転移と天使
嫌悪と諦念と倦怠と。
私がその時感じたのは、まあそんなところだ。
結局、どこに行っても暴力沙汰はある。争いはある。諍いはある。当然の話であって、私も別に理想郷や桃源郷を夢見ていたわけではない。ただそれでも、「ああやっぱり」という思いがこみ上がってきたことも事実だった。
異世界に行こうがヒトはヒトだ。ヒトでしかない。先ほどまでの高揚感が薄れ、疲労感――精神的な疲れが襲ってくる。我ながらセンシティヴにすぎるのかもしれないが。
『この場所へ転移シマスカ?』
「……いえ、いいわ。事情も分からないし」
疲れた声で私は拒否した。襲撃した側と襲撃された側と、どちらに非があるのかなんてわからないし。もしかしたら襲われた側の方が悪党で襲った側が正しいのかもしれない。あるいは両方とも悪党かも。どっちにせよ、正邪が例えわかったとしても、その争いに私が首を突っ込む理由はさらにない。私は正義の味方でもなんでもないのだから。
そう、思った。
けれど。
映像をもう一度よく見て。
それが、目に入った瞬間。
私の中の何かが爆発した。
襲撃者たちは皆、笑っていた。
楽しそうに嬉しそうに。
なぜ。
なぜ人を傷つけて笑う。嗤う。
なぜ人を抑圧して楽しむ。愉しむ。
なぜ人を穢して喜ぶ、歓ぶ、悦ぶ。
――あのときの、アレのように。
息苦しくなるほどの感情が私の中で渦巻き暴れる。その感情の嵐ははけ口を求めて荒れ狂う。まるで物理的な何かが体内で急激に膨張し、私を内側から押し潰すような重苦しい圧迫感。
例え襲撃された側が邪悪の権化で。例え襲撃した側が正義の化身でも。
知ったことか。
私がお前らを
お前らを……
――蹂躙してやる。
「ここに、転移させなさい」
私の声は、自分でも驚くくらいに、冷えて響いた。
「誰だ、そこにいやがるのは!?」
襲撃者の一人が鋭い声を飛ばした。
誰なんだろうね。実際私も、姿も能力も変わりきった今の自分が誰なのか断言できない。まあ誰でもいい。そして問答をする気もない。
私はゆっくりと木陰から姿を現す。
「何だ!? ……女?」
詰問したのは両手に短剣を持った、やせぎすの鷲鼻の男。いぶかしむような視線が私の身体を下から上まで舐めまわすように這いずる。私はそれを無視して、周囲を見渡した。
状況認識。私に気付いた男を含め、武装した男が6名。そして血まみれになって倒れている平服の男が3名と、その側でまだ立っている男が1名。つるんとした頭に団子鼻、ちょび髭というユーモラスな顔立ちだが、今の表情はさすがに真剣そのものだ。装飾の多い、仕立てのよさそうな服を着ている。
さらにその隣に、綺麗な金髪の、どうやら女性が一名。「どうやら」というのは、その人も倒れ伏していたためによく容貌がわからなかったからだ。
もっともその人は小さく苦しげに震えていたので、怪我をしたのかもしれないが、少なくともまだ生きてはいるようだ。
武装した男たちは、ちょび髭の男に向かい、ギラギラした目つきで剣を抜き放ち、斧を振りかぶり、棍棒を構えて詰め寄っている。ちょび髭の方も、護身用らしい短刀を構えてはいるが、へっぴり腰で手は震え、顔は青ざめ、どう見ても相手になりそうもない。
「どうした! 何を騒いでやがる」
ちょび髭に向かっていた武装集団のうち、大剣を持って後ろでふんぞり返っていた髭もじゃの男がこちらを見る。こいつが頭目だろう。
「カシラァ、妙なお客さんですぜ。へへ、びっくりするほどの上玉でさぁ」
鷲鼻の男が私をじろじろと見まわしながら、ニタニタと好色な笑みを浮かべる。
ああそっか。私は今、美少女だっけ。
「ほほう。こいつぁ驚いた。こんな別嬪を一日に二人も見ようとはな」
「へっへっへ。思いもかけねえオマケが付いてきやがったなあ」
