたら、その手巾に毒を仕込んでおいたとかいうことは! で、介抱するふりをして外務卿に毒を……。

 ……って、何言ってるんだか、私。順番、逆じゃん。外務卿が倒れたから駐留官が介抱したのであって、つまりその時には既に毒は盛られていたわけよね。だったら関係ないか。


 うー。駄目だ。わかんない。ほんと私、頭悪いんだよなあ。

 頭を抱えてしまった私を、ラフィーネさんが気づかわしげに、よしよしと背をさすってくれる。なんか、逆にラフィーネさんに励まされてどうするのって感じだ。うう。ダメ人間。


「あの、気にしないでください、ラツキさん。私、あなたが来てくれたことだけでも嬉しいです。さっきも言いましたけど、私、自分でも、疑われる状況だっていうことはわかってますから。なんか、動機もあるって思われてるみたいですし」


 動機。

 そう、なんか、そういう話も出ていたっけ。でも、よくわからない。ラフィーネさんが外務卿を害する、どんな動機があるというのか。

 少しためらいながらそれを尋ねると、ラフィーネさんはうつむき、微かに唇を噛んだ。

 真紅の髪が一房はらりと落ちて、彼女の顔に影を掃く。

 しばしの沈思の後、彼女はそっと口を開いた。


「そうですね。……何からお話すればいいのかな。……私、古王国の出身なんですよ」


 古王国。外務卿と同じ国の出身だったのか。ラフィーネさんにも、そういえば生国はどこかにあるわけだものね。あまり気にしたことはなかったけど。


「それで、……私の家族のことについて、昔、外務卿が関わっていたことがあったみたいです。私はそれを知らなかったので、それが動機だろうって言われてもどうしようもないんですけど」

「ご家族のこと?」

「ええ。……姉のこと、です」



 一瞬、私の鼓動が早まる。

 姉。お姉さん。……つい先ほどまで一緒にいた、あの黒の聖務官のこと、か。



「――私の姉を殺したのは、外務卿なんだそうです」



 冷えた無機質な声で、ラフィーネさんは呟いた。

 殺した……。 

 その言葉をどんな思いで吐いたのか掴みかね、私はラフィーネさんの表情を伺う。

 その黒の聖務官に、私は先ほどまで会っていたのだ。

 確かに、先程、その黒の聖務官自身が、言っていた。

「私のことを、ラフィーネから聞いていたご様子ですね――死んだとでも言っていましたか?」……と。


 ラフィーネさんは不意に顔を上げ、私の顔を真正面から見据えた。

 彼女の顔は、どこか、泣きそうに見えた。私にさっき会った時の、ほっとしたような泣き顔とは異なって、もっと深いところで彼女の心が、魂がすすり泣いているように。



「ラツキさん。私、いつかは言わなきゃいけないのかなって思ってました。あのね。……あのね。私、好きじゃなかったんです、あなたのような人のこと」

「え……?」



 唐突に突き付けられたその言葉に、私は茫然として立ちすくむ。

 どういう、こと……?

 血の気が失われていくのが自覚できる。

 だが、ラフィーネさんはすぐに、小さく笑った。優しくふんわりと。


「ああ、誤解しないでくださいね。私、あなた個人を嫌いになったことは一度もありませんよ、ラツキさん。今言ったのは、あくまで――『あなたのような人』です」



 その言葉の意味。

 そうか。わかる。わかってしまう。私のような人。人によっては好感を持たれない場合があり得る、『私のような人』。

 それは。



「女性を愛する女性――ですか」

「はい」



 小さく独り言のように囁いた私の言葉に、ラフィーネさんははっきりと頷いた。

 ――そっか。

 同性愛者は……その存在だけで忌避されることは、ある。悲しいけど。辛いけど。でもそれは生理的な反応だから、愛してくれと、理解してくれと、無理強いすることもできないんだ。


 私自身、これまでの人生で何度となく、そういう感情を向けられたことはある。

 だけど、この世界に来てからは、奇跡的なことに、一度もなかった。女性を愛する女性という、ただその存在そのものゆえに嫌悪されるようなことは。

 それは本当に優しく穏やかな、夢のようなめぐりあわせでもあった。


 でもやっぱり。この世界でも、そういう感覚を持つ人は、いるんだ。

 目の奥が熱くなる。やばい、ちょっと打たれ弱くなってたかな。何度も経験済みの感覚なのに。


「でもね、ラツキさん。自分でも不思議に思ってました。私、女の子を愛する女の人は好きじゃなかったはずなのに、どうしてラツキさんには平気なんだろう。ううん、それどころか、どうしてラツキさんに会うと嬉しいんだろう。どうしてラツキさんと話をすると楽しいんだろう、って」


 ラフィーネさんはついと細い指を伸ばし、私の目尻に微かに浮かんだ潤いをそっとぬぐってくれた。


「でも、単純なことでした。ただ、ラツキさんというその人自身を、知れば良かったんです。それだけだったんです。女の子を愛する人、なんていう大雑把であいまいな捉え方をせずに。ラツキさんという一人の人が、私にとって大事な人なのかどうか。そう考えればよかっただけでした」

