斧と剣
杞憂、という言葉の由来を思い出す。
それはただの寓意であり笑い話ではあるけれど、まさにその言葉の通り、天そのものが落ち掛かって来るような。
そんな凄まじい勢いと迫力で、巨大な白い触手が、私とキュリエナめがけて叩きつけられた。
それだけで岸壁に打ち寄せる大波のような砂煙が立ち、危ういところでその襲撃をかわした私とキュリエナの傍には、巨大なアリ地獄のような穴がぽっかりと空いている。
うわぁ。
割とシャレにならないぞ、この守護獣の力。
私は少し冷や汗をかきつつ、けれど、ちょっと不思議にも思う。
……これ、何の守護獣なんだろう。
この『塔』に現れる守護獣は、少なくともこれまで邂逅したすべてが、現実に存在する何らかの生き物を模した姿をしている。
私が一階層で出会った初めての守護獣は、羽は生えていたけれど、ネコ型だった。そのほかのものは、狼型や蛇型、あるいはまさにさっきまで私たちが騎乗していた馬型などだ。いずれも純白の外観と赤い目を備えているけれど、姿かたち自体は、現実離れしたものではない。
そういう点では、守護獣たちと、伯爵夫人事件で戦ったあの異形の「淀み」とは、決定的に異なっていたわけだ。
だが、この巨大な触手は何なんだろう。白い外観からして守護獣なのだろうけど、こんな生き物、現実にいるのだろうか。
「……っと!」
そんな考えに一瞬気を取られていた私は、がくりと足を砂に取られた。
ヒール高めのロングブーツという私の靴は、岩場はもちろん、砂地であるこの場所に対してはなおさら、ちょっと不適当すぎる装備だったと言えるだろう。ましてそこを走り回って戦うなどとなれば。
これまでは身体能力の高さで補ってはいたが、だからと言って気を抜けばこうもなる。
反省しないと。……といっても、そんな場合ではない。
バランスを崩した私めがけて、乾いた大気を裂き、凄まじい勢いで触手が叩きつけられてきたのだから。
あ、ちょっとやばい。
ぴく、と頬が引きつる。剣で薙ぎ払うとして、崩れた体勢からだが、間に合うか?
一瞬、触手の巨大な一撃がゆっくりとスローモーに目に映って。
そして次の瞬間、その重厚な襲撃は多分、私の顔の前を通り過ぎていた。
「多分」というのは、私はその瞬間を見ていなかったからだ。
びったーん。
私は派手に足をすくわれて、顔面から砂に突っ込んでいたのである。
それと同時に思いっきり後方へ私の体は引きずられており、そのおかげで触手の攻撃から私は身を守ることができたわけだった。……顔面全部及び口の中まで思いっきり砂まみれになった有様と引き換えに。
「ぺっ! ぺぺっ! 何するのよ、キュリエナ!」
涙目になって口の中の砂を吐き出しながら私は跳ね起き、後ろに向かって怒鳴りつける。
そう、私の足首にはキュリエナの鞭が巻き付いている。それが私をひっくり返して、頭から砂に突っ込ませたのだ。
「えー、助けてあげたのに怒られるのって、傷つくなー。まあ、そのおかげであなたの可愛い下着もしっかり見られたから、差し引きで得したってことにしちゃおうかしら、うふふ」
「なっ……!?」
私は慌てて自分の恰好を見直す。うん、ミニスカがぺろんとめくれて、下着が丸出しだった。
ブーツもだけど、今更ながら私のこの格好、たいがい登攀者を舐めてるって怒られても仕方ないかも。
真っ赤になってキュリエナを睨みつけながら、私はそれでも一応礼を吐き捨てる。
「……お礼は言うわよ、仕方ない。それにしても、何で助けてくれたのよ」
「なんでって? ……ひょいっと」
不思議そうな顔になって、キュリエナは首を傾げる。傾げながら、今度は自分に向かってきた触手の攻撃をひらりとかわす。
余所見をしながらも、やはり彼女の身の軽さは恐るべきものだ。
白昼の強い光の中なのに、いやそんな明るさの中だからこそ。
ほとんど裸身に近いキュリエナの褐色の肉体は、魅惑的に、そして淫靡に躍動している。
つい先ほど、その蕩けそうな肉体を抱きしめたのだ、と私は想起し、少し顔が赤くなったけれど、慌ててそんな妄念を振り払った。
