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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
16/84

聖王と光芒剣

 六点鐘の鐘が荘厳に響く。日本時間でいえば夕方の4時くらい。

 日中は脈打つ心臓の鼓動のように人波の絶えることのない聖都の町並みだったが、そろそろ普通の人々は家路に急ぎ始める頃合い。油は高価なので、日が沈んだらほとんどの庶民はそれほど遅くまで起きてはいないのだ。

 こんな時間にまだのんびりとうろついているのは、だいたい堅気ではない商売の人だ……つまり登攀者とか登攀者とか。あと聖務官とか。


 その堅気ではない商売をしているものが、そろって所在なさげにぼんやり突っ立っている。つまり私とアンジェとラフィーネさん。場所は聖殿前広場、大泉水の傍らだ。


 私たちの指には金色の指輪が光っている。毒を無効化するEXアイテムだ。もちろんそれと伝えてはいないが。外見はあえて、そこらの道具屋で、ちょっと背伸びをすれば買えるかな、という程度にありふれた地味目なものに抑えてある。そのためだろう、男爵の御屋敷に行くんだから、このくらいのアクセは付けないとね、と言って渡したところ、二人とも疑う様子もなくすんなり受け取ってくれた。だがそれはそれでちょっと寂しくはあるのだが。


「あ、来たようですよ」


 ひょいとつま先立ちをして、その指輪を光らせつつ、掌を眉のあたりに当て遠景を望んだラフィーネさんが告げる。

 通りの向こうから石畳に重々しい音を響かせつつ姿を現したのは、2頭立ての4輪馬車。黒い車体に黄金の装飾を走らせた、一見して貴人の乗用とわかる豪華な仕立てだ。車輪には丁寧に動物の皮と思われるものが何重にも巻きつけてあり、音と振動を抑えているという贅沢さ。引く馬も艶やかな毛並みで逞しい。


 私たちの手前でその馬車は静かに止まり、車室の扉が開かれた。中から礼装に身を固めた初老の男性が降り立つ。彼は私たちに深々と一礼すると、魂魄板を差し出した。

 登攀者の使っている聖殿紋が入ったものではなく、メガックさんの使っているような市販品だが、それよりもずっと上等に見える美しい装飾入りのもの。そこに男爵本人の魂魄紋が映し出されていることをラフィーネさんが確認した。男爵は元登攀者であり、また現在は外交官でもあるので、身元を示すためにもその魂魄紋は聖殿に登録されているということだった。


「私はレグダー男爵家の使いの者でございます。ラツキ・サホ様と、ラフィーネ4等聖務官様。そしてアンジェリカ様でよろしいでしょうか」


 頷く私たちを彼は馬車に導き入れる。いつものミニスカではなく、古着とはいえ一応ロングドレスを着てきたので若干動きづらい。もっとも、元貴族であるアンジェは、さすがに物慣れた様子で鮮やかに艶やかにドレスの裾を捌く。思わず見とれてしまうほど。

 アンジェは先に乗り込んだ私が見つめているのに気付くと、顔を上げて微笑んだ。

 この美しい微笑みは、誰にも穢させるものではない。男爵とやらがどんな意図を有しているのであってもだ。




 閑静な郊外に男爵の広大な邸宅はあった。その贅を凝らした作りや巨大さについてはいちいち語るまでもない。ただ一言、凄い……そう、凄い成金趣味だと言えば済む。


 ただし、ただ一点、素直に感嘆すべきものがあった。それは、邸宅に一歩足を踏み入れた途端に目に入った、驚くほどの武具の数々である。剣、刀、槍、矛、斧、戟、弓、薙刀などのメジャーな武器から、 鉤鎌槍(こうれんそう ) 鳳翅刀(ほうしとう ) 護手双鈎(ごしゅそうこう ) 日月乾坤刀じつげつけんこんとう 狼牙棒(ろうがぼう )などの稀有器械、また鎧や兜、盾なども、磨き上げられた輝きを放って見る者を圧倒する。いずれも相当の逸品であることは、アナライズのスキルなど使わずとも、素人目にもわかるほどの存在感だ。男爵が武具の愛蔵家だとは聞いていたけど、これほどとは。


