間話(2) 情と義
眠らぬ街・聖都とはいえ、夜の闇は濃い。
墨を流したようなその闇の中を、滑るように動く二つの影があった。
速度が過度に迅ければ、宵闇の中であっても、その異質さぶりがやはり人目に立っただろう。だが、二つの人影は、過剰に速くもなく、遅くもなく、人の意識が注意を向けないぎりぎりの足並みで、街角を走り抜けていく。
「……しかし、わしらは何をやっとるんかのぉ」
自嘲気味に、影の一つが呟く。白髯が風に靡き、白髪が翻った。
その顔に深く刻まれた皺、枯れ木のような手足と相まって、相当の老齢であることが見て取れる。
だが、窺い知れる年齢に反し、彼の挙措は機敏であり、その動きには鋭利な閃きがあった。
「然り」
もう一つの影がにやりと口元をゆがませる。
その頭部は精悍な狼のもの。彼の腰には夜目にも妖しく禍々しい存在感を放つ刀が一振り。その銘こそは、斬った相手の血脂に塗れるほどに斬れ味を増す妖刀・羅刹である。
「無情無慈悲の冷酷なる間士として闇の世界を生き抜いてきたバートリー老の為すこととも思えぬな」
「ふぉっほっほ。それを言うならお前さんとて同様よ、ルーフェン坊。己が剣を磨き上げることのみに生きる孤高の剣士、他者のことなど知らぬ存ぜぬ関わらぬ。それがお前さんであったのではないのかのう」
「……ふん」
ルーフェンと呼ばれた狼頭の剣士が鼻を鳴らす。だがそれは不快の意を込めたものではなかった。
「ま、拙者らはいずれも変えられたのだ、あの男にな。まったく腹立たしいことよ」
「ほっほ。そんな楽しそうな顔つきで言う言葉かの」
しわがれた声を面白そうに響かせてバートリーは笑い、ルーフェンもまた、鋭い牙の生えた口元に獰猛な笑みを浮かべる。
間士の老人バートリー。そして妖剣士の狼人ルーフェン。
登攀者たちの頂点を行く存在としてその二人の名を知らぬものはない。そして同時に、彼らは、登攀者の最高峰であると衆目の見るところが一致しており、『殲煌雷刃』の名で謳われる英傑の僚友でもあった。
その俊英の名はユーゼルク。
ラツキ・サホが、唯一、この世界において自分に伍するかもしれぬ存在として認めた男である。
バートリーとルーフェンは、今、私用で夜の街を駆け抜けている。それは彼らの隊に直接の関わりはなく、まして彼ら個人にとっては毛筋ほどもゆかりのない事柄のためだった。
それゆえにこそ彼らは自らを嗤う。いつの間に、かくまでに御人好しに成り果てたのかと。
だがその感覚は、何ゆえにか、心地いいものでもあった。
ひと月ほども前だっただろうか。
ユーゼルクたち『殲煌雷刃』は、次回登攀に向けての計画を立案していた。
彼らの居住所もラツキと同じように聖殿の客殿である。
しかし、ラツキたちとは異なり、聖殿内に設けられた一角ではなく、聖殿に隣接して建てられた別棟の建物がその根城。彼らはそこを丸々単独で借り切っていた。
ラツキほどの財産があっても一部屋を借り続けるのにためらいを覚える価格の客殿を、小なりとはいえ一棟すべて借り切ったまま数年以上にわたって住み続ける。
それはユーゼルクたちの金銭的余裕がどれほどのものかを示しており、そしてそれはそのまま、登攀者としていかに優れた手腕であるかを語るものでもあった。
仲間たちがさまざまに次回登攀に向けた案を話し合う中、一人のんびりと窓から街並みを見下ろしていたバートリーは、ぽつりと呟いた。
「ほう、あのお嬢ちゃんがおるな。なんと言うたか。……そう、ラツキとか言ったかの」
「え、どれどれ」
半ば独り言めいたその言葉に耳聡く反応し、覗き込んできたのは、黄金の髪と瞳を有した男。
ユーゼルクである。
その逞しい身体と背に負う大剣、そして爽やかな笑顔は、彼が実力の上でも人望の上でも、曲者ぞろいの一行をまとめるにふさわしい人物であることを示していた。
「ほっほ。相変わらずユーゼルク坊はあのお嬢ちゃんにご執心と見えるの。ほれ、あそこじゃよ。大泉水の傍じゃ」
「本当だ。相変わらず綺麗な子だな……一緒にいる子も同じくらい美人だ。あの子は僕と同じ天使族かな」