「私を見捨てていればあなたの仕事は成功したでしょう。だから何で助けたのよ、って、と!」
今度攻撃を向けられたのは私。だが何度も先ほどのようなへまはしない。注意深く身構えていた私は、陽炎を振りかぶりざま、半身になりつつ触手を斬り裂いた。
眩い陽光を浴びて、触手型守護獣の体液がぎらつきながら振り撒かれ、熱砂に落ちてじゅうと泡立つ。
巨大な触手を両断するというところまではいかなかったが、相手もやや警戒したらしい。僅かに距離を取り、様子をうかがっているようだ。
「だって、私の仕事はラツキを失敗させることであって、殺すことじゃないもの。そりゃ、助けるでしょ?」
「……変な理屈ね」
くすくすと笑みを漏らすキュリエナに並び立ちながら、私は呆れて零す。
こんな面倒な怪物と戦うように私を巻き込んだのは、他ならぬキュリエナなのに。
ほんと、彼女って、自分の中の独特の理屈とルールにのみ従って……いや、もしかしたらそれすらも時として破りつつ、自由気ままに動いている子だと改めて思う。
だが、思いを馳せる間はない。
触手は一拍の間の後、猛然と海を割って襲い来るサメのように、砂塵を蹴立てて私たちの方へと突進を開始した。
陽炎と不知火を鷹の羽に構える私の隣で、キュリエナは己の鞭を虚空に大きく円を描くように振り回し始めた。
この鞭をどのように使うつもりなのか、とちらりと見た私の目に、映る。
キュリエナの鞭全体がぼうっと朧に発光していく様が。
(……魔法……!?)
私自身は魔法を使えないが、アンジェが魔法を使用している姿は何度となく見ている。キュリエナの鞭に宿った神々しい光は、アンジェが魔法を発動する時のそれに似ているように思えた。
もっとも、キュリエナの鞭が纏う光量自体は、アンジェの使用する魔法が放つそれには及ばない。
だがその代わり、ひゅんひゅんと空を斬り裂いて唸る鞭が輝きを放つ姿は、畏怖すべき迫力を有してもいた。
「せーの、えいっ」
キュリエナの、何とも気が抜けるような、のんびりした気勢。だがその言葉とは裏腹に、魔法の光を宿した鞭は戦慄に相応しい凄絶な勢いをもって、触手型守護獣を迎撃していた。
パン、と何かが破裂するような鋭い音が走る。音速の壁を越えた鞭の先端が生み出す衝撃波。その鞭自体の威力に魔法の効果が加わって、キュリエナの鞭は軽々と守護獣の硬い外殻を引き裂いていた。
魔法鞭、とでもいうのだろうか。
私はユーゼルクの持つ魔法剣・殲煌雷刃を思い出していた。あの剣は、一定時間魔力をチャージした後に、大威力の魔法の一撃を打ち出すものだった。
キュリエナの鞭の場合は、魔法にそれほどの威力はない代わりに、常に魔力を宿らせて、通常時の攻撃力を全体的に底上げするタイプのものか。
「うふふ、もういっかーい」
楽しげに頭上で鞭をくるくると回すキュリエナ。その鞭が空中で円弧を描き、魔法の光が一つにつながって光輪を作り出す。
と見えた瞬間、キュリエナは鞭を大きく振るった。
一閃――
鞭の回転によって生成されていた魔法の光輪は、キュリエナが鞭を振りぬいた刹那、飛刃と化して空を裂いた。
まるでブーメラン……いや、チャクラムか。魔法の円刃はそのまま敵を目指して一直線に飛翔し、触手型守護獣を滑らかに斬り裂く。
私は瞠目する。キュリエナの魔法鞭には、こんな使い方もあるのか。彼女自身と同じように、千に変じ万に化し、機に臨み変に応じて、多種多様な攻撃を行う。まさにキュリエナに相応しい武器なのかもしれない。
「ラツキー、あとお願いねー」
くすりと笑んだキュリエナに促されて、私も走り出す。キュリエナに大きく傷つけられて守護獣は明確によろめき、その勢いを減じていた。
もはや術も技も必要とはしない状態だ。陽炎と不知火を振りかざし、私は無造作に砂塵を蹴って宙に舞う。そのまま回転しつつ、両撃。
くるんと体制を整えて着地した背後では、守護獣の巨躯が間二つに切り離されて、大地に沈んでいた。
よし、これで片が付いた……
と思った時。
触手は大きくびくんと跳ねて、再び動き始めたのだ。
え、嘘!? 真っ二つにしたんだよ!?