 目を見開きつつ、陳列された武具の林の中を通り、通されたのは大広間と思しき壮麗な一室。

 重厚な輝きを放つ両開きの扉が恭しく使用人の手によって開かれ、進み出た私たちの前に、その男が立っていた。


 レグダー男爵。その人が。


 ちらとラフィーネさんを窺う。彼女は頷く。帝国の聖都駐留官、すなわち外交官である男爵の顔は良く知られ、ラフィーネさんも見知っている。本人だ。しわがれていながら妙に響く声が耳に届く。


「ようこそ、ラツキ・サホ殿。儂がステューヴォ・レグダーだ。招待を受けていただいたこと、感謝する。御目にかかれて嬉しいよ」


 あー。なんか学生の頃、学校で見たな。そんな感想が浮かぶ。主に理科室で。

 骸骨に薄い皮を申し訳程度に貼り付けたような。そんな表現でだいたい伝わるだろう。くすんだ色の肌の下には肉など存在しないかのようだ。眉毛も睫毛もほとんどないにもかかわらず、白髪は豊かに肩まで流れ、髭も胸元まで垂れるほどに長い。枯れ切ったようなその姿の中で、灰白色の目だけがギラギラと、精気と欲望に満ちた輝きを放っている。アンバランス――滑稽と紙一重で不気味といえる不整合。それがレグダー男爵という男だった。


「ラツキ・サホです。一介の登攀者という卑賎の身でありながら、男爵閣下の御招待の栄に浴し、恐悦至極です。礼もわきまえぬ野育ち故、不作法をお許しくださいますよう」


 一応頭を下げる。もっとも、その私の声音は冷え切っており、文言とは裏腹の不快な感情を隠す気はない。が、男爵もまた、私の無礼な態度に拘泥する様子は見えなかった。お互いがお互いへの悪意に満ちているのはわかりきっている。その上での猿芝居だ。


「なに、構わぬ。今宵は儂が個人的に君たちを呼んだ、非公式のいわば無礼講だ。礼節などにこだわる必要はない。知ってもおろうが、儂も元は登攀者でな。堅苦しい席など元々好かぬのだ」


 男爵は長大な食卓へと私たちを案内した。片足を引きずり、透き通った光を放つ巨大な宝石を付けた杖をついている。怪我が元で登攀者を引退したというが、その傷だろう。


「ではこちらへ。サホ殿、聖務官殿、そしてそちらのお嬢さんも」


 低くひび割れた声を掛けられ、アンジェは驚いて首を振った。


「わ、私は奴隷でございます。畏れ多くも男爵閣下と御同席など、出来る身分ではございません」

「いやいや、儂は君の身分に対してではなく、君の中に流れる血に対して敬意を表しておるのだよ――アンジェリカ・オヴライト嬢」


 アンジェが微かに身を震わせる。私はその隣で、無造作に汚い手が宝物に触れたかのような嫌悪感を衝撃と共に味わっていた。

 オヴライト? アンジェリカ・オヴライト? それが彼女の名? 私が知らなかったアンジェの名だというのか。この私の……誰よりも彼女に近いと思っていた私の知らなかった名だと。


 それは軽い敗北感でもあった。よりによってこの男の方が、私よりアンジェをよく知っている! それは当然のことではあっても、同時に不快極まりない事実だった。アンジェが奴隷となった経緯については辛いことでもあるだろうから、無理に聞き出そうとは思わず、これまで触れないでいた、その結果だとはいえ。


「今の私は奴隷の身。オヴライトの姓は剥奪された、ただのアンジェリカでございます」

「その尊い家系は君の一時期の境遇で左右されたりはせんよ。だがまあ、君自身が望むならば今は奴隷身分として見てもよいが、それにしても招待主である儂自身が許している無礼講なのだ、席についてはくれぬかね」


 まあ、こちらとしても、アンジェが近くにいてくれた方が守りやすくはある。私は彼女を促した。


「有難くお受けしなさい、アンジェ……アンジェリカ」

「……は、はい」


 男爵と対面に私が、その左右にアンジェとラフィーネさんが座する。ちょうど一息ついたほどの見事なタイミングで、料理が運ばれてきた。


「面倒な話は後にしよう。まずは心ばかりの馳走を賞味いただきたい」


 ――まあ何というか、いちいち羅列するのも大変な、それは山海の珍味の山だった。

 肉や魚のパテ、ソーセージ、挽肉詰めの鳥料理に続いて、肉と魚のシチュー、何種ものステーキに焼き魚、香草を散らしたとろりとしたスープが数種類など。質も量も申し分ない最高級の料理だったと認めざるを得ない。この世界はおろか、前の世界でだって、私こんな豪華なご飯食べたことないよ、くそぅ。


