10階層と新生活
銀鱗が無機質な光を跳ねて煌めく。
その美しさとは相反する、殺意に満ちた勢いで強襲してきた牙を、私は飛び退いて回避した。
眼前を一陣の風のように通り過ぎる白銀の脅威。それは、巨大な蛇。
私たちは今、『塔』の第九階層に挑んでいる。環境は大湿地帯。
ぬかるむ泥に苦心しながら行程を進み、もうすぐそこに、この階層の目標地点である中央天移門が見える、というところまで到達している。しかし、そんな私たちを遮って立ちはだかったのが、この大蛇型の「守護獣」だった。
前の世界の感覚で言えば、その体長は7から8メートルほどにもなるだろうか。胴回りは二抱え以上もあるように見え、その巨大さと素早さ、そして襲い来る牙の鋭さは、確かに恐るべき相手だ。
……なのだけど。
私たちがこの間のイェンデ伯爵夫人の事件で戦った「淀み」に比べれば、まあ正直、それほどのこともない。私だけではなく、アンジェもテュロンも、その表情には、緊張はあっても恐れはさほどなかった。
もちろん、油断や慢心は禁物だけど。
実際、頭を狙えば尾で反撃し、尾部を抑えれば頭部で襲い、胴を打てば頭部と尾部の双方で狙ってくる――いわゆる「常山の蛇」的な技巧的な戦闘を行ってくるこの大蛇が、相当の曲者なのは事実だ。
ま、だからこそ、私たちとしては狙い目もあるんだけどね。
SYHUUUUU……!!
距離を取った私たちに対し、銀の大蛇が紅の眼を爛々と輝かせ、威圧的に息を吐く。剥き出した牙の間から、二股の赤い舌がチロチロと蠢き、間合いを測っていた。
張り詰めた空気が私たちと大蛇の間に流れた、次の一瞬。
ほとんど私の身の丈ほどにもなろうというほどに大口を開け、大蛇が突進を開始した。
しかし同時、大蛇の目の前に泥の壁がそそり立つ。アンジェの風が巻き起こした泥濘の滝が、まともに大蛇に降り注いだのだ。
無論、泥を浴びせられたところで、大蛇が何の痛痒も感じることはないだろう。だが感覚器官のすべてを一瞬封じられた大蛇は怯み、動きが鈍る。
その隙を突き、私が大きく回り込む。狙いは大蛇の胴体だ。
胴柄のど真ん中に振りかざした陽炎と不知火を叩きつけ、鱗と血飛沫が飛び散った。
大蛇は苦悶の声を上げ、尾をもって私を薙ぎ払おうとする。パターン通りだ。 そこへ躍り込んだテュロンが、大斧を一閃。尾の先端を見事に両断した。
アンジェが相手の目などの感覚器を封じ、私かテュロンがとどめを刺す、というのは私たちの良く使う、決まりパターンの一つだ。だから、本来ならすでに、私あるいはテュロンの一手で勝負はついている。
だが、今回はそうしなかった。私もテュロンも、あえて決定的な一撃は与えなかったのだ。
大蛇は最後に残った武器である頭部をもたげ、苦し紛れに、真正面にいるアンジェに向かって突き進もうとした。
だがその時すでに、アンジェの周囲には二つの魔力球が浮かぶ。それも、風の魔力球が二つ。
これまでは、アンジェは一属性につき一種の魔法しか使えなかった。
だが、あの『淀み』との戦いは、アンジェに多大な成長を促してくれていたのだ。
テュロンもそうだけれど、彼女たちに付与しているEXスキル『ラーニング・エンハンス』の成長力向上効果は大したものね。
「風の乙女たちよ――!」
凛としたアンジェの声が響く。その玉貌には決意、手に構えるは杖。
アンジェの詠唱と共に巻き起こった風は――
二つの方向から同時に唸った。まったく正反対の逆方向から同時に二つの風が。
それは、大蛇の背後から吹き付けた烈風と、アンジェ自身の背中から声を上げた疾風。
大蛇は己の背後を凄まじい風で押され、バランスと間合いを狂わされた。自分が襲い行こうとした方向そのものに押されたため、かえって抵抗ができずに。
一方、アンジェは己の風を己の背で受け、まるで風に乗るように宙空を飛んでいた。
風に押された大蛇と、風に乗って飛翔したアンジェが、中間地点で激しくぶつかる。
二つの突進力と二つの風。そのすべての威力を籠められて、アンジェの杖は、深々と大蛇の目を貫き通していた。手元まで通れとばかりに。
魔法主体で戦うことが多いが、アンジェは刺突剣の技能も有している。その手練は確かなものだった。
SYHUUUUUUUU!!!