「ラフィーネさん……」



 ラフィーネさんは照れたようにわしゃわしゃと自分の髪の毛をかきあげた。真紅のその髪と同じような色に染まった耳朶が見えて、少し微笑ましくなる。


「え、えっと。なんか、話が遠回りしちゃいましたね。私の姉の話でした……」


 彼女は居住まいを糺して、改めて話を始めてくれた。

 ラフィーネさんのお姉さんは、幼いころから学問も魔法も優秀で、周囲からも将来を嘱望され、広く名を謳われて、希望を一身に集めた才媛だったのだという。


「私も、姉が大好きでしたし、憧れでした。いつかは姉のようになりたいと思い、姉の後姿を一生懸命追いかけていたんです。姉もそんな私を優しく導いてくれて、両親は早くに亡くしたのですけど、私は幸せでした……。でも」


 でも。そう言って、ラフィーネさんはいったん言葉を切った。

 物悲しげな翳りがその声に差し込んでいた。



「……でも。姉は、突然私の前からいなくなりました。……自分で。自分で命を絶ったんです」



 私は言うべき言葉を持たなかった。

 そう。ラフィーネさんの姉、あの黒衣の聖務官は、自らこの世を去った、……ということになっているのだ、と、私はつい先ほど、その本人から聞いていたのだ。


 そして、――彼女がまだ生きているという事実を、ラフィーネさんは知らない、ということも。


 黒衣の聖務官から、その詳しい理由や事情は聞いていなかったけれど。でも、ラフィーネさんの心に負った傷が、ひどく無残で酷薄なものであったことは、十分以上に伝わってきていた。


「姉の遺体は見つかりませんでした。でも、姉と一緒に命を絶った人の遺体は見つかり、状況や遺書から、おそらく二人は共にこの世を捨てたのだろう、ということになりました。

 亡くなったその人は、姉が愛した人。……姉の愛した、……女性でした」



 私の心臓が低く呻くように叫んだ気がした。

 そのことは聞いていなかったからだ。

 ラフィーネさんの姉が、愛した人は……女性だった……。


「はい、ラツキさんと同じような人だったんですよ、私の姉は。……でも。さっきも言いましたけど、私たちの国は古王国。古い慣習と頑迷固陋な考え方と、そしてそんな狷介なものの考え方を大事にする人たちが支配する社会でした。……そして、そんな人たちの代表が、あの亡くなった外務卿だったようです」


 ずしりと重い塊が私の内臓を押し潰していた。

 古王国が古く頑なな考えに染まった国だということは、これまでにも何度か聞いている。

 それが、今までにはあまりピンとこなかったけど。でも、つまり、そんな国だということは。

 

 ――私のような人間を、否定する気風があってもおかしくはないのだ。


 この聖都のような、猥雑であっても自由な雰囲気はそこにはない。

 無論、古いが故の美しさと整然とした秩序があるのも確かで、その伝統は尊く素晴らしいものだろう。古式ゆかしい遺風に価値があること自体は否定しない。でも。

 ……でも、同時に、そこからはみ出したものを認めない厳しさもまた、ある。


「姉は今言いましたように、優秀で、それゆえに多くの人から目に留められていました。そんな姉が、女性を愛するということは、古王国の社会では許されませんでした。外務卿たちの厳しい態度の元に、姉の愛は否定され、引き裂かれ、潰されようとしました。……だから」


 そこでラフィーネさんの言葉は断ち切られたように途絶した。

 だから。彼女の姉は、恋人と二人で死を選んだということか。


 けれど、ラフィーネさんの姉だけが、生き残ってしまった。いや、救われたのだ。彼女の優秀な資質を惜しみ、その身柄を拾い上げた者たちによって。――黒の聖務官たちによって。

 そのように短く、あの黒衣の聖務官は……ラフィーネさんのお姉さんは、私に話してくれていた。


 ふう、と微かに息をついて、ラフィーネさんは寂しそうな笑みを私に向ける。


「そういう、わけです。私から姉を奪ったのは外務卿だ、だから私は彼を恨んでいるのではないか、と言われても仕方ないですね。でも、さっきも言いましたけど、私はそれを知らなかったんです。外務卿が姉を自殺に追いやった人たちの一人だということは。それに、私が嫌悪感を抱いていたのは、むしろ……」