あの「淀み」のように、再生とか回復したわけでもない。上下真っ二つになった状態のままで動いていたのだ。斬り飛ばされた上半分の方はさすがにもう動かないが、下半分の方はまだじたばたと蠢いている。
なんだこれ。
って、悠長に驚いてはいられないか。触手は再び私たちの方へ向かって猛進を開始した。
いや、それだけではない。油断なく身構えていた私たちの左右両脇に、新たな襲撃者が砂を蹴上げて地底から現れたのだ。
それは、巨大な角のようなもの。いや、ハサミか。数mほどもあるような巨大な甲殻のハサミが砂の奥から現れ、私たちを挟みこもうと襲い掛かってきたのだった。
漆黒と白銀の長い髪をそれぞれ虚空に靡かせ、翻して、私とキュリエナはその攻撃から身をかわす。
ここに至って、ようやく私も、この守護獣の正体をおぼろげながら察する。
そうか、こいつは……。
「ご主人さまっ!」
その時、必死な声が私の耳に届き、私は思わず振り返った。
澄んだ美しいその声の主は、メイアだ。
彼女が、小さな体で、砂漠を懸命に駆けてくる。
私と一緒にいたら危ないから、わざわざ彼女と距離を取ったのに、どうして来たの!?
「メイア、駄目よ、向こう行ってなさい!」
慌てて身振り手振りも交えながら私も叫び返すが、メイアは聞かない。むしろ逆に、彼女の方が私を呼ぶように、声を上げて答えた。その表情は真剣そのもので、何らかの覚悟と意思を明確に備えていることが伝わってくる。
「こっち、こっちだよ、ご主人さま! こっちのほうに、その守護獣の……!」
メイアの水色の髪は熱風になぶられて吹き上がり、あの右目が光を放って煌めいていた。
常ならぬ力の流れを『波』として捉える力を持った『眼』が。
そのメイアが大きく手を回しながら、自分に近い砂漠のある一点を指す。
なるほど。そうか。
だが……と、私は周囲を見回す。
ここはまだ砂地だ。もう少し先へ行けば岩地に変わっているが。
そこまで行けば。
「キュリエナ! こっち来なさい!」
私は不知火を鞘に納めるとキュリエナの細い手首を握りしめ、強引に引っ張って走り出した。目指すは、少しでも岩地に近い場所。そんな私たちを追って、触手と巨大なハサミもまた砂煙を上げて追いすがる。
「やん、強引ね。こんな昼間から、こんな場所でお誘い? うふふ、それも悪くないけど」
「あなた、全力で……はあ、はあ、走りながら……はあ、よくそんなこと言えるわよね!」
いやまあ私もわざわざ突っ込まなければいいんだけどさ。体力の無駄遣いだし。
ともあれ、私たちが目指すのは、少しでも岩地に近い場所……つまり、少しでも砂の底が浅くなっている場所だ。
今は砂の底深く潜んでいても、砂が浅くなっているところまで引っ張り出せば、届くはず。
この巨大な守護獣に、だ。
そう、触手型の守護獣だと思っていたが、違う。
あの触手は、おそらく、ただの尻尾。だから真っ二つに切り離しても倒せなかったのだ。
そして、この二つの巨大なハサミ。それがこの守護獣の、おそらく両腕だ。
――私の脳裏に浮かんでいた姿は、巨大なサソリ。
そいつが、砂地の奥底深く潜みながら、私たちを襲っていたのだ。
メイアが示してくれたのは、多分その巨大な守護獣の急所。心臓という器官が守護獣にあるのかどうかはわからないけれど、とにかくその力の凝集する一点だ。
そこを貫けば。
そしてそのためには、この砂の荒海の浅瀬まで、相手を引きずり出す必要がある。
私は激走の途中でメイアをひょいと拾い、小脇に抱え上げると、そのまま全力で疾駆した。
後ろから追いすがる守護獣が砂を津波のように蹴立ててくる様子が、振り返らずとも手に取るようにわかる。
ぜーはー。うう、き、きつい。
メイアは小さな子だけど、それでも人一人抱えて、砂地をブーツで全力疾走、しかもこれまでにさんざん体力を削られた後に、燃え上がるような気候の中でそれをやらかしているわけだ。
スキルで強化された私の身体能力をもってしても、我ながらバカじゃないのと言いたくなるむちゃくちゃぶりよね、ほんと。