鎌首を擡げ、目に杖を突き立てたまま、大蛇はのたうち、暴れる。
だがそれもつかの間、やがて大蛇の動きは鈍くなり、力なく泥の中に沈んだ。
光に包まれ、大蛇が静かに消えていく。ぽちゃん、と、アンジェの杖だけが泥に落ちて、小さな寂しい音を立てた。
「アンジェ、やったわね」
「お見事でしたわ、アンジェ」
駆け寄ってきた私とテュロンがそれぞれ声を掛ける。アンジェは泥にまみれた杖を拾い、その場に寂然と佇んでいた。寂しさと追憶が入り混じった、微かな笑顔を浮かべて。
「……お兄様……」
アンジェの小さな声がその唇から、空虚な響きを伴って漏れる。が、アンジェはようやく我に帰ったように、私たちに向き直り、深く頭を下げた。
「ご主人さま、それにテュロン。わがままを申し上げて、申し訳ありませんでした」
「いいのよ。大切なあなたのためですもの」
そう、この第9階層の最後に待つ守護獣。言い換えれば、第10階層への最後の障壁である守護獣。それを自らの手で倒したい、というのは、アンジェの希望だった。控えめな口調だが断固とした意志を感じさせる声で、彼女はそれを願ったのだ。
――亡くなったアンジェのお兄さんもまた、登攀者だった。彼は窮乏する家を支えるために塔へ登ったのだったが、あと一歩で10階層に到達できる、というところで命を落とした。そのことは、以前アンジェから聞いている通りだし、テュロンもそれを教えられている。
つまり、この第9階層の、そしてこの守護獣は、アンジェのお兄さんの前に、最後の最後に立ちはだかった相手だったのだ。
もちろん、今倒した守護獣が、個体としてのアンジェのお兄さんの仇だというわけではない。
何年も前の話だし、その時から今まで、数多くの登攀者がこの第9階層を通過しており、何体もの守護獣が倒されているはずだ。だから、
「敵を討つとか、そういう気持ちではないんです。憎悪とか、そういう感情でもありません。ただ――兄は、無念だっただろうと。その無念を晴らしてあげたいと思うだけです。お兄様の届かなかった場所には、私が代わってたどり着きましたと……そう、兄に言いたいだけなんです」
前夜、アンジェは静かにそう言い、私たちは彼女の気持ちを受け入れたのだった。
まあ正直、前衛ではないアンジェに前に出てもらうのは、ちょっと心配ではあったのだけど。
でも、伯爵夫人の事件で、私はアンジェとテュロンの主であるということ……人の上に立つものとしての意味を考え直させられた。もちろん、だからと言って具体的にどうすればいいかなんてわからないけど。前の世界の会社でもそんな上の立場じゃなかったし。……くそぅ。
けれど、とにかく、この子たちのいい主人でありたい。いい主人になれるようにしよう。そういう決意は新たにしていたから、私は、アンジェの申し出を了承したのだった。
「本当にありがとうございました、ご主人さま。私、自分の中で重く引っかかっていたものが晴れました。……ご主人さまの元へ来ることができて、私、幸せです」
煌めく黄金の瞳は私をまっすぐに見つめ、その光の中には潤んだものが混じっていた。
思わずアンジェをぎゅっと抱きしめようとして――けれど、私は自分たちの格好に気づく。
……泥んこだ。
この大湿地帯を抜けてきたんだから仕方ないけど。プレデターに出会っても見つからないくらいに泥んこ……いやまあそれは言い過ぎだとしても。
「……早く体洗いたいわね」
苦笑した私に、アンジェとテュロンもくすりと笑って頷いた。
「でもご主人さま、10階層の光景を見るだけでも見ておきたいですわ。一つの区切りですし」
テュロンが目の前の天移門を見て言う。ここからすぐに地上に帰ることもできるけれど、確かに一度10階層に上がってからでもいいかな。
アンジェも否やはなさそうだったので、私たちは天移門の上に上り、青く輝く光の奔流の中に身を浸した。
転移はすぐに完了。私たちは一歩踏み出し、周囲を見渡す。
そこに広がっていたのは、広大な荒野だった。
乾いた大地と吹きすさぶ砂塵。牙のようにあちこちに屹立する岩山と、深く抉られた渓谷。透き通った光を放つ水晶柱も点在しているが、あれは何だろう。