感嘆したような声を出したユーゼルクに、傍らの女性が苛々と机を叩いた。
「もう、ちょっとユーゼルク! 今は明日からの計画の詰めを行っているんでしょ。あっちこっちに気を逸らさないでよ。……御老も、話に参加しないのはもう諦めてるけど、ユーゼルクまで巻き込まないでったら」
ユーゼルクと同じ金髪と金の瞳を煌めかせた彼女は、ユーゼルクの幼馴染であり恋人でもある、ミカエラである。
彼女の言葉に、青銀色の髪をしたもう一人の女性が皮肉気に肩をすくめた。もう一人のユーゼルクの恋人、エレイン。
「ミカエラがそのように口うるさければ、ユーゼルクの息も詰まろうというものです。気晴らしをしたくなるのも理解できます」
「なんですって?」
「なんです?」
立ち上がって火花を散らす二人の女性。その気迫は空気を軋ませるかとさえ思えた。傍らの巨大な岩人・ロッグロックはおどおどと目を逸らし、ルーフェンは呆れたようにそっぽを向く。
特に誰も止めようとはしない。この二人の女性の間では頻発する事態であり、仲間たちもすでに慣れ切った光景ではある。
とはいえ、さすがに当事者であるユーゼルクにとっては、彼女たちを放置しておくわけにもいかない。複数の恋人を有する男の、それは責任でもあるだろう。
「ああ、ごめん。ミカエラの言う通り、席を外したのは僕が悪かった。それに、エレインが僕の身を案じてくれたのも嬉しいよ」
それは、言葉だけ見ればその場しのぎの適当な言とも思える。
だが、茫洋とした態度とのんびりとした口調。それが不思議に二人の女性の意気を挫き、彼女たちは振り上げた拳をどこに降ろしたらいいかわからないといったように顔を見合わせた。
「……わ、わかってくれたらいいのよ。だったら早く戻って……」
ミカエラは、こほん、と気まずげに咳払いし、ユーゼルクの元に歩み寄って彼を席に戻そうとした。しかし何気なく窓外に目をやって、彼女の足が止まる。
「あら……?」
窓から身を乗り出すようにし、眉の上に手をかざして聖殿前広場を見つめるミカエラ。ユーゼルクとバートリーは、きょとんとして彼女のそんな姿を見つめる。
ミカエラの視線の先は広場中央大泉水の傍。
そこには、先程から話題になっていた通り、ラツキ、そしてもう一人、天使族の美しい少女が、誰かを待っているような素振りで立っていた。
そのラツキたちの元に、さらに二人の人物が近づいてきている。
ミカエラの注意を引いたのは、ラツキではなく、近づいてくる人物の方だった。
一人は、緑色の髪をした、おそらく森霊族と思われる長身の女性。
そしてもう一人は、身なりのいい高齢の婦人のようだった。
「あの方……イェンデ伯爵夫人じゃないかしら」
目を凝らしながらミカエラは言い、つんつんと隣のユーゼルクをつつく。
「ねえ、やっぱりそうよ。伯爵夫人だわ。ご家族を亡くされてからあまり人交わりもなさらなかったみたいだけど、聖都にいらしてたのね」
「誰だい? 君の知ってる人?」
のんびりと聞き返したユーゼルクに、ミカエラは目を丸くして彼の顔をまじまじと見つめた。
「あっきれた! 小さい頃、私とあなたで時々お目にかかったじゃない! ご息女が私たちと同年代だったから、可愛がっていただいて……。ほんと、自分に関心のないことはすぐ忘れちゃうのね!」
言いながら、ちらりとミカエラはエレインの方へ勝ち誇ったように視線を投げる。
ユーゼルクとミカエラはいずれも名門貴族の出であり、幼馴染。共に過ごした過去という事実は、恋敵に対して絶対優位な彼女の利点だった。
案の定、エレインは唇をへの字に曲げ、悔しそうにぷいと目を逸らす。
「そうだったかな。そう言われればそんな気もするな」
「そうよ。ねえ、ご挨拶しに行きましょうよ。こんな思いがけないところで、せっかくお会いできるんですもの」
ユーゼルクの袖を引っ張り、すぐにも階下に降りようという勢いだったミカエラだったが、枯れた手をすいと揚げたバートリーがそれを制した。
「そいつはやめておいた方がいいのう」
「どうしてよ。私とユーゼルクの話なんだから、御老には関係ないじゃない」
