再会と嫉妬
『……やはりというべきか、オヴライトの娘は光芒剣の存在を知らぬようだったな』
幻燈のように私の中に投影される映像、そして奇妙に揺らぎつつ聞こえる声。
揺らめく燈火の下で、深く椅子に腰かけた男爵が、誰かと話をしているようだった。
私は今、EXスキル『ディレイ・サイト』と『ディレイ・ヴォイス』を使っている。
これは、録画録音機能だと考えることができる。つまり、生中継ではない。まあライブで監視対象の動向を逐一転送するスキルもあったのだけど、さすがに一日中付き合ってはいられない。だいたい男爵の入浴とかトイレとか閨房とか想像したくもないし。
で、ある程度まとめて後から情報をチェックしよう、と考えてこのスキルを選んだ。といっても、例えば8時間ごとの情報をいちいち全て見直そうとすれば、やっぱり8時間掛かってしまうわけで、それもやってられない。いや早送りとかあることはあるんだけど。
まあそこはさすがにEXスキルだけのことはあり、便利な機能が付いている。特定の動作、あるいは単語を登録しておき、監視対象がその動作をしたり、単語を口にしたりしたシーンのみをピックアップして見聞きできるというものだ。
私は「ラツキ」「アンジェリカ」「オヴライト」「聖王」「光芒剣」……などの、私たちに関連ありそうな単語を登録し、男爵がその言葉を口にしたかどうかを、暇をみて確認することにした。その作業だけなら半日分でも数十秒ほどで終わるのだ。
と、持久戦が当然だと思って、そのように心構えをしていたのだが、意外な事に最初に引っかかったのは、男爵邸訪問の翌朝に最初のチェックをした時だった。つまり、その場面が発生した時刻は訪問当夜。それが、この情景だ。
このスキルは『男爵個人』に対して機能するものなので、男爵の映像及び声しか記録されていない。従ってその対話相手が誰なのかは分からない。が、話の間に視線や顔が動いたりはしていないことから、対話者はおそらく一人だろう。
『わかっておる、お前の情報を疑っているわけではない。だが、オヴライトの娘を手にしても、それだけでは容易く事は進まぬようだ、と言っただけだ』
くそ、部屋が暗い。男爵の映像を極限まで拡大したら、その瞳に映る対話者の姿が見えるのではないかとも思ったのだが、ぼんやりとした人影以上には明確化できない。
『……待て、そうもいかぬ。まずはあの女……ラツキとかいう登攀者を排除せぬことには、オヴライトの娘どころの話ではない。儂は今宵改めて直接見聞してわかったが、アレは異常だ。完全武装の精鋭帝国騎士を、たとえ一部隊差し向けたところで制圧は難しかろう。……フフフ、それこそ、あやつをぶつけるくらいでないとな』
どういう相手と話しているのか。相当突っ込んだ内容の話をしていることから、誰かの使者や代理ではないだろう。
そして口調からすると、男爵より上の立場というわけでもない。つまり男爵のバックにさらに誰かがいるということはないようだ。
だが同時に、それほど格下という感じもしない。男爵の視線は並行、すなわち、相手は男爵と同じように椅子に座っている。つまり、ほぼ同等……同格の協力者?
『ははは、落ち着け、冗談だ。……だが、ラツキはそれほどの女。そこは用心せねばならぬ。……しかし、あの女、どのようにしてあの若さであれほどの恐るべき強さを手に入れたのか。調べる必要はあるかも知れぬな』
あー。こないだウィジィくんにも訊かれたけど、やっぱその辺気にされるんだなあ。なんか想定してないとまずいかしら。などと人ごとのように思う。でも今更私の過去なんて作りようがないからなあ……。
『フフ。それこそ、あの女、『秘法』でも使ったか? ……気色ばむな、冗談だと言っておろう。あれほどの強さに加えてあの類稀な美しさを備えておる女だ。何一つ代償を支払っておるようには見えんからな』
――秘法?