遠くあちらこちらに、牛のような姿、あるいは馬のような形の守護獣がのんびりと歩いているのが見える。この階層の守護獣はあまり好戦的ではないのだろうか。
――これが、10階層。
この10階層あたりから、守護獣が聖遺物を落とす確率が増え始め、徐々に、聖殿の補助金などなくとも、生計が建てられるようになっていくという。つまり、駆け出しを卒業し、一人前の登攀者としてのスタートライン。それがこの10階層だ。
ついにここまで来た、ともいえるし、まだスタートラインに立ったばかり、という感もある。
私たちは思い思いの感慨を胸にし、しばらく風に吹かれてその赤茶けた景色を見つめていた。
「……あれが、話に聞く『聖王の樹』でしょうかしら」
テュロンが指さす先を見つめると、この10階層の端からでもうっすら見えるほどに巨大な樹が瞳に映った。ゆ、有名なのかな。あとで検索スキルで調べておこう。
……聖王の樹、か。名前からして、聖王アンジェリカに何か関係があるんだろうな。
アンジェと聖王アンジェリカの関わりについても、そのうちちゃんと調べておかないといけないなあ。
私はちらりと、アンジェの横顔を見た。泥に汚れていてもなお輝くばかりに美しいその横顔に、私は改めて、しばし見惚れていた。
「じゃあみんな、ここまでお疲れさま! これからもよろしくね!」
「おめでとうございます、ご主人さま!」
「おめでとうございますわ! ですが、もちろんまだまだこれから、ですわね」
「すごいですよ、ラツキさん!」
「おめでとうございます、ラツキ様」
かしゃん、と高い綺麗な音を立てて、盃が打ち合わされる。
私たちが10階層に到達したことを祝って、ささやかながらホームパーティが開かれていた。
この場にいるのは、私とアンジェ、テュロンの他に、ラフィーネさんとリアンディート。
ラフィーネさんとリアンディートはそれぞれの事情で今は忙しいのだけれど、そんな中でも私たちを祝うために駆けつけてくれたのは嬉しいことだった。
「でもラツキさん、惜しかったですねー。5か月での10階層到達はすごいですけど、もう少しで新記録だったのに」
ラフィーネさんの言葉に、テュロンがこくんと頷く。
「私の輝ける知性によれば、最速の10階層到達記録はあのユーゼルク様たちの『殲煌雷刃』隊でしたわね。確か、4か月半。今一歩でしたのに」
「まあ、あんまり無理して怪我してもつまらないしね。十分早いんだし、いいじゃない」
私は肩をすくめてその話題を受け流す。
実際、『ソーシャル・リサーチ』のスキルで、私もユーゼルクたちのその記録は知っていた。「だから遅らせた」のだ。
ムキになってペースを上げれば、あるいはユーゼルクたちの記録に並び、超えることもできたかもしれない。だが、私はそうしたくなかった。目立ちたくなかったのだ。
正体を知られることが、即、死につながる私としては、過剰に人目に立つことを極力避けたいという気持ちがある。ただでさえかなり速いペースで登っているのに、ましてや新記録なんて出したら、注目されるどころの話ではないだろう。
「確かに、ラツキ様たちの登攀の早さは素晴らしいものですしね。今年の「聖花の摘み手」になれるかもしれませんよ」
リアンディートがにこりと微笑みながら言う。
「聖花の摘み手」。それは、あの10階層に聳え立つ巨大な樹、「聖王の樹」に関わる話だというのは、私もすでに検索して情報を得ていた。
あの「聖王の樹」は、一年にたった一度だけ、美しい大輪の花を咲かせる。これを採取し、聖殿に献納することは、登攀者として非常に名誉なことなのだという。
いつしか、「摘み手」となる栄誉をめぐって、登攀者の間では激しい競争が行われるようになっていった。そして、その「摘み手」争いは、登攀者のみならず、今では一般の聖都の人々にとっても関心の高い一大イベントになっているのだそうだ。賭けの対象にもなり、大金が動くともいう。
「なれたらいいけど、10階層に上がれたばかりですもの。あまり無理をする気はないわ」
だが私はあっさりと否定する。理由は、先程と同じ。そんな大イベントに参加して目立ちたくないからだ。私の答えに、ラフィーネさんが大袈裟に天井を仰いで嘆息する。