 ラフィーネさんはマスクの上からでもわかるトロ顔で堪能している、この人、甘味だけじゃなく、美味しいもの全般に弱いんだな。

 一応いちいちアナライズを使っていたが、毒の混入されている形跡はなかった。

 だが、そんなことよりも、私は致命的なミスを犯してしまっていた。何故、何故あのスキルを取得しなかったのか。悔やんでも追いつかない。……ああもうほんと、テーブルマナーのスキル取っておくんだった。


 元貴族のアンジェはもちろん、ラフィーネさんもなんか綺麗な手つきで食事を進めている。食欲魔人のくせにというか、食欲魔人だからこそなのだろうか。実は彼女もいいとこのお嬢なのかなあ。

 対して私は、慌てて『ソーシャル・リサーチ』でマナーを検索し、それを読みながら、アンジェたちの動きと照らし合わせて行動しているという、付焼刃にもほどがある状態。ボロボロだ。凹むわ、もう。


「さて、そろそろ本題に入ろう。まずは、心から謝罪をさせていただきたい」


 デザートが終わりかけたころ、男爵はゆっくりと口を開いた。と言っても、その口調に誠意など欠片もない。私のさっきの挨拶と同じ、空々しい形だけの儀礼だ。


「『儂の預かり知らぬこととはいえ』、我が家に仕えていた元用人がサホ殿たちに御迷惑をお掛けした事実は事実。家内を取り締まることができなかった不徳を痛感しておる。僅かばかりではあるが、サホ殿には儂から償いを用意してある。受け取っていただきたい」


 男爵が微かに手を振って合図すると、使用人が前に進み出、美しいトレイを捧げる。油紙に包まれた金貨。100枚といったところか。茶番もいいところだが、遠慮するのもバカバカしいので素直に受領する。


「その元用人、既に処刑されたそうですが、死の間際まで何やら妄言を喚き立てていたと聞きます。男爵におかれてはお聞きおよびでしょうか? ……自分は男爵に命じられただけだと、ね」


 軽くジャブ。もちろんその程度では相手は痛痒も感じないだろうけど。


「法の外に置かれた盗人とはいえ、哀れなものだな。死の恐怖で錯乱するのは良くあることだ」

「ええ、錯乱でしょうね。このように見事な御屋敷の中に、値段の付けようもないほどの素晴らしい武具がいくつも飾ってあるにも関わらず、金貨250枚だけを盗んだのですから、まさに錯乱というべきかと」

「……ああ、確かにな。もし彼奴がこの儂の秘蔵の品々に手を掛けていたら、儂自らが冥府に送っていたことだろうよ」


 男爵はやや目を細めた。と言っても、不自然な行動を指摘した私の言葉が痛いところを付いた、というわけではないらしい。武具を盗む、という、その考えが気に入らなかったようだ。


「サホ殿も、登攀者であれば武器武具の素晴らしさは良く御存じのことと思うが」

「それは、まあ。自分の命を守るものですから、重要ですが」

「確かに自分の命を預けるものだ、いわばかけがえのない相棒ともいうべき存在。だがそれだけではない!」


 男爵はくわっと見開いた目を爛々と輝かせ、語気鋭く言った。今までの悠然とした態度が嘘のような膨れ上がるほどの気迫が満ちる。え、なんかスイッチ押しちゃった?


「思うて見よ、武器とは命を奪うためのもの、いわば禁忌の極致、穢れの最たるものよ。だが同時に、ことに剣であるが、聖なる象徴として敬われ、高貴なる地位の証としても尊重される。なんたる矛盾! それゆえになんたる素晴らしさであることか!」


 両手を広げ、興奮した口調で滔々とまくし立てる男爵。その目にはすでに病的なとさえ言えるほどの熱量が籠る。ヤバい、こいつイッちゃってる系だ。


「さらにだ、この上もなく実用性を重んじられることから、徹底した機能性を元に作られるものでありながら、それがすなわち華麗な形をとりうるという、これも矛盾だ。尊い矛盾だ。芸術品としての矛盾である!」


 私もアンジェもラフィーネさんも、互いに目を見合わせて動きが取れない。ドン引きだ。これ、どうしたらいいんでしょう。この世界に救急車ないですか。


「そして何よりも、それは歴史だ。歴史を作り切り開き、歴史を形作るもの。ヒトの死と生と無念と希望と怨念と憧憬が同じ対象に込められた、歴史の証。それこそが武器なのだ!」


 拍手でもすればいいのかこれ。お捻りでも投げる?