暇なときに『ソーシャル・リサーチ』を流し読みしていて、ちょっと目に止まったことはあった言葉だったな。
なんだっけ。そう、願いをかなえる代わりに重い代償を支払う……あまりにもありふれ、そしてあまりにも漠然とした、具体性のないおとぎ話。ふわふわとした中身のない噂。それでありながら、不思議と消えることのない伝説。確か、そんなものだったはず。
『……そう、とにかく、別の手を打つことが必要だ。……うむ。儂の望みとお前の望みはその部分までは同じなのだからな。だが儂はちと無理押しをしたので、今は聖殿に睨まれておる。当分は派手な動きはできん。帝国に召還でもされれば面倒だからな。聖殿に目を付けられたくなかったからこそ、最初は記録の残る公式の競りではなく、裏から手をまわして捉えようとしたのだが、それが裏目に出てしまった。……まあ焦るな。いくらでも手はある……』
しばしの後、何やら頷いて、男爵の目が動く。少し上を向き、続いて何かを追っているような視線。そうか、目の前の椅子に座っていた対話者が立ちあがり、移動しているのか。
やれやれと言ったように息をついてから、男爵の瞼は閉じられた。どうやら対話者は退室したらしい。その後は私たちに関する単語は口にされず、私は一旦スキルを閉じた。
男爵の他にもう一人、協力者のような誰かがいる。その面倒な事実は私に低く唸り声を上げさせた。まあ、もともと長期的に探っていくつもりだったんだし、じっくりと腰を据えて、もう一人の協力者についても調べていくしかないか。
幸い、男爵の方の動きが制限されているというのは事実らしいし、とりあえずは、当分塔の方に専念できそうではあるみたい。もちろん油断はできないけれどね。
「なるほど(もぐもぐ)その少年は(はむはむ)聖務官に(あむあむ)なりたいと(ぱくぱく)いうわけですね(むしゃむしゃ)」
「ええ、それでラフィーネさんにお話聞きたいなって思って」
「まあ難しいですねえ(もぐもぐ)聖務官になるためにはですね(はむはむ)……」
男爵邸を訪れてから十日ほどが過ぎていた。その間、特に何事もなく平穏な日々が続き、私とアンジェは『塔』の4階層までを踏破し終わっている。
今日はアンジェとラフィーネさんと共に、いつもの甘味処――「ユマーティ」というお店に来ている。ラフィーネさんの名誉のために一言付け加えておけば、今回は珍しく私の奢りではなく彼女の自腹だ。ようやくお給料日になったとかで、向こうから楽しそうに誘ってきたので。
私がこの世界に来て最初に倒した森の盗賊たち。奴らに命を奪われたメガックさんのお店の人の息子、ウィジィくんと、私は約束をしている。聖務官になりたいという彼の望みのため、ラフィーネさんに詳しいことを訊いてあげると。
――はむはむ、としながらラフィーネさんが説明をしてくれたところによると、まず聖務官になるためには、2年に一回の予備試験に合格しなければならないらしい。それによって翌年の本試験の受験資格を得ることができ、本試験に合格したら晴れて聖務官となれる。
試験内容は聖殿法および史学の学科と、魔法もしくは武術の実技。受験料自体はさほど高くないものの、いずれも相当な難関であり、多くの受験生は独学ではなく、私塾に通うか家庭教師を付けているという。従って結局はそこで費用がかさむことにはなる。
「でもまあ、頑張れば独学で何とかならないこともないですよ。私も独学でしたし」
「へえ、すごいですね」
ちょっと尊敬。結構努力家なんだなラフィーネさん。いや、彼女が根は真面目だというのはわかっているのだけど。
「でも、ラフィーネさんはどうして聖務官になろうと思ったんです?」
何の気なしに訊いた一言だったが、ラフィーネさんのはむはむの手が一瞬止まった。おや、と彼女の顔を見たが、マスクの奥のその表情は無論読み取れない。だがそれも僅かな間のこと、赤毛の聖務官さんはまたはむはむを開始しながら、さらりと答えた。
「税金払わなくていいんですよ、聖務官」