「えー。参加しないんですか? 私、絶対ラツキさんに賭けたのに。そしたらきっと、すごく儲かったのに」
「……相変わらず俗人丸出しですね。ラフィーネさん」
呆れた私に、リアンディートもくすくすと笑う。
「でも、私もラツキ様に賭けたかもしれませんよ。きっとラツキ様ならいいところまで行けたと思います」
「ありがとう。……でもリアンディート。もう、「様」付けはしなくていいのよ? 今のあなたは自由民なんだし……って、私も呼び捨てにしちゃってるわね、リアンディートさん」
「そういえば……そうでした。なかなかまだ慣れなくて、ラツキさん。でも、口調はそのままでいいですよ」
私のツッコミにリアンディートは口を押えて苦笑した。そう、今のリアンディートは奴隷身分ではないのだ。
あの事件があってから、一か月と少し。
イェンデ伯爵夫人はリアンディートを奴隷身分から解放し、ウィジィくんと二人、正式に養子として迎え入れていた。
今のリアンディートは、義娘として夫人の世話をしつつ、義姉としてウィジィくんに勉強を教えながら穏やかに暮らしている。
伯爵夫人の心に与えられた衝撃は大きく、また罪の意識もあって、まだなかなか立ち直ることはできないでいるようだ。食も進まず、やつれてしまっているという。しかし、リアンディートとウィジィくんの優しさに抱かれて、少しずつでも快方に向かってくれることを祈りたいと思う。
そしてもう一つ、あの事件の後に大きく変わったことがある。
このパーティをしている場所。それは今私たちが暮らしている場所なのだが、もう、聖殿の客殿ではない。
実はここは、伯爵夫人の別宅なのだ。あの事件が起きた場所。
そこが、今、私たちの住まいになっている。
私たちが家を探しているということから、夫人が格安でこの別宅を貸してくれることになったのである。賃料は一か月で銀貨一枚。客殿は一日銀貨五枚だったことを考えると破格の安さね。
夫人の、私たちへの感謝とお詫びのしるしだということだったが、ありがたくその申し出を受けさせてもらった。
あの戦いが繰り広げられた大洞窟も地下にあるわけだが、今はひっそりと静まり返っており、あの「淀み」の感覚を察知できる私からしても、今はもう特に異常は感じ取れなかった。この洞窟そのもの自体は、「淀み」と関係があるわけではなかった、ということだろう。
この別宅は、夫人が聖都に赴いて『秘法』の儀式を行おうと考えていた時に見つけたものだという。しかし、今から考えてみると、この物件を見つけたことも、あの謎の声の者たちの仕込みだったのではないか、と夫人は言っていた。
確かに、大掛かりな儀式を行うのにちょうどいい広大さと、人目につかないロケーション、また「淀み」を呼び出したのちに戦闘になっても問題がない、という条件が巧く満たされる場所なんて、そうそう見つかるものではないだろう。
そう考えると、この場所もやはり、あの声の主たちが夫人を誘導して見出させたと考えることが自然かもしれない。
……あの戦いの後、ユーゼルクたちから聞いた。彼らの仲間、バートリーとルーフェンが、私たちと同じく伯爵夫人について調査していた時に、その動きを牽制するものに出会ったのだそうだ。
そのものの容姿は、黒衣で身を固めた聖務官のようだったと。
――聖務官、か。
私は、そっとラフィーネさんの様子をうかがう。
今は賑やかに、楽しそうに、ラフィーネさんはみんなとおしゃべりをしているけれど。
あの事件の後、ラフィーネさんとはゆっくり話をする機会を持てなかった。彼女は間近に迫る聖王祭の準備で忙しく、また私たちも、塔への登攀と引っ越しの準備などで忙殺されていたから。
たまに聖殿内でばったり出会って、少しの間立ち話をすることができる程度だった。
……だから。ずっと、気にはなっていたのだ。ラフィーネさんがあの事実を自分の中で受け止めきれているかどうか。
――彼女が真摯に誠実に向き合ってきた聖殿が、世界を守るためとはいえ、人を犠牲にして顧みない行為を行っているという事実を。
「あ、すいません、ちょっとお化粧直しに」