「私のような人たち、なんですね。あなたの大切なお姉さんを惑わせ、死に誘ったから」


 そうか。ラフィーネさんが私のような人に好感を抱けなかったというのは、具体的な理由があったためか。

 ラフィーネさんは、苦しそうに細い顎を上げ、内面から突き上げる何ものかに耐えるように、しばし黙したのち、再び口を開いた。


「私は幼かったし、潔癖すぎてもいたんでしょうね。本当なら、私が一番姉の気持ちを分かってあげなければいけなかったのに。姉のそんな愛し方に、私は反発するだけでした。

 ……でも。今ならわかるんです。今の私なら。人を愛してしまったら、その気持ちはもうとどめようがないし、その気持ちは誰が相手であっても尊く美しいものだと。

 今さら遅すぎますけれどね。私はもう、姉にそう伝えて謝ることができない。私は、もう。……もう」


 眼前の、打ちひしがれて苦しむこの愛おしい友に、私はなんと声を掛けていいのだろうか。

 ラフィーネさんのお姉さんは生きています。……それを伝えるべきなのだろうか。伝えてしまっていいのだろうか。

 ラフィーネさんのお姉さんは、今は黒衣の聖務官となり、ラフィーネさんの理想とは異なる道を歩んでしまっているのに。ラフィーネさんの求める、清廉で高潔な聖殿の姿とは正反対の、暗く冷たい聖殿の姿を体現する人になってしまっているのに。

 伝えても。伝えなくても。ラフィーネさんは、苦しむ。苦しみ続ける。


 震える私の肩に、その時、そっと手が掛けられた。ラフィーネさんの温かい手。


「ごめんなさい、ラツキさん。あなたまで苦しめるつもりはなかったんです。でも、……でも私、今、自分がすっごい悪い女だって自覚してます」

「……え?」

「だって、嬉しいんです。ラツキさんが、私のことで悲しんでくれたっていうことが。私のために悩んでくれたっていうことが。――私のために。それがこんなにも、嬉しくて、幸せ」


 それは、想いを打ち明けた、言葉だった。

 ラフィーネさんは、自虐的な笑みを浮かべて私を見た。燃え上がるまなざしが魂とともに、仮面の奥から私をまっすぐ見つめているのを感じた。

 

 とくん、とくん。彼女の鼓動が私の心臓と共鳴しているような、そんな錯覚に襲われる。

 いつからだろう。わかってはいた。ラフィーネさんが、私を想ってくれているということは。

 でも、私の方が、逃げていたのだ。……怖いから。

 

 そのまま、静かに。とても静かに、ラフィーネさんの顔が近づく。

 彼女の香りが私の鼻腔をくすぐる。彼女の吐息が私の肌を撫でる。彼女の唇が私に――。


 けれど。私は微かに顔をそむけた。小さく息を飲む音が聞こえる。


「いや、ですか、ラツキさん? ……私は、いや?」

「違います。いやじゃなくて。でも……でも。それ以上近づかれたら、私たち……もう、友達じゃなくなってしまう」


 ラフィーネさんは、私がこの世界に来てからの、初めての友人。大切な最初の親友だった。

 彼女の存在が私の中でどれほど大きかったのかは、この事件で改めて突きつけられている。

 その思いは、多分。もっと深く、彼女に触れたい、触れあいたいと思うところまで来ていた。

 けれど。

 その先に進んでしまったら、私の「最初の友人」は、もういなくなってしまう。それが、私には怖かった。「大切な友人」をなくしてまで、もう引き返せないところにまで進んでしまうことが。



「そうでしょうか、ラツキさん。そうじゃないかも。――試してみませんか、両立できないかどうか。友情と――恋が」



 少し震える唇だったけれど、ラフィーネさんはためらわずに、そう言った。

 彼女の決意。彼女もまた、同じなんだ。友情が壊れてしまうかもしれないという不安は。でも。それでも、彼女は私を求めてくれている。

 極限まで行きついた友情と恋は。もしかしたら、彼女の言うように、限りなく近しく、溶けあって混ざり合って、双方を高めていくことさえできるのかも、しれない。

 そう思えるのは、きっと、他の誰でもない、ラフィーネさんだから。

 彼女なら。彼女となら。


 そっと私の手に自分の手を重ねて、彼女は頭に私の手を導く。

 指が触れた先は、仮面。

 その意図は、明白だった。


「……いいんですか」

「はい。私、もしこのまま刑に処されたら、もうラツキさんには逢えないかもしれない。だからその前に、一度だけでも、見てほしいんです。私の――素顔を」


 しゅるり、と小さな音を立てて、仮面を止めていた飾り紐が解かれた。

 微かな重みが私の指に掛かる。軽いはずの仮面の重み。それは私の心に深く響いた。

 そっと愛おしむように、仮面を外していく。

 ――その下に、彼女が、いた。


 長い睫毛に彩られた、丸みを帯びた大きな瞳。少し勝気そうにまっすぐに見つめる、きらきらと輝く、紅い瞳が。

 細めの朱い眉がすらりと綺麗に延びて、鮮やかに彼女の白い肌とコントラストを形作っている。

 これまでに何度も想像していたより、可憐で少しあどけない面影の、本当のラフィーネさんが、そこにいた。

 

「……綺麗、です。ラフィーネさん」

「えへ。ラツキさんにそう言ってもらえるのって、すごく恥ずかしいな。……でも、嬉しい」


 目尻を赤らめて、ラフィーネさんは微笑む。

 その微笑のまま。

 彼女はもう一度、私に顔を近づけた。

 私も、もう避けない。

 いや、彼女の頬に手を添えて、私は、彼女を自分から導いた。




 彼女の唇は、どこか切なく、そして妖しく甘い味が、した。

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