さすがにふらつき始め、私は限界を悟る。できれば岩場の上まで引っ張り出したかったが、これ以上は無理か。
立ち止まり、踵を返す。荒い息を吐きながら、周囲を見渡す。まだ砂地ではあるが、同時に、周囲には大きな岩棚が屹立している。砂が岩に対して自らの領土を主張しうるほぼ限界ラインというところか。
そこへ、まるで砂地自体を根底から持ち上げひっくり返すような勢いで、奴が迫る。
「メイア! 示して!」
メイアをその場に置きながら放ったのは、文章にもなっていない言葉。けれど、メイアはその意を正確に汲んでくれた。
「ご主人さまの前に五歩、右に三歩だよ!」
聞く前に私は跳んだ。聞きながら私は飛んだ。
前に五歩。右に三歩。そこに。
――奴の「心臓」がある。
「フレイムオーラっ!」
右手に陽炎を閃かせて、裂帛の気勢が熱い砂漠の風に乗る。
黄金の刃に滾る光は、聖・炎・光の三属性を同時に宿した、EXアイテムならではの超越の輝き。
その超常の閃光が、今こそ躊躇なく、砂漠のど真ん中に叩きつけられた。
砂塵の大瀑布が、大地から天へと向かってさかしまに迸る。
フレイムオーラがこじ開けたのは、守護獣の姿を深く覆い隠していた砂の鎧。それがまとめて吹き飛ばされ、相手の姿が露呈した。
純白に輝く外殻を有した、目を見張るほどに巨大なサソリの姿を。
守護獣も慌てたように何かしらの反応を示そうとした、しかし遅い。
私の剣はもう一本あるのだ。
「フリーズオーラっ!」
不知火は既に抜き放たれ、その漆黒の刃が放つ寒々とした剣閃を砂漠の大気の中に放っていた。
陽炎の撃ち出すフレイムオーラは聖・炎・光。
それに対し、不知火の纏うフリーズオーラの属性は妖・水・闇。
砂漠に覆われていたとはいえ、守護獣の硬い外殻にも、幾許かの先ほどのフレイムオーラの影響は届いていたはず。
今、その正反対の属性の一撃が、今度こそサソリの急所めがけて突き刺さり、そして――
容赦なく、爆散した。
KIIIIAAAAA!!!!!!!
大きくのけぞり、苦しげに足掻き、暴れる巨大な守護獣。
私はその背に乗った状態で、振り落とされないように不知火を刺し貫き続けるので精いっぱいだ。
まるでロデオみたい。脳味噌がいい具合にシェイクされて、舌も噛みそうだ。
本当なら今の一撃だけで綺麗に仕留めたかったが、さすがにメイアのアバウトな指示だけで、しかもこちらも相手も大きく動きまわっている状態で、なおかつ砂漠の奥に潜んだ敵の急所を寸分たがわず打ち抜くことはできなかった。
とはいえ、十分すぎるダメージは与えた。守護獣が晒しているのは既に断末魔の姿と言っていいだろう。
サソリの巨大な体躯は少しずつその動きを静めていき、そして、一度だけ大きくびくんと跳ねたかと思うと、そのままぐったりと動きを停止させた。
静かにぼうっと穏やかな光と化し、消えていく守護獣。
思えば、この守護獣もキュリエナに焚きつけられただけで、被害者だったな。ごめんね。
私は納刀しながら、胸のうちで少し謝る。
だがその時、後ろから掛かった声。
「ラツキ! 上っ!」
キュリエナの珍しく緊迫した声。振り返ると、メイアをちゃんとかばってくれていながら、キュリエナが虚空を指差している。私の頭上を。
見上げた先には。
屹立した岩棚が大きく揺らぎ、軋んで、今にも倒れ込もうとする光景があった。……私の真上から。
さっきからのフレイムオーラとフリーズオーラの連発。それに続いての巨大な守護獣の大暴れが、ただでさえ砂の上に乗っかっている不安定な岩の足元をぐらつかせたのだろうか。
この場から飛ぼうか、それとも落ち掛かってくる岩を斬ろうかとして、けれどどちらもできず、一瞬腰からへなへなと力が抜ける。
やばい、ちょっと色々頑張りすぎた。
キュリエナは今、メイアを抱きかかえてくれているから、さっきのように助けてくれることはできないだろう。
となると、……あれ? 私、詰んだ?