ラフィーネさんが中座した後、少し時間を見計らって、私もさりげなく席を立った。
部屋を出て廊下を少し行くと、ちょうどラフィーネさんが戻ってくるところ。
「あ、ラツキさんもお化粧直しですか?」
朗らかに声を掛けてくるラフィーネさんを見つめ、私はそっと声を掛けた。
「ラフィーネさん……大丈夫ですか」
「何がですか? まだまだお食事はいっぱい食べられますよ? 私の胃袋を侮ってもらっては困りますね」
笑いながらポンとおなかを叩くラフィーネさん。
だけどなんだかその笑い声が痛々しく感じ、私は逆に辛くなる。無理をした精いっぱいのカラ元気が透けて見えてしまうから。
「……心配くらいは、させてくれると嬉しいです、ラフィーネさん」
ぽつりとつぶやいた私の言葉に、ラフィーネさんは少し黙り込み、そしてうつむいた。
さらり、と、ラフィーネさんの真紅の髪が揺れて、力なげに流れ落ちる。彼女がつけた仮面が、濃い影をその顔に落としていた。
「あの事、ですか。……そうですね。……ちょっと、衝撃、でした」
一言一言、区切るように、ラフィーネさんは言葉を漏らす。
その声には、苦しさと寂しさが入り混じっていた。
「まあ、落ち着いて考えれば、必要なことだっていうのはわかるんです。わかるんですけどね。……わかっていいのかな。……わかりたくないな」
最後の言葉は、少し震えていた。
彼女の中の理想像としての輝かしい聖殿。
事実としての、黒い部分もあった聖殿。
その二つの姿がラフィーネさんの中でせめぎ合い、彼女の心を内側から蝕み、苛んでいる。
単純に、裏で悪事が行われていた、というだけなら、むしろ楽だったかもしれない。
けれど、悪事ではない。ラフィーネさん自身も言っているように、それは必要なことであり、世界のためであり、人のためになることなのだ。だからこそ、余計に苦しいのだろう。
「ラフィーネさん。……私には、何かを言う資格はないのかもしれませんけど」
私は、かみしめるように静かに、言葉を紡ぐ。
「理解できても、納得できないというなら、その感覚を大切にしてほしいです。まったく理解を拒むほど頑迷ではなく、けれど自分を無理やり納得させるほど流されもせずに。理解しつつ疑問を持ち続ける、そんなラフィーネさんでいてほしいです」
それは半分、自分へ向けた言葉でもあったかもしれない。前の世界で、私はそんな自分ではいられなかった。現実を諦めて、ただ無為に自分を押し流していた。その後悔が、ある。
だからこそ、ラフィーネさんには、そんなかつての私のような後悔をしてほしくないと。難しいことを押し付けているだけなのかもしれないけれど。
ラフィーネさんは、ゆっくりと顔を上げた。軽く小首を傾げて、私の顔を覗き込む。彼女は仮面をつけているから、その表情はわからないけれど、なんだか不思議なものを見るような仕草に、私には思えた。
「な、なんですか?」
思わずたじろいだ私に、ラフィーネさんは、ちょっとだけ笑いかけた。微かではあったが、今度は、虚ろではない、本当の笑顔。
「ラツキさんって、本当に私より年下なんですか? なんだか、時々、すごくお姉さんに思えちゃいます」
うっ。
そ、それはまあ、私の中の人はアラサーなんだけど。「すごく」って程かなあ。ラフィーネさんが大体20歳くらいでしょ。だから私との年齢差は……
……考えるのやめよう。でも、前にもテュロンやアンジェに言われたけど、そんなに私の言動、年取って見えるのかしら。うう。
「私ね、年上の女性にちょっと弱かったりするんですよ」
ラフィーネさんは、くすりと笑って続ける。
「……姉がいましてね。優しくて大好きな姉でした。その面影を、ちょっと重ねちゃうのかもしれませんね」
少し遠くへ語り掛けるような声だった。
過去形。その意味を深く問おうとは思わないけれど。
「……はあ。少しだけすっきりしました。ありがとうございます、ラツキさん。自分の中で、ちゃんと考えていきますね」
いつもの快活なラフィーネさんの声に、ちょっとだけだけれど、近づいたような声。少なくともその響きには、先程までの、無理をした痛々しい明るさはなかった。
「何か愚痴言いたくなったら、いつでも来てくださいね、ラフィーネさん。ただし、お菓子とかお土産は忘れずに」