両手を腰に当てて眉を吊り上げたミカエラに、バートリーは白髭をしごきながら笑った。
「ふぉっほっほ。ユーゼルク坊は今や登攀者たちの、いや聖都に暮らすものにとって憧れの的じゃ。迂闊に出歩こうものなら大騒ぎになろうよ。それはかえってそのご婦人にも迷惑をかけるのではないかの」
「う……」
ミカエラは言葉に詰まる。バートリーの言うことは必ずしも誇張ではない。ユーゼルクが道を歩くたびに声を掛けられ、握手を求められ、アドバイスを求められるなどといった喧噪に巻き込まれることは事実だった。
さらに、御人好しの彼はそれに対し律儀に一々応えるものだから、余計に人だかりが多くなるのだ。
「そのご婦人はおそらく聖都に隠棲しておられるのだろう。ならばなおさら、余計な騒ぎにかかわらせぬがよい。……そんなことより打ち合わせの続きだ」
いつの間にか窓際に近づいてきていたルーフェンも同様に言い捨て、顎でユーゼルクとミカエラを促す。
不承不承といった様子で、ミカエラは卓につき、ユーゼルクもそれに続いた。
だが、その背後で、バートリーとルーフェンはどちらからともなく視線を見合わせ、そして微かに頷き合う。二人の顔付きには、どこか厳しい色が浮かんでいた。
「……で、お前さんのほうは、何を勘付いたんかの、ルーフェン坊」
打ち合わせに一段落がついた夜半、バートリーとルーフェンは宿舎の屋上に出、闇に紛れて言葉を交わしていた。
どちらもかつては世の陰に生きてきた者たちである。その言葉は夜風に木の葉が吹かれて舞うかのごとく、低く静かな物音にしか聞こえないものだった。
「拙者の羅刹がな、哭いたのだ」
ルーフェンは腰の妖刀を軽く持ち上げる。
「仔細は知らぬ。だが何らかの殺気――いや妖気ともいうべきものか、それを感じて哭いたのだ。ゆえに、近寄るべきではないと判断したまでのことよ。……御老はいかに?」
「わしはな、顔よ。あの笑顔じゃ。一見朗らかな……ふふん。ああいった顔は、かつて裏の世界で幾度か見たものよ。心のない作り笑顔よりもさらに性質の悪いもの。心があるゆえに恐ろしい……絶望を反転させた嗤い、歪んでひび割れた裏返しの笑顔じゃよ」
バートリーの表情は、普段の飄々とした好々爺の姿からは想像もできぬほど、冷えて硬いものだった。ルーフェンは低く喉の奥で声を唸らせる。
「では、やはり」
「ああ、そうじゃ。……あれは凶相よ。うかつに近づいてはなるまい。あの――イェンデ伯爵夫人とやらには、のう」
ルーフェンはしばし無言で夜風に顔を向けていた。夜でも賑わいさざめく聖都の街中で、二人の周囲だけが切り取られたように異質な静けさを保っていた。
「……ならば、どうする」
「どう、とは? わしらには関わりのなきことじゃ。好きこのんで火中に飛び込む必要がどこにあるのかね」
「いかにもその通り……その通りだが」
苦しげな息がルーフェンの口から洩れる。その鼻にはしわが寄り、瞳は落ち着かなげに蠢いていた。恐れを知らぬ妖剣士の姿とは思えぬほどに。
「だが、伯爵夫人とやらは、ユーゼルクの知己なのであろう。稚き頃、世話になったと」
「本人は忘れていたではないかの。その程度じゃ。構わぬがよいわ。……それとも、何かね」
バートリーは白髭を微かに動かした。皮肉な笑みの形に。
「そのように些細な縁故であっても、ユーゼルクとの関わりがあるものならば捨て置けぬ……とでも言うのかの」
「……わからぬ」
狼人の耳は萎れ、その尾は力なく垂れた。
「このような感慨はかつて知らぬ。拙者は今、いかにすべきであるのかがわからぬのだ」
バートリーの目がきゅっと細められた。どこか楽しげに。その瞳の奥には、柔らかな慈愛があった。
「ほっほっほ。何とも生温い……と、以前のわしなら言うたであろうな。だが、わしも実は同じ気持ちじゃよ、ルーフェン坊。情だの義だの、言葉として知ってはおっても、それを実感として得たことはなかった。が、おそらく今、それをわしらは知ったのであろうさ」
「情と義か。……なるほどな。確かにかつての拙者の知らなかったものだ」