「……たまによく思いますけど、ラフィーネさんって全然俗世捨ててないですよね」
「ななな何を言うんです! 私は聖殿に身も心も捧げた敬虔な聖務官ですよ!」
「とても説得力のあるお言葉です」
私はひょいと指を伸ばして、ラフィーネさんの口元に付いたジャムを掬い取ると、舐めてみた。今彼女が幸せそうに食べているのは、五種類の果汁を煮詰めたジャムを掛けた蜜入りパン。
「うわ、甘っ」
「あー、それ私のー!」
ラフィーネさんが悲鳴を上げると同時に、私は背筋の凍るような殺意で斬りつけられたのを感じた。――ヤバい。またやらかした。
恐る恐る、ぎこちなく隣に顔を向けると、私の天使がにっこりと微笑んで見つめている。フルーツナイフを逆手に持って。
「ア、アンジェ! あ、あなた、お代りはどう? な、なんでも注文していいのよ?」
上ずった声がもつれて舌が引き攣る。違うの、その、ラフィーネさんは気の置けない友達だからついそのうっかり。……ごめんなさい。
「いいえ、ご主人さま。私、もう食べられません。……胸がすごくいっぱいになってしまって」
優しく柔らかく笑みを浮かべたまま、アンジェが言う。棒読み口調で。
えと、これはちょっと本気でまずい事態かもしれない。アンジェがここまで怒ったの初めて見た……。
「そ、そう? じゃあ帰りに仕立て屋さんに寄っていきましょうか。注文してたあなたの服が、そろそろできているかも」
「ありがとうございます。ご主人さまは、本当に私のためにとてもとても気を使ってくださいますね。とてもとてもとても」
アンジェの可憐な声がまるで地の底から響いてくるようなんですが。怖いよー! ちょっと誰か助けてよー! ってラフィーネさんは我関せずとばかりに食べ続けてるだけだし! この駄聖務官ー!
割と進退極まりかけた時、ふとアンジェの表情が変わった。私に固定されていた冷えた目線が逸れ、お店の入り口付近に移る。凍った顔つきが溶け、意外な何か、あるいは誰かを見つけたかのような、軽い驚きに満ちていた。
釣られて、私もその方向を見る。
お店の入り口近くには、持ち帰り用のカウンターで注文をしている人たちの姿がある。
その、数人の中に。
やや背の高い、ほっそりした姿態の女性の姿があった。緑色の美しい髪をさらりと背中まで流した、淑やかな顔立ちのその女性に、私は見覚えがあった。
アンジェを落札したオークション。あの時の、確か二番目に競りに掛けられた、森霊族の女性。彼女が、そうだ。間違いないはず。しかし、彼女が今身に付けている薄紅のローブは上質な艶を纏い、派手になりすぎない程度に上品な花模様の装飾も為されている。オークションの時の質素なワンピースとはあまりにも印象が異なり、驚くほどだ。
「リアンディート……さん?」
おずおずと呼び掛けたアンジェの声に、その女性は振り返ると、同じく意外そうな顔つきで微笑んだ。
「アンジェリカさん! まあ、またお会いできるなんて」
ちょっと待って、というふうに手を振ってから、支払いを終わらせ、森霊族の彼女はお菓子を入れた籠を持って私たちの食卓へ歩み寄ってきた。その顔色は薔薇色に輝いており、オークションの時のどこか寂しげな表情とは打って変わっている。
身だしなみのことも併せて考えると、かなりいい主人に巡り合ったのだろうか。もちろんあの場にいた客は皆金持ちだろうけど、扱い的にも。
私が物問いたげな視線を向けると、アンジェは森霊族の女性を紹介してくれた。
「ご主人さま、こちらは森霊族のリアンディートさんです。競りの会場の控室で御一緒させていただいて、その時に色々と良くしていただきました。リアンディートさん、こちらが私の主、ラツキ様です。そしてこちらがラツキ様のご友人、4等聖務官のラフィーネ様」
「リアンディートと申します。ラツキ様、ラフィーネ様、奴隷の身で御身近くに侍らせていただく御無礼をお許しくださいませ」