「……失敬。つい少々興奮してしまったな。しかし、それほどに儂にとって、武器武具とは素晴らしいものなのだよ。登攀者となったのも、元は存分に武器を扱いたかったからだ」


 ようやく少し落ち着いたか、男爵は乗り出していた身をやや深く椅子に預け直す。だが、その目は相変わらず、いやこれまでよりさらに狂気じみた光を宿している。今までの高揚した状態よりも、その一見穏やかな様子こそが不気味さを醸し出す。夏の嵐が暴れ始める寸前の、じっとりと湿り淀んだ重苦しい大気のようだ。


「そんな儂が、この生涯を賭け……そうだ、文字通り一生を費やして追い求めてきた武器がある。それさえ手に入れば、もう他のものなどいらぬ。そう思えるほどのものがな」


 低く呟くように男爵は言うと、ゆっくりと灰白色の瞳を上げ、そしてその視線を私から他者へ移動させた。見るものを竦ませるような、重く暗鬱な情念に満ちた、どろりとした視線を――アンジェの元へ。




「だからだ、単刀直入に言おう。儂に、譲っていただきたい――君の、光芒剣を」




「光芒剣……!?」


 期せずして私たち三人の声が同調する。

 光芒剣。それは、かつて私がアンジェのスキルを調べた際に見出した名だ。あれからも何度か私はその詳細について調べようとしたが、驚くべきことに私はそのスキルを開くことができなかったし、複写することもできなかった。


 人を調べるスキルの効果は、その相手の防衛意識に関わりがある。だから、もしアンジェが「光芒剣」なるものに対して強い防衛意識を有しているのだとしたら、あまり干渉しないほうがいいと思い、それきりにしていたのだ。いつか改めて彼女と話でもしようと考えながら。

 だが、アンジェのみならず、ラフィーネさんもその名を知っていたのか。


「こ、光芒剣とは、聖王陛下の愛剣と伝承に謳われる、あの光芒剣のことでしょうか。まさかそれが実在するなどと……いえ、それがアンジェリカさんに関わりがあると仰るのですか」


 ラフィーネさんが立ち上がらんばかりの勢いで男爵に問う。マスク越しにでも彼女の興奮が伝わる。

 聖王。それも何度か聞いた名だったけれど、適当に聞き流していたが。

 男爵はラフィーネさんの問いに鷹揚に頷いた。


「左様、聖王と常に共にあり、乱世を統一し、塔の百階までを制覇した偉業の証。いや、歴史そのものであると言ってさえいい剣。彼女が、そしておそらく彼女だけがその所在を知るものだ」

「は、甚だ失礼ではございますが」


 アンジェが蒼白になって答える。


「何かの……何かのお間違えかと存じます。私はそのような尊き品のことなど、何も承知いたしておりません。まことでございます」

「いや、そんなことはあるまい、アンジェリカ・オヴライト嬢」


 男爵の目はもう随分と瞬きさえしていない。そこには常軌を逸した執着があった。じっと獲物を見据える捕食者のような眼光がアンジェを射抜いている。




「君が知らぬはずはないのだ。なぜなら君は唯一の――聖王アンジェリカのまさしき子孫なのだから」




「な……!?」


 ラフィーネさんが絶句し、アンジェが息を飲む。震える唇で、アンジェは必死に言葉を紡ぐ。


「わ、私の名は確かに畏れながら聖王陛下の御名にあやかったものでございますが、聖王陛下の正嫡の御子孫は別におわします。フェルゲイン帝国公爵家であらせられると承知しております。我が家のごとき、零落した家柄が聖王陛下の御血筋を受けているはずがございません」


 だが男爵はしわがれた声で含み笑いを漏らしながら、不気味なまでに細い首を振った。骨の軋む音がキィキィと聞こえてくるような錯覚に陥る。


「フェルゲイン公爵家は男系の正嫡だな。君の家系は女系の正統。すなわち聖王アンジェリカの長女ミカエラから母系で繋がる家柄なのだ。無数の史書史料や家系図を何十年にも渡って調べ尽くし、ようやくたどり着いた結論なのでな。間違いはない」