「悪い場所に居合わせちまったな。偶然てなあ怖いねえ。不幸だったと諦めなよ」
他の男たちも口々に囃し立てながら私に近づいてくる。ハゲとマッチョと向こう傷。
「おいおい、俺の分も残しとけよなあ」
まだちょび髭たちに向き合っている刺青男が首を伸ばして言葉を掛けた。男っていう生き物のこういう時の反応って、テンプレで面白いよね。悪い意味で。
頭目と併せて二人が向こうに残ったが、だいたいこっちに集まったな。
じゃ、行こうか。
「まあ大人しくしとけば、そんなに痛い目には……」
痛い目に逢うのはお前だよ。
風が唸る。黒い風が。
手を伸ばしてきた鷲鼻男の顔面に、私のロングブーツが叩きこまれたのだ。
ぐしゃりと潰れる音。いい具合に尖ってたからね、その鼻は。
「がっ……」
呻き声を上げて鷲鼻男……いや、「元」鷲鼻男が白眼を剥き、顔面を血に染めて、膝から崩れ落ちる。
男が膝をつくと、ちょうどいい位置に頭部が来る。
再び風が舞った。蹴り上げたままだった脚を、勢いよく振り下ろしたのだ。ヒールが男の脳天に叩きこまれ、バキンと頭蓋骨が割れる音と共に、男はもう物も言わず大地にひれ伏した。
「ッ……!?」
残りの男たちが驚愕から我を取り戻すまでに何瞬かかるかな。まあ、すでに私は踵落としをしたその反動を使って、宙空高く跳躍しているのだけれど。
向こう傷の男一人だけが、かろうじてその私の姿を目で追えた。偉いね。では上を向いたその顔面に両脚で着地してあげよう。スピンを加えてだ。
重力加速度が付き回転も加わった分、彼は鷲鼻男よりも哀れな事になった。その顔面の向こう傷はもう目立つことはない。顔そのものが破壊されたのだから。
血肉の混じった赤黒くてピンクの何かを撒き散らしつつ、痙攣しながら男は倒れる。私はくるっとまわって綺麗に着地。10点満点。
同時に陽炎と不知火を鞘走らせる。黄金の刀身が陽光を跳ねて眩く煌めき、漆黒の刃が不気味に大地に影を落とした。
「そっ……そいつはヤベェ! ブッ殺せ! 手加減すんな!」
最も早く現状を認識できたのは頭目だった。さすがというべきか。しかし、手加減するな、ねえ。羨ましいことだ。私はかなり注意して手加減しているのに。
「こ…いつ!」
「ひいっ……!」
同じ状況に直面しても、性格によって対応には如実に差が出るものだ。マッチョは巨大な棍棒を振りかざしつつ、地面を揺るがせて猛突進してくる。一方、ハゲは形だけ斧を構えたものの、顎を出して上体を起こし、足を引きかけている。つまりは逃げ腰だ。この場合、優先して処理すべきはハゲ。逃がしたくはない。
私の右手から陽炎が消えた。金色に輝く軌跡を残し、翔んだのだ。刹那の後、黄金の剣尖は音もなく、ハゲの腹部を新たな鞘としてその身を埋めていた。驚愕に眼を見開きながらハゲが倒れ伏す。
マッチョは、まあどうでもいい。唸りを上げて私めがけ振り降ろされた棍棒は、確かに当たれば岩をも砕くだろう。ただ、ごめん。私の不知火が斬り裂くものは、岩どころの話じゃないんだよ。
ゆらりと不吉な影を曳いて、不知火が棍棒と真っ向から打ちあう。マッチョは一瞬だけ優位を感じて笑みを浮かべ、そして次の瞬間に、自らの腕が棍棒ごと縦真二つに斬り裂かれていたことを知って絶望に凍りつく。
「あが……」
悲鳴を上げようとしたその顔めがけて跳躍し、やかましい声が出そうなでかい口をブーツの靴底でふさぐ。ジャンプの足場になってもらうのが主目的で、彼の四角い顎を顔面下半分もろとも木端微塵に破壊したのはついでに過ぎない。
マッチョが大地に倒れる重低音を背後に聞きながら、私は自らを矢と化して残りの襲撃者の元へと飛んだ。
身を翻して、私は武装集団とちょび髭の間に滑り込む。武装集団と言っても、もう残りは二人しかいないが。
不知火を右手に移し、半身になって武装集団に剣を突き付けると共に、後方、ちょび髭の方にも気を配る。