ルーフェンは顔を上げ、薄く笑んだ。その顔には狷介な妖剣士のものとは見えぬ、険のない穏やかな色があった。
「では、御老」
「うむ。……じゃが、あくまで、何が起きておるのか調べるだけじゃ、とりあえずはな。それよりも深く首を突っ込むべきかどうかは、また別のことと考えずばなるまいよ」
「承知した」
夜の中で、二人は深く頷き合った。
その後、登攀の合間を見つつ、二人は密かに調査を開始した。
聖都は広大な都市であり、まず対象の居所を調べ上げることからして、そう容易いことではなかった。ましてや二人は高名な登攀者であり、迂闊な動きに制約がかかる。ユーゼルクにはまだ知られぬように、という配慮も、彼らの足を縛るものだった。
それでも、僅かな日数で、イェンデ伯爵夫人の居館、それのみならず別の場所にある別宅までをも突き止め得たのは、さすがの手腕と評すべきだろう。
このわしも、まだまだ間士として枯れてはおらぬな、とバートリー-は笑ったものだった。
そして今、バートリーとルーフェンは闇の中を駆けている。
これまでに幾度か伯爵夫人の本宅の様子を伺ったが、特に異常は見当たらなかった。だが、粘り強い監視の中で、時折、夫人とその奴隷と思しき女性が別宅に出かける夜があることがわかっていた。
何かがあるとするならそこなのだろう、と二人は見当をつけている。
あくまでユーゼルクたちに知られぬよう、登攀を主とするという行動のため、これまでは日取りが合わず、夫人たちが別宅へ赴くタイミングに出くわせていなかった。
だが、この夜はようやく、夫人が別宅へ出かける日と、二人が動ける日が重なったのだ。
伯爵夫人の別宅のある場所は、高級住宅地から少し外れた、あまり人気のない場所だった。
隠棲しているのならば静穏な場所を選ぶのは当然のこと、とも考えられるし、悪く取れば、何か人目をはばかっているのではないか、とも思える。
そのどちらなのかは、直接探ってみればわかること。二人の足は早まっていった。
「――さて、何が待つか」
「あまり気負わぬことじゃよ。感情を昂ぶらせず、事実をそのまま見極める。それが重要……」
言いかけたバートリーだったが、そのとき不意に口をつぐんだ。かと思うや、鋭く短く、老いた間士は言葉を奔らせる。
「――退がれ、坊!」
反問も躊躇もなく、ルーフェンは後方へ跳躍する。意識が判断するより早い、それは反射ともいうべき行動。跳びながら彼は妖刀の鯉口を切り、着地した時には既に右手をゆるく刀の柄にかけていた。
とっさの反応自体も称賛に値するものだったが、なおかつ、急激な事態の変化にあっても手の内が固くなっていない点こそが、まさにルーフェンの非凡な剣才を示すものであったろう。
ほとんど同時にバートリーも跳んでいる。その手には数本の苦無が握られていた。
二人の鋭い眼光は、まさに今曲がろうとした街角の奥から、夜闇の中、ゆっくりと近づいてくる人影に向けられている。
妖剣士ルーフェンより先に、バートリーがその相手の接近を察することができたという事実が、まさに間士としての彼の技量を語っていた。
ルーフェンだけではなく、例えば仮に同行者がラツキであった場合でさえも、同様にバートリーが先んじただろう。直接的な戦闘能力だけで言うならばバートリーはラツキに及ぶべくもない。だが、気配察知などの隠密行動に関して言えば、バートリーの技量は彼女を遥かに凌駕する。
「――ほむべきかな、いと高き塔。良い夜です。どちらへお出かけですか?」
近づいてきた人影は静かな口調で声を掛けた。星明りに照らされたその容姿を見て、ルーフェンとバートリーは息を飲む。
(聖務官……!? いや、まさか……しかし)
法衣と、仮面。
そのいでたちだけを見れば、誰もが知るところの聖務官の姿。
だが、決定的に異なる点があった。
――漆黒。
その人物が風に靡かせる法衣も、素顔を隠す仮面も。聖務官なれば穢れを知らぬ純白であるはずのその装いが、ことごとく、闇より深い黒き色だったのである。
(黒の……聖務官……!?)