リアンディートと名乗った女性は優雅かつ慇懃に一礼する。なるほど、オークション会場でも思ったけれど、彼女もどこか良家の出らしい。元貴族のアンジェとは、確かに話は合っただろう。他の女性奴隷たちの中には、この二人のような知的な雰囲気を漂わせている人はあまりいなかった気がするし。
「いえ、気にしないで楽にして。アンジェのお友達なら、私にとっても大切な人だわ」
「卑賎の身にもったいないお言葉、恐悦至極です。アンジェリカさんは、本当に素晴らしいご主人さまに巡り合えたのですね」
私はリアンディートにアンジェの向かいの席を薦め、彼女は何度か奥ゆかしく遠慮した後に宜 った。
「リアンディートさんも、とてもご主人さまに大切にしていただいているのでしょう? ふふ、お幸せそうなお顔ですもの」
「ええ、奴隷の身でこのような良い扱いをしていただくなんて、想像もしていませんでした」
「あら、もしかしたら私、今、惚気られているのでしょうか? うふふ」
アンジェが上機嫌に笑っている。リアンディートも上品な笑い声を立て、首を振った。
「いえいえ、そういう意味ではないんです。奥さま――私のご主人さまは御高齢の御婦人で、私はその奥さまの御話し相手としてお仕えしているんですよ」
リアンディートの言によれば、彼女の主の名はイェンデ伯爵夫人。その夫君は早くに亡くなり、御息女も今は遠方に住んでいるのだとか。その寂しさを埋め合わせるための話し相手としてリアンディートは買われたらしい。
今のようにちょっとお菓子を買ってくる程度以外には、作業のようなものはほとんど課されず、伯爵夫人と共に生活し、団欒の中で無聊を慰める、それが彼女の役目だという。
前の世界の英国貴族社会にも、レディズコンパニオンといって、貴族の話し相手を勤める上流の雇人がいたと聞いたことがある。それに近いものだろうか。競りの会場で聞いた話では、リアンディートも礼儀作法は心得ており、また知識も豊富。確かにコンパニオンとしてはうってつけかもしれない。
「特に奥さまは魔法のお話がお好みなんです。ご自身も相当ご造詣が深いんですよ。私も、ある程度は魔法や魔法史を学んでおりましたので、そこがお気に召していただいたのだと思います」
「まあ、魔法のお話というと、例えばあの理論が……」
「あー、そうそう、その話題は興味深いですよねー。私もちょっと研究したことがあって……」
「そういえば250年前に、あの術式が発見されて……」
話題に花が咲いている。
――のだが、つまり、その。
アンジェも、ラフィーネさんも魔法使いだから。
この場で、魔法の話題について行けないのは私だけなのだった。
むー。
少しだけ冷えたお茶を飲む。飲む以外にすることがない。さっきまでは美味しかったのに、なんだか急に味が褪めた気がする。何度か無理やり、話に相槌を打ってもみたが、すぐに置いて行かれる。興味はあるのだが、話の内容が専門的すぎて理解が追いつかない。
でも、アンジェもラフィーネさんも、とても楽しそうだ。
……とても。……楽しそうだ。
それは、いいんだけど。
でもそれは、私からは与えることができない、楽しみなわけで。
私とは関係のない部分で、彼女たちは喜んでいる。
なんだろう、なんか、胸の中が、重たい。お菓子、食べ過ぎたのかな。
隣にいるアンジェが、ひどく遠くに感じる。体温さえ伝わりそうな距離なのに。
別の場所から彼女たちを見ているみたいだ。
アンジェが笑っている。楽しそうに笑っている。黄金の瞳をキラキラとさせて。
高揚したように、身振り手振りも含めて話し込んでいる。
私には。アンジェは、私にはあんな姿を見せてくれたことはあっただろうか。
私の前では、いつも彼女は控えめで、おとなしくて、……でも、どちらが本当の彼女?
あの可憐に弾んだような声は、何故私には向けられないのだろう。
何故私以外の人に、彼女はそんなにも光が零れるような笑顔を捧げるのだろう。
彼女の輝く瞳は何故――私以外を映しているのだろう。
ねえ、あんじぇは、わたしとじゃなくても、しあわせなの?