私は別に、このちょび髭が善良な一方的被害者であるなどと信じているわけではまったくない。私がこの修羅場に割って入ったのは、単に武装集団側が気に入らなかったからだけであって、ちょび髭を助ける意図ではないのだ。まあ仮に助ける価値と意味があるなら、助けたほうが後味がいいだろうから、一応庇った形になっているだけ。もしちょび髭が後ろから襲いかかってきたなら、まずこいつから斬り棄てるくらいの心構えではいる。
「ま、待て」
髯もじゃの頭目が怯えたような声を出し、手を突き出して私を押しとどめる意思を示した。
「こ、これ以上は逆らわねえ。あんたの後ろのあいつらに手出しもしねえ。だから見逃してくれ」
哀れっぽく訴えてくるが、ちらちらともう一人の刺青男に目配せしているのが見え見えだ。現に、そう言いながらもじりじりと頭目と刺青男は間合いを変え、私を両側から挟撃できるような位置を取ろうとしている。無言の目配せだけで意思疎通し行動できる阿吽の呼吸は、まあ大したものかもだが。
さて、同時に仕掛けてくるのか、それとも片方がフェイント掛けてもう一人に斬り込ませてくるのか。どっちかな。
「な、懐に金貨がある。こいつを全部あんたにやってもいいから……」
ポンポン、と頭目は懐を叩く。なるほど、大きく動きを付けると目を引きやすい。具体的なカネという条件も出すことで関心も持たせる。
――つまり、頭目の方が私の注意を引き、刺青男が仕掛けてくるわけだ。それで私が倒せればよし、ダメでも迎撃や回避で私の体勢が崩れたところを、さらに頭目が襲うと。
うん、そこまで読めればいいや。乗ってあげよう。
僅かに身体を頭目側に向け直す。それで釣られたと思うだろう。
案の定、刺青男が即座に槍を突っ込んできた。私の微かな動きに反応する、結構な瞬発力。そこそこ戦い慣れているんだな。
まあ、来るのはわかっているので刺青男には気を取られず、逆にまっすぐ頭目の方に踏み込んでこっちを斬り、返す刀で刺青男を叩き斬る。それが私の計算だった。
だが。
その瞬間、背後で大きな圧力が膨らんだのを、私は察した。
――しまった。
やはり背後の男が狙ってきたのか。
注意していたはずなのにいつの間にか意識から抜け落ちていた。いかに超スキルを身につけていても、所詮使い手の私は素人か。死ぬとは思えないが手傷は負うか。
微かに、しかし確かに平静を失った私の背中から。
眩く輝く光の奔流が煌めいて、
――私を追い越し、頭目に激しく降り注いだ。
「えっ……?」
この世界に来て私の初めて発した言葉がそれだった。我ながら間抜けだとは思うが。
「ぐわっ! こ、こいつ、また……」
頭目が大きくたたらを踏み、目を覆ってよろめく。物理的ダメージはないようだが、凄まじい光量による一時的な視覚喪失といったところか。おそらく数瞬まともに動けまい。
ならば。予定変更だ。
突っ込んできた刺青男の槍を上体を反らしてかわし、千段巻の部分から穂先を斬り落とす。槍の柄を左手で掴んでぐいと手前に引くと、相手は私の力と自分自身の突進の相乗作用で思い切りつんのめる。待っているのは私の右肘だ。肩甲骨を張り骨格をかっちりと決めたヒトの肘に顔面から突っ込んでくるのは、尖石に情熱的なキスをするのと同じ。前歯が折れ飛び鼻が潰れ、くぐもった悲鳴を上げてのけぞる刺青男の、無防備になった脇腹を不知火で裂いてあげてから、私は頭目に向き直る。
「ち、畜生! 寄るな、寄るな!」
頭目はまだ目が霞んでいるのか、逃げることも向かってくることもできず、ただその場で矢鱈滅法に剣を振り回すのみだ。
私は無言で近づくと、無造作に不知火を一閃した。剣を握ったままの手首が宙に飛ぶ。絶叫しかけた頭目の右肩を深く斬り下げ、これで終了だ。髯もじゃの口から血泡を吹いて崩折れる頭目にはもう目もくれず、私は振り返る。