 男爵は枯葉のような唇を歪めた。彼以外のものだったら、それは笑顔と呼べる表情だったろう。

 最前まではむしろ滑稽味を帯びていたその痩躯が、今は狂気を含んで威圧的に揺らめいて見える。食卓を挟んでいるにもかかわらず、いまにも幽鬼のように掴みかからんとしているようにさえ感じられるほどに。


「だからだ。だからこそ、君は光芒剣の所在を知るはずだ。女系の正統な血筋にそれは受け継がれる。そう伝えられているはずなのだ」

「い、いいえ!」


 アンジェはその気迫に怯えつつも、懸命に否定する。


「そのような御品があれば、オヴライト家は潰れはいたしませんでした。私も奴隷に身を落とすこともなかったはずでございます」

「左様、今はその手に持っておらぬかもしれん。だが、何かは伝わっておろう。隠し場所を書した地図か、その場所を示す言い伝え、暗号のようなものか、長い年月の間に意味は忘れ去られたとしても、示唆する何かがあるはずだ」

「ご、ございません。本当でございます。思いつくものは何も」


 ついに悲鳴のような声を上げたアンジェになおも男爵が迫ろうとした時、私は席を立った。


「男爵、そこまでにしていただけますか」


 明確な敵意……いや、殺意のこもった眼光が私に向けて放たれた。一瞬だけだが、圧倒されそうになる。男爵は47階層まで登った経歴を有する本物の実力者だ。まして、彼の現状はとてもまともとは言い難い。

 

 無論私は、やろうと思えば瞬きする間もなく男爵を殺せる。そう、殴り合い、殺し合いができるなら、その方がはるかに気楽だっただろう。戦場となれば私の中のスキルが私を後押ししてくれる。

 だが神経戦ではシンプルに純粋に、メンタルが、メンタルのみが試される。スキルによるフォローもなく、私の中の私自身だけでこの男に立ち向かうことを求められるのだ。


「その者の主人は私です。私の頭越しにアンジェリカにお話をなさらないでいただきたい」

「……ほう」


 灰白色の瞳の中、きゅっと瞳孔が縮小する。歯牙に掛けぬ、というよりも、取るに足らぬ何かが口を挟んだ、そんな感情を映して。

 そうか。

 この男は、私にもアンジェにも、そして自分の部下だったネズミ男にも、およそ人というものに存在価値を見出していない。ただ武器に取り憑かれた、いや正しくは武器という名の自己の内の妄想に支配された男なのだ。

 ――恐ろしく、そして惨めな男。


「なお付言いたしますが、アンジェリカはその剣につき、知らないと申しております。彼女は偽りを申し上げるようなものではありません。それをお疑いになるのは、彼女の主である私の顔に泥を塗るもの。まさか男爵閣下ともあろうお方が、自ら招いた賓客を侮辱なさるはずもありますまいが」

「そ、そ、それにですね」


 私に続き、ラフィーネさんが口を添えてくれる。


「1000年も前の品が容易く見つかるとも思えませんが、もし仮に光芒剣が発見されたとしても、それは帝国の国宝か、あるいは聖殿の聖宝か、どちらかの扱いになると思われます。それほどに貴重な品です。いずれにせよ、残念ですが男爵個人の所有にはならないのではないでしょうか」


 男爵はしかし、喉の奥からこぼれるような声を漏らして侮蔑的に笑った。


「なに、簡単なこと。誰もしゃべらねばよい。あるいはしゃべれぬようにすれば。人の口などたやすく閉じるものですぞ、聖務官殿。暴力でも、権力でも、そして金でも。それは聖殿であっても例外ではあるまい」

「不遜な!」


 ラフィーネさんが激昂し、真紅の髪を逆立てるようにして食卓を叩きつけ、立ち上がる。そりゃ駄目だ、この人に対して聖殿を馬鹿にするのは地雷原の中でバタフライするようなものだ。

 だが男爵は人を食ったように両手を上げて彼女を見上げる。


「冗談口だよ聖務官殿。最初に、この場は非公式の無礼講と申し上げたはず。酒場にでも行ってみるがよい、みな口々にこの程度の不敬な冗談は飛ばしている。聖殿はそれらをみな検挙するおつもりかね? 牢がいくつあっても足るまいな」

「くっ……!」


 歯軋りどころか奥歯全部を噛み砕きそうな形相で男爵を睨みつけるラフィーネさん。いつも、どんな感じだろうと想像している彼女のマスクの下の素顔だが、今は考えたくない。多分夢に出てうなされるようなアレなものになっているはず。