はっと我に返り、何をバカな、と慌てて首を振る。何をつまらないことを考えているのか。幼稚なガキ丸出しの、そんな無意味な嫉妬……
と、そこまで思考がぐるぐるとしたところでようやく思い当たり、
――ああ、そうか。
熟れる前の果実を口にしたような苦い笑みが、私の口の端に浮かぶ。
……私は、嫉妬していたのか。
ほんとに子供っぽい。自分の実年齢考えろ。アラサー女の反応か、それが。まるで中身まで外見と同じ17歳になってしまったみたいじゃない。いくら精神が肉体に引っ張られるって言っても、それはない。ないよ。
こつん、と自分の額を叩く。自分を抑えようとしたその行為が、しかし、アンジェの注意を引いたようだった。
アンジェがふと私の方を振り返り、小さく微笑んだ。
その、他愛のない微笑みに。
――私は、自分の血が醜く淀んで行くのを、感じた。
だってまるで。
――どうですか、ご主人さま。どんなお気持ちですか? 私が、さっき味わった、その気持ちは。
……そんな意味の、笑みではないかと。
たった一瞬でも、思ってしまったから。
もちろんそんな馬鹿な話はない。アンジェがそんなタチの悪い仕返しのような、歪んだ復讐のような、愚かで卑劣な行動をとるわけがない。そんなことはない。ないんだ。
それは私の中のくだらない惨めで哀れな僻み根性がもたらした、鬱陶しい被害妄想に過ぎない。自分に重ね合わせているだけだ。私だったらそうするかもしれないから。つまり私自身が卑劣だから。どこまで薄汚いの、私。
アンジェは違う。この優しい少女はそんなことはしない。
ああ、だけど。頭では分かっている、分かっているけれど。
心が、言うことを聞いてくれないよ。
うつむいた瞳の奥が、じわりと熱くなる。
何だろ。泣くのかな。私。みんなが楽しんでいるこの場所で、いきなり泣くのかな。最低だ。
壊れかけていた私を、その時、危うく救ってくれたのは、五点鐘の鐘だった。清らかな響きが私を現実に引き戻す。同時に、アンジェたちも時間に気付いたようだった。
「あら、もうこんな時間に。奥様をお待たせしてしまっているかもしれません」
リアンディートが慌てて立ち上がる。客観的にはそれほど長時間油を売っていたわけではないけれど。
それに続いて、ラフィーネさんも席を立つ。
「あ、私も聖務があるんでした。そろそろ失礼しないと。ラツキさん、聖務官になるためのお勉強については、今度わかりやすく調べてまとめておきますから」
「……じゃあアンジェ、私たちももう行きましょう。明日からは5階層に挑戦だし、準備をしておかないと」
暗鬱な気持ちをなんとか抑え込んで、みんなでお店を出る。平気なふりで。気付かれていないだろうか。
二人と別れて、私とアンジェは歩き出す。ちらりとアンジェの様子をうかがう。軽い足取りに、明るい表情。それがなお、私の心に突き刺さる。
「……アンジェ。さっきは、……ごめんね。私が悪かったわ」
「はい?」
重い口を開いた私に、きょとんとしてアンジェは長い睫毛を瞬かせる。ややあって気づいたらしく、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「いいえ、ご主人さま。あのくらいで、その、あんな態度を取ってしまった私が悪かったんです。申し訳ございませんでした」
「じゃあ、今は何とも思ってない? 怒ってない?」
「もちろんです。ふふ、それに、今日はとても楽しかったですし」
楽しかったのか。そう、楽しそうだった。私以外の人に対して。
だから、アンジェは今の私の状態に気付いていないのか。こんなに傷ついた私のことを。
……いつまで引きずってる。いいかげんに切り替えろ。ほんのちょっとしたことを針小棒大に受け取って、ウザいにもほどがあるぞ、私。
情動に流されそうになる17歳の私を、アラサーの私の理性がギリギリで引きとめる。
もし。もしブレーキが効かなかったら、私はもしかしたら、破局的な言動に出てしまったかもしれなかった。醜く自分を爆発させてしまっていたかもしれなかった。
なんとかそんな愚かな結末は回避できたけれど、でも。
それは無理に抑えているだけで。結局、私の中の重たく固まった熱く冷たい何かは、いつまでも私の中から消えてくれなかった。
その夜、初めて、私とアンジェとはうまく愛し合えなかった。
これまでは何度でも、お互いに歓喜と悦びの限りを尽くすことができたのに。お互いの中にお互いを溶け合わせていくことができたのに。その夜だけは、私が昂ぶって行けなかった。
「……あの、どうかなさったんですか、ご主人さま。私が……何か、どこか、良くなかったでしょうか」
不安げに尋ねてくるアンジェに、私は、なんでもないの、と疲れた笑みを返すことしかできなかった。
腕の中のアンジェの重みと温もりが、今は何か、辛い。
……そしてその私のわだかまりが、結果的には私自身に、恐ろしい危機として跳ね返ってくることになる。