光を放って頭目の視覚を奪ってくれたのは誰なのかと。
後ろにいた、あのちょび髭の男ではなかった。
そこには、倒れた状態から上半身を起こし、震えながら手を前に突き出している少女がいた。先ほどまで倒れ込んでいた、あの女性だ。彼女の掌がまだ微かに発光している。今の光を発したのは彼女に間違いない。
「あなた、だいじょう――」
「大丈夫……ですか……?」
歩き寄りながら私が言い終わるよりも早く、彼女は労わりの言葉を口にした。青ざめた顔で。振り絞るような声で。額に汗を滲ませながら。
私は、絶句した。
天使が、そこにいたから。
波打つ豊かな黄金の髪と、深く澄んだ同じく金色の瞳。白磁器のような滑らかな肌に、艶めく朱の唇。
息を飲む。
視線が釘付けになり、動かせない。
「こんな別嬪を今日二人も」と、さっきの男は言っていた。その一人が私だとして、あいつは。この目の前の彼女を、私と同列に並べたのか。節穴を超えてブラックホールでも顔に空いていたと断定する。この子が私と同レベルなどあり得ない。
こんな――
朝焼けの鮮やかさと。夕焼けの切なさと。月夜の静けさと。星夜の神々しさを。
そのすべてを併せ持ち、芸術という概念そのものが嫉妬するであろうと思われるほどの――この子が、私ごときと同等などとは。
「お怪我は……ありませんか」
何故にか、少女は激しい痛み、あるいは苦しみを懸命にこらえているのがわかる。それでも彼女は、また私に声をかけた。
「え、ええ……あ、ありがとう」
かえって私の方がどもってしまう。その私に、彼女は二コリと微笑みかけた。
「よかった……ご無事で」
自分の顔が瞬時に真っ赤に染め上げられていくのが自覚できる。それほどに、彼女の微笑は、私の胸のど真ん中を派手にぶち抜いてくれていた。
「どなたか存じませんが、誠にありがとうございました。何とお礼を申し上げてよいやら」
陶然となっているところに、ちょび髭のおじさんが割り込んできた。おのれ、空気読め。
「い、いえ。それより、彼女は大丈夫なのですか。具合が悪いようですが」
まあ邪魔だと言って蹴り飛ばすわけにもいかない。おじさんはかなり慇懃に礼をつくした態度を示してくれている。それでも彼女から目線を切ることだけはできず、私は少女を見つめたまま、半ば上の空で返事だけを返した。
「ああ、肉体的損傷や後遺症などはありません。魔法封じの仮措置が発動しただけですからな。この娘も、その状態で魔法を使えば全身に激痛が走るとわかっておったはずなのですが。とはいえ、彼奴等が襲撃してきた時にもこの娘が魔法を使ってくれたおかげで一瞬だけ時間を稼げ、その結果、あなた様にお救いいただけることになったのもまた事実ではありますがね」
「魔法封じ……? なぜそのような事を」
私が最初にこの現場に来た時、彼女はすでに倒れ込んでいた。
あの時点で彼女はその魔法封じとやらによる激痛に耐えていたのか。
そしてその上でなお、私のために魔法を使ってくれたのか。
もちろん、彼女が魔法を使おうと使うまいと、結果に変わりはなく、私は奴らを殲滅していただろう。むしろ彼女が魔法を使ったおかげで、私の行動予定に若干齟齬が生じてさえいる。そこだけを見れば彼女の勘違いではある。
だが、彼女のその行為を、道化だと、茶番だと笑うものがいたならば、遠慮なく私がミンチにして差し上げるので安心して欲しい。見も知らない誰かのために、ためらいなく苦痛を引き受けてなお微笑める、その行為をだ。
「その娘は、売買前の奴隷でございますからな。正式な主が確定するまでは、魔法は封じられております」
「――奴隷……!?」
ちょび髭のさりげない一言に、私は思わず振り返った。
なんと言った。彼女が、奴隷?