「えっ、そこは慰めてくれるために、ラツキさんの方がお菓子を用意してくれるものじゃないんですか?」
顔を見合わせ、私とラフィーネさんは揃って笑い出す。
そのまま、ラフィーネさんは、そっと私に近づいた。
ふわりと顔が寄せられ、囁くような声が耳元に届く。吐息さえ感じられるような距離。
「――ラツキさん。私……アンジェリカさんとテュロンさんが羨ましいな」
僅かに艶めかしい、とろりとした響き。それに驚いて、私は目を見開く。
「……ど、どういう意味ですか?」
「さあ。どういう意味でしょうね。ふふ」
軽やかな笑い声だけ残して、ラフィーネさんは身を翻し、またみんなの待つ部屋へと戻っていった。
茫然とした私だけがそこに取り残される。
なぜか頬が熱く火照っているのを、私はようやく自覚していた。
ラフィーネさんは聖王祭の準備が。そしてリアンディートは伯爵夫人とウィジィくんのお世話がある。だから、二人とも、それほど長居はしていられない。
夕方くらいまで楽しくおしゃべりしたり遊んだりして、充実したひとときを過ごしたけれど、もうそろそろ時間だ。
このお屋敷は、聖都の中央地域、つまり塔や聖殿のある所からは少し離れているので、距離的な意味でも早めに解散しなければならない。その点だけは、ちょっと不便になっちゃったかな。贅沢な話だけどね。
それでも名残り惜しいので、私とアンジェ、テュロンは、ラフィーネさんとリアンディートを送りつつ、自分たちも一緒に出掛けることにした。
都心部まで尽きない話の続きを繰り広げながら連れ立って歩いて行ったけれど、話ながらだと、すぐに着いちゃうものね。この間の事件の時、お屋敷まで駆けつけた際には、とても長く感じたものだったけど。
ラフィーネさんたちとさよならし、ついでにいくつかの買い物と、ここまで出てきたのだから早めの夕食も済ませてしまう。
私たちが帰宅の途に就いたのは、もう空に星が輝き始めた頃になっていた。
夜の澄んだ空気を感じながら、私たちはお屋敷に向かう。本道を逸れ、林の中に続く道をのんびり歩く。
この時間になれば、眠らない街・聖都と言えども、さすがに街はずれにはほとんど人気がなくなっている。
もうすぐお屋敷が見えてくる、というところまで来た時。
私たちの脚は、不意に、釘付けになったように停止した。
「ご主人さま、あちらを……!」
テュロンが硬い声を発する。
私たちの視野に入っていたのは、人影。
それも、林の中にぐったりと倒れ伏している人影だった。
お互いに顔を見合わせ、次の瞬間、弾かれたように私たちは駆け出す。
その倒れている相手の傍に走り寄り、覗き込んだ時、また別の意味で私の中に驚愕が走った。
……それは息を飲むほどに綺麗な男の子だった。美少年、ってホントに実在するんだ、なんて、変なことさえ考えてしまうほどの。
透き通った美しい空色のショートヘアだが、前髪の右側だけがさらりと流れて右目を覆っている。長い睫毛は震え、きゅっと結ばれた唇は微かに息を漏らしていたから、意識を失っているだけだろう。ほっそりとしてしなやかな体躯の胸元に、苦しげに手を添えて、彼は低く呻いていた。
「アンジェ、診てあげて」
「は、はい」
私は彼をそっと地面に横たえ直すと、アンジェに命じた。アンジェはこくんと頷き、苦しがっているらしい箇所を診るべく、服の胸元の紐をほどき、合わせ目を開ける。
――で、三度、私たちは驚かされることになった。
……その胸元は、微かに、しかし確かに、膨らんでいたのだ。
「彼」ではなく、「彼女」だったのか。
女の子のように綺麗な美少年、ではなく。
男の子のように端正な顔立ちの美少女、だったのだ。
そして、その白い胸元には、奴隷であることを示す誓刻が打たれていた。
といっても、正式なものではなく、まだ仮のもの。つまり、どこかの奴隷商から、買われる前に逃げてきた奴隷、ということだろうか。そのために、誓刻の苦痛が発生して、倒れていたのだろう。
私たちは言葉もなく、「彼女」を見つめる。
林の奥で、群れからはぐれたような夜鳥が一声、どこか寂しげに啼いていた。