そのような存在は、長年にわたって裏の世界で生き続けてきたバートリーであってさえも耳にしたことのないものだった。
のみならず、その「黒の聖務官」の身に纏う気配は静穏にして深甚、それ故に底知れぬ恐ろしさを感じさせた。そう、百戦に練磨されたバートリーとルーフェンをして、である。
むき出しの殺意や悪意であればまだ処しやすい、しかし、眼前の相手はあまりにも安らかに穏やかに、愛をもって命を刈り取る。そんな相手だと、二人は直感的に悟っていたのだ。
「美しき夜といえど、更けてまいりますれば、足元もおぼつかなくなりましょう。この先に、特に興を引くようなものがあるわけでもございますまい。ならば、お帰りになるのが賢者の行いでございましょう」
「黒の聖務官」は細い声で優しく言った。諭すように、たしなめるように。
その言に含まれた威に嫌でも気づかざるを得ず、バートリーとルーフェンはじりじりと神経が焦げるような感覚を味わう。
すなわち――先へ進むな。帰れ。さもなくば。
どうするか、と、バートリーたちは逡巡する。
得体のしれぬ相手ではあるが、戦って勝てるかと問われれば、勝てるかもしれぬ。ラツキとユーゼルクを除けば、バートリーたちの手並みはそうそう他に比する者のない領域にあるのだ。
だが、内情もわからぬ事態の中、素性もわからぬ相手と軽々に事を構えるなどとは、不用意かつ軽率のそしりを免れ得まい。
ましてや、偽装かもしれぬが、相手は聖務官の姿をしているのである。聖殿に対して刃を向けることになりかねず、そうなれば登攀者としての栄誉を得ているユーゼルクの地位も危ういのだ。友のためにと取った行動であるのに、それでは本末が転倒してしまう。
なおかつ……。
バートリーとルーフェンは、ちらりと闇の奥を透かす。眼前の「黒の聖務官」の他にも、おそらくその輩が数人……十人近くは潜んでいることを、彼らの鋭敏な感覚はとうに勘付いている。
忌々しげに長く息をついて、ルーフェンは羅刹を鞘に納めた。バートリーも苦無を懐にする。
「……ご忠言、痛み入る。では拙者たちはお暇させていただこう」
「お気をつけて。塔の御加護を」
踵を返して遠ざかっていくバートリーとルーフェンを、「黒の聖務官」は無言で見送った。
その背後に、音もなく幾つかの人影が現れる。それらはことごとく、同じように漆黒の法衣と仮面に身を包んでいた。
その一人が、囁くように言う。
「よろしいのですか、帰しても」
「彼らはあの『殲煌雷刃』。ここにいる人数だけで口を封じようとすれば、そのほとんどは落命したことでしょう」
「命など! 聖務のためでありましょう。たとえ全滅しようと、それが必要ならば為すべきではありませんか」
食って掛かる相手に、「黒の聖務官」は仮面の奥で静かに笑う。
「無論です。しかし、『殲煌雷刃』は登攀者のすべて、いえ聖都すべてといってもいい人々から顕著な憧憬と尊崇を集める存在。その者が突如「行方知れず」にでもなったならば、その影響は計り知れません。人心を惑わせるべきではないでしょう」
「そ、それは……そうですが……」
理解はできたが納得はできない、という態度を見せる相手に、「黒の聖務官」はさらに続ける。
「どちらにせよ、じきにすべては終わります。その時こそ、われらがお役目を果たす時。今騒ぎを起こす意味はなく、その必要もありません」
「……はい。では、もう一組、嗅ぎまわっているものたちの方も?」
ようやく叩頭した相手に頷き、「黒の聖務官」は、夜空に顔を向け、独り言のように続けた。
「特に妨げにはならないでしょう。まだ駆け出しの登攀者ということですしね。確か――ラツキ……といいましたか。ただ……いえ、いいでしょう」
涼やかな夜風が一陣通り過ぎ、その漆黒の法衣をはためかせる。
ふわり、と一房の髪が風に弄ばれて戯れた。
――炎のような、真紅の髪が。
「黒の聖務官」の唇が微かに動く。
声を聞き取れたものはいなかった。ラフィーネ、と、遠い誰かに呼びかけるようなその声を。