「はい。天使族の、それも元貴族の奴隷。これは希少でございます。ご覧のように魔法も使うことができますし。おそらく賊どももこの娘が目当てだったのでございましょう。何せ、どれだけ安く見積もっても金貨百枚……いえ、百五十枚は下りますまいからな」
一瞬血が沸騰しそうになったが、きゅっと拳を強く握り締め、抑える。不知火を鞘に納めていて良かったかもしれない。
……いや違う。彼女だ。彼女の前で無闇な殺戮はしたくないという思いが私の衝動を抑えたのだろう。今更すぎるが。
奴隷か。
無論、私のもといた世界では、人道人倫に反する制度だ。
まあ、鞭でびしばしシバいて、死ぬまで働けー! みたいなテンプレ奴隷は、私のもといた世界でもそのすべてではなかったというくらいの知識はある。もちろん一方ではそうした奴隷もいたし、その一方では、家族同様に遇せられたり、あるいは終身雇用の従業員程度の待遇だったりした場合もあるという。だが厚遇されていたとかいないとかの問題ではなく、いずれにせよ自由が奪われているという大前提の時点でやはりそれは許容されるべきものではない……私の元いた世界の元いた時代の感覚では、だ。
だが、この世界では違うということだろう。ちょび髭が当たり前のように奴隷売買について語っているというのは、それが不思議でもなんでもないことだからと考えられる。政治、経済、宗教、そして社会の仕組みが異なる以上、元の世界の倫理を押し付けるのは、傲慢と馬鹿を足して二乗した行為でしかない。うん。一瞬殺しそうになって悪かった、ちょび髭のおじさん。
しかしそうと頭では理解できても、まるでお買い得目玉商品です! と深夜ショッピング番組か何かのように彼女が語られることには、異和感を禁じえないが。今ならなんともう一人付いてきます! とか? 実際ありそうなのがまた怖いな。
――まあ考えてみれば。
そもそもたった今、6人もの人間を殺しておいて、しかもそれに罪悪感も嫌悪感も覚えていない私が、何も言うべき資格を持ちはしないのだった。殺人は構わないが奴隷売買は許さないよ、などとダブルスタンダードにも程がある。今目の前で行われた殺戮に対し私がまったく咎められないのと同じように、私もまた目の前の奴隷売買を受け入れるべきなのだろう。
「申し遅れました、私、聖都で奴隷商を営んでおります、メガックと申します。聖都商工会議所の理事も任されております。お差支えなければ、御尊名をお伺いしてもよろしいでしょうか? なんと言っても私の命の恩人でいらっしゃいますし」
ちょび髭のおじさんことメガック氏が頭を下げる。いや命の恩人というか、さっきうっかり殺そうとしてたんだけどね、あなたのこと。
しかし、名前か。
私は姿を変え、能力を変えた。
かつての私と共通するものは今やこの意思だけだ。そしてその意思さえも、記憶と経験の積み重ねによって変遷していくのであるのなら、いずれは元の私とは異なるものへとなり果てるのかもしれない。
そうであるなら。
せめて、名前だけでも、元の私を思うよすがとして残しておいてもいいかもしれない。
羅槻という私の名は、文字通りラッキーという音を映した、いわゆるキラキラネームだ。正直、我ながらちょっとイタいとは思っている。
だがこの名は、亡母が私に残してくれた贈り物でもある。私の人生の中で、無条件に幸運を祈ってくれ、無条件に愛を祈ってくれた人が少なくとも一人いたという数少ない証だ。
ならば、私はその名を抱こう。
願わくば、私の名が、私の新たな世界と新たな人生に、幸運をもたらしてくれんことを。
「ラツキ。ラツキ・サホです」
私は、静かにそう名乗った。