岩が落とす影で、目の前が真っ暗になる。
わあ。なんか、嫌な死に方だなあ。
とか、他人事のように思ったのは、あまりに身近に迫った自分の最期に、現実味がなかったからか。
……けれど。
一瞬暗くなった視界が、また不意にぱあっと明るく解放された。視界が広がり、光が差し込む。
判断が停止していた私の認識に、遅れて何種類かの音が届く。それぞれの順番はバラバラだ。私の意識がそれらを統一の情報として処理できなかったから。
私の頭上に落ち掛かっていた岩が砕け、粉微塵に散り行く音。
何か硬いものが、その岩にぶつかって、真っ向から破壊した音。
そして。
「どおおおおりゃああああああっ!!!! ですわーっ!!!!」
そんな、間抜けに聞こえるけれど、とても頼もしく愛おしい掛け声だった。
こん、と、小さな欠片が私の頭にぶつかって、私は我を取り戻す。
いや、小さな欠片って言っても、岩がある程度の勢いで落ちてきたんだから、相当なものだけど。たんこぶくらいで済んだのは、これもスキルで私の身体が強化されていたおかげかな。
だが、たんこぶごときを気になんかしていられなかった。
私が認識したのは、その掛け声の持ち主が、やや離れた距離から思いっきり、巨大な両手斧を投げつけ、私の頭をトマトのように潰しかけていた岩をぶち砕いてくれたという事実だったのだから。
「ご覧あそばせ! 距離! 角度! 力加減! すべては私の計算通り! これぞ我が輝ける知性の導きによる当然の結果ですわ!」
聞こえてくる誇らしげな声。
……あはは、何だか、泣いていいんだか笑っていいんだか、分かんないや。
ねえ、二人とも。私、どっちの反応すればいいのかな。
そんな声にならない問いかけを、私は、彼女たちに胸の中で向けていた。
砂煙を蹴立てて疾駆してくる、守護獣にまたがったアンジェとテュロンに。
「ご主人さま、お身体は!?」「ご主人さま、お怪我はありませんこと!?」「二人とも、大丈夫なの!?」
同じようなことを同じようなタイミングでお互いに急きこんで尋ねた私たちは、顔を見合わせて照れたように苦笑した。
うん。アンジェもテュロンも、平気みたいね。
もちろん、二人とも、砂埃と土埃にすっかり塗れてしまってはいるけれど。
でも、砂の汚れもアンジェの可憐で優艶な美しさを奪えはしていないし、テュロンの凛然とした端正なまなざしを曇らせもしてはいなかった。
良かった。……ほんと、良かった。
ホッとしすぎて、それだけでなんかもう倒れそうだ。
ほんとなら、今この場で二人を抱きしめ、口づけの雨を降らせたい。
けれど、もちろん、そんな時間はない。
「大したものね、ラツキ。私の打てる手はここまでで全部よ。もうおしまい。……でも、まだ私が失敗したわけじゃないけどね」
意味深げな笑みを浮かべてキュリエナが言う。もちろん、私だってわかっている。彼女の目的は、私の足止めだった。時間を稼げればよかったのだ。
だから、むしろ、キュリエナは成功している……ここまでは。
私は、ちらりと前方、もうすぐそこに見えている聖王の樹に目を向けた。
今のサソリとの戦いの間に、私より先に誰かが……。
「ええ、さっき見てたけど、一組、たどり着いたみたいだったわよ。多分、あの人たちでしょうけどね」
さらりと言ってくれるキュリエナに私は歯噛みして、慌ただしくメイアと共に守護獣にまたがった。
言われずともわかっている。おそらく、彼らだ。
彼らが、樹の頂に咲く花を摘み終えるまでに逆転しないと。
「頑張ってね、ラツキ。変な言い方だけど、応援もしてるわ、ほんとよ? 負けてもほしいけどね」
「あーはいはい。応援だけ受け取っとくわ。行くわよ、アンジェ、テュロン!」
適当に流し聞いて言い捨てる。今はキュリエナとの漫才をしている暇なんかない。
「はい、ご主人さま。ですがあの、ちょっとお尋ねしたいことが……」
「あとでね、アンジェ。今はとにかく聖王の樹へ急がないと!」
何か言いたげだったアンジェの言葉も、気が急いていた私は後回しにして、すぐに守護獣を走らせた。アンジェたちも後から続く。
岩場から小高い丘を駆けあがれば、そこはもう中央天移門。すなわちその傍らには聖王の樹がそびえている。
他者を威圧する威風堂々とした巨大な樹。1000年以上という年月を背景としたその圧倒的な存在感を前に、私は自分の矮小さを自覚せざるを得ない。
巨大な存在というものは、その大きさだけでも人に偉大性や神秘性を感じさせるものだ。まさにこの『塔』自体のように。
だが、この聖王の樹は、大きさに加えて、「生きている」という生命の迫力が、見る者に対して強い訴求力をもって迫ってくる。
……けれど、それほどに大きく偉大な樹が咲かせる花が、頂にたった一輪だけ、というのも、なんだか不思議な話よね。
だが、そんな感傷に浸る間を、私は与えられはしなかった。
丘の上に登った私たちの目に映ったのは、黄金の髪を煌めかせた逞しい男と、その仲間たちだったからだ。
人好きのする爽やかな微笑。自信に満ち溢れた輝く瞳。背に負う見事な魔法剣に相応しい悠然とした強者の雰囲気を纏わせるもの。
「……ユーゼルク」
私はきゅっと唇を噛んで、彼の名を口にした。
「やあ、ラツキ、やはり来たね。さすがだ、君が二番目だよ。本当に凄い人だな。だけど、僕たちの方が少しだけ早かったようだね」
振り返り、彼が微笑む。何の底意もないまっすぐなまなざしで。
彼の私に対する称賛も、そして自分の出した結果に対する自負も、すべて掛値のない事実だけを述べたもの。ユーゼルクは素直に私が二番目に到達したことを凄いと思ってくれた。そして素直に、だが自分たちの方が早かったと言った。ただそれだけなのだ。
私はたった今越えてきた砂漠の熱砂が胃の中に突っ込まれたような感覚を味わっていた。
見回せば、既にユーゼルクの仲間たちのうち、間士の老人・バートリーが、大樹に取り付き、見る間に高く登って行っている。その下に立って「詩」を奏でている吟遊詩人・エレインは、おそらくバートリーの身体能力をさらに向上させているのだろうか。
この間の「淀み」との戦いでもバートリーの驚くべき敏捷性は目にしていた。さらにそこへエレインの「詩」の力が加わって増幅されたところへ、今更私たちが追いすがって逆転できるのだろうか。
……いや、できるだろうか、ではない。やるしかないんだ。
私たちの中で最も身軽なのは私自身。疲労困憊状態なのは事実として認めざるを得ないけど、諦めるわけにはいかない。そうだ、私も、アンジェの風の力を借りて下から押してもらえば……。
「ご主人さま、あの……!」
またも口を開こうとしたアンジェに、私はつい、後にして、と声を尖らせそうになって、けれど。危ういところではっと我に返った。
今が一瞬を争う事態だということはもちろんアンジェだってわかっている。彼女は私なんかより賢い子なんだから。
そしてその上でなお、アンジェが何かを言いたいのなら、それはおそらく、今言わなければならないほどに重要で大切なことなのだ。
「アンジェ、どうしたの?」
わかっていても気持ちは焦る。焦るけれど、懸命に自制しながら、私はアンジェに振り向いた。
「はい。先ほど、砂嵐に巻き込まれたときに、助けてくださった女性がいましたよね」
光輝く幻のような美女。いや、実際、幻だったのかもしれないけれど、いずれにせよ、アンジェにとてもよく似た容姿をしていた人だ。やはり、私たちだけではなく、アンジェたちも目にしていたのか。
あの美女は、以前にも一度目にしている――私とアンジェが初めて塔に入った時のことだ。
もっとも、それ以来、彼女の姿を見掛けてはいなかったから、久しぶりの目撃だ。
初めて塔に入った時と、この10階層か。なんとなく、区切りになるようなときに出会っている感じではあるけど。
「その女性が、私に、伝えようとしていたことがあるように思うんです。……いえ、言葉ではないのですが、何か……考えというか、感覚が伝わってきたような」
概念伝達?
しかし、あの幻の美女は、私に対しては特にそんなメッセージを伝えてきてはいなかったと思う。物問いたげにテュロンに目を遣ると、彼女もまた首を振る。
そうすると、アンジェに対してだけなのか。
「その人は、なんて?」
「はい、あの……おかしな言い方なのですが、お許しください。ご主人さまは、『魔法を斬る』ことがお出来になりますか?」
一瞬固まる。
できる。
できるかと問われれば、私はそれができる。
でも、なぜそれをアンジェが知っているのか。いや、アンジェにそれを教えたであろうその幻の女性が、か。
私はこの世界に来ることになって自分自身をデザインしたときに、純粋な戦士型を選んだ。
しかし、魔法が存在する世界である以上、魔法への対抗策も用意しておく必要がある。
その対策として、私は自分の二振りの剣にそれぞれ、魔法を排斥する能力を付与してある。そのことは、以前にも述べたことがあったと思う。
漆黒の魔剣・不知火に付与した能力は、この間、「淀み」との戦いで使ったものだ。撃たれた魔法を反射する能力。それによって私はユーゼルクの撃った雷撃を反射し、「淀み」を両面焼きにしてやったわけだった。
一方、もちろんその対になる金色の聖剣・陽炎にも魔法に対抗する能力を付与してある。
それが――魔法斬断。
文字通り、『魔法を斬る』能力だ。
だが、幸いにしてというべきか、この世界に来てからは、少なくとも今のところ、それらの能力を使う機会には巡り合わなかった。
私も必要以上に自分の能力を語ることはない、というかむしろ秘匿しておきたいわけだから、アンジェでさえも、この陽炎の魔法斬断の能力のことは知らなかったはずだ。
「……できる、けど。それが?」
私は内心の動揺を押し隠しながらアンジェに早口で尋ねた。大事なことだろうというのはわかっているが、のんびりもしていられない。
「はい。でしたら……」
対して、アンジェは一途な瞳を私に向けて。そして何の迷いもためらいもなく、言い切った。
「そのお力で、私を斬ってください」
「なっ……!?」
私だけではない。テュロンもメイアも、異口同音に潰れたような声を口から漏らした。
当の本人であるアンジェ以外は。
「ア、アンジェ!?」
「私ではなく、私の中の何かを。ご主人さまならそれがお出来になる……はずです」
「で、でも」
私の口中が乾いて舌が張り付くのは、乾いた砂漠を越えてきたからだけではないだろう。
「それを、あの幻が言ったの? たかが幻の言ったことよ? それを本気にするの?」
「でも、あの女性がご主人さまや私たちを助けてくれたのは、事実です」
「そ、それはそうだけど」
私は口ごもる。確かに、砂嵐から助けてくれたという客観的な事実がある以上、あの幻の女性の存在には何らかの裏付けがあるのだろうし、また私たちに対して一定の助力をしてくれる可能性も高いのかもしれないが……。
「あっ、そうか! アンジェさんの中に、何か大きな『波』を感じるとは思っていたんだ。でもそれは、ご主人さまに感じる『波』と似たようなものだったから、そういうものがあるのが普通なのかなって思ってた」
メイアがはっと思いついたように、右目を煌めかせた。
メイアの「眼」にも見える何かがあったということなのか。しかし、それが私と似たような性質のもの?それはいったい……。
「ご主人さま。時間がありません!」
凛とした口調と不動の視線が私を射抜く。これぞと決めたアンジェの意思を揺るがせることはできないと、私は知っている。
……それに、と、私はちらと聖王の樹に目を遣った。バートリーの姿はもう、高い樹の中頃まで到達している。今から追っても、もう逆転は不可能だろう。
何らかの手立てがまだ残っているかもしれないというのなら。
――私も、覚悟を決めるべきか。
私は無言でアンジェにしっかりと頷くと、陽炎を抜き放ち、彼女に向かって諸手上段に構えた。
「お、おい、ラツキ!? 何を……!?」
傍らにいたユーゼルクやミカエラも驚いて私に声を掛けてくる。人数制限に引っかかるから、あまり近くには寄ってこられないが。
っていうか、何をしようかなんて、私にだってよくわかんない。わかんないけど、私はアンジェを信じた。メイアの目を信じた。
陽炎の魔法斬断の力は、私も使うのは初めてだ。多分アンジェ本人にケガをさせることはないはず、……と見当は付けている。けれど、そう頭でわかっていても、彼女に対して刃を振り下ろすには半端じゃない勇気が必要だった。
「アンジェ! 行くわよ……っ!」
声を掛けるまでもなく、アンジェ自身はとっくに心を決めている。だから、むしろ私自身に対しての、それは決意を促す言葉だった。
黄金の刃が輝き、空を裂いて、振り下ろされる。
まっすぐに、アンジェに向かって。
手応えは、あった。しかしそれは、物質を斬り裂いた時の感覚とは異なっていた。
『波』、とメイアはよく表現する。そのように、水か、あるいは空気の渦に刃が一瞬絡まり、そしてそれが、すっと解けて消えていくような。
そんな心地よささえ知覚できるような刃の手重りが、あった。
陽炎の刃はあっけないほどに軽々とアンジェの頭頂から入り込み、滑らかにその美しい身体を通り過ぎ、そして抜けた。
あとに残ったアンジェの体にも、いや衣服にも、傷一つついてはいない。
一瞬、今の私の行為は、それ自体が幻か思い込みだったのではと思うほど。
だが。
アンジェの表情が変わった。
何かを体内で感じ、それに戸惑っているように。
苦しそうではなく、むしろそれは、どこか陶然とし、美しく華麗な印象を与えるものだった。
息を飲む私たちの目の前で、アンジェは小さく声を漏らすと、身をかがめた。
その背から、彼女がいつも魔法を行使する時に現出させる光翅が現れる。
だが、その翅は、常のような大きさでも、長さでも、また輝きでもなかった。
アンジェの身の丈を上回るほどの長大な翅――それが目も眩むほどの虹色の輝きを放って、彼女の背から伸び、羽ばたいていたのだ。
翅というよりも……そう、それは、花弁。花が今しも満開に咲き誇るような。
まるで天上の花が咲き零れるような美しさと神々しさが、その光翅から溢れだし、私たちから言葉を奪う。
そして、その光の花が次第に収束していくと、そこには一筋の虹色の輝きだけが宙に浮かび、漂いながら残っていた。
ふわりと、その一条の光はアンジェの手元に降り立って行き、彼女の掌中に収まる。
アンジェは、何の違和感もないように、その光を掴んだ。
そうするのが当たり前であるように。そうなることをあらかじめ知っていたかのように。
アンジェの手中に、光が宿る。
まるで、一本の剣のように。
光の、剣。
そうだ、アンジェだけではない。私たちは皆、その剣の存在を知っていたはずではなかったか。
アンジェが狙われていた、それがそもそもの理由だったのだから。
――光芒剣。
聖王アンジェリカの遺した伝説の剣が、今、アンジェの手の中にあったのだ。
12月中は大幅に更新ペースが乱れ、申し訳ありませんでした。
1月からはまた徐々に以前のような更新頻度に戻していきたいと思います。
2016年も本作をどうぞよろしくお願いいたします。