「答えが前後したが、サホ殿。ではアンジェリカ嬢の主たる君に願おう。アンジェリカ嬢が光芒剣に関する何らかの手がかりを掴んだ、あるいは思いだしたなら、それを儂に譲っていただきたい。謝礼は君の望みのままに、いかなるものでも」

「……いかなるものでも、ですか」


 機械的に無機質に、私は繰り返す。男爵はそれに頷いて、続けた。


「自ら言うのも口はばったいが、味方にすれば儂ほど頼れるものはそうはおらぬ。金銀財宝が望みなら糸目は付けぬし、登攀者としての成功を望むなら、それこそ一級品以上の武器装備、また選りすぐりの随伴奴隷も差し上げよう。あるいはいずこかの国の正騎士として紹介しても良い。立身出世することも思いのままだ、どうかね?」

「確かに、いくつか所望のものはございます」


 私の言葉に、男爵は身を乗り出した。


「言ってみたまえ、遠慮することはない」

「では」


 唇を開き、私は氷点下に凍てついた声音で言葉を叩きつけた。


「まず、私の奴隷を怯えさせた、あなたのその濁った眼球を二つ」

「――何」


 男爵の表情が固まる。対照的に、私は薄く笑みを浮かべた。嘲笑の名で呼ばれる笑みを。


「次に、私の友人を愚弄した、あなたのその薄汚い舌を一枚」


 男爵は微動だにせず、その灰白色の薄気味の悪い瞳を、真っ直ぐにただ私に向ける。


「そして、あなたのその死に損ないのガラクタ心臓を一つ。それを今すぐこの食卓の上に並べて下されば、多少は考慮いたしましょう。考慮した上でお断りするかもしれませんけれどね」


 相手は息をしているようにも見えなかった。ただの干からびた死体のように。毛筋一本動かしもせぬまま、しかし彼の内側で何かが変質し、それがゆっくりと確実に満ちて行くのがわかる。それはおそらく、冷え切った憎悪、醒めた憤怒とでも言うべき怪物の蠢きであっただろう。


「……なるほど、なかなかに、いや、とても楽しい人のようだな、君は」


 しばしの後、男爵は緩やかに手を広げ、驚くほどの柔和な笑みを浮かべた。その瞳はガラス玉のように硬く、温度をなくしたままで。


「無礼講と仰っていただきましたから。酒場にでもお越しになれば、この程度の不敬な冗談はいくらでも聞ける、……でしたかしら?」

「ああ、確かにその通りだ。もっとも、酒場では、ただの冗談と思っていた一言が原因で命の奪い合いになる争いが往々にして起きるのも、また事実だがね」

「まあ、それは怖いこと。気を付けなければなりませんね、私は酒の癖が悪いので、手加減ができませんから。たとえお年寄りでもお偉い権力者様でも、うっかり間違って首をへし折ってしまいかねませんもの……こう、このようにして、簡単に」


 男爵に対してまっすぐ手を差し伸べ、空を掴み、その手を捻る。無頓着に、無慈悲に。ちょうど男爵の首のあたりの高さで。


 静寂が満ちた。誰ひとり言葉を発することはおろか、身じろぎもしないままで時が過ぎる。

 やがて、男爵は長い髭をしごきながらゆっくりと立ち上がった。


「……実に有意義な食事を過ごさせてもらった。しかし、そろそろ時間も遅いようだな。まことに名残惜しいが」

「はい、夢のようなひと時でした。感謝いたします、男爵閣下」


 私たちも席を離れ、男爵に一礼する。空を裂くような視線が投げつけられているのを感じながら。





 馬車は私たちを聖殿前で下ろすと、再び石畳を蹴って男爵邸へと戻って行った。

 夜は既に更け、街は静まり、夜風は優しい冷たさで大地を覆う。いかにやくざな商売の登攀者たちといえども、この時間ともなればそれほど行き来は多くない。まあ、それでもいないわけではない、というのが本当にやくざな稼業だが。


「なんか、色々な事がありすぎて、せっかくの御馳走もどこに入ったのかわかりませんねぇ」


 ふう、と夜の大気の中へ大息をついて、ラフィーネさんが呟くように言う。アンジェはうつむいたまま、まだ千々に乱れる思いをまとめきれていないようだ。私はそっとそんなアンジェの肩を抱く。彼女は私の顔を見上げ、弱々しく微笑んだ。


「ご主人さま。私、本当に、わからないんです。聖王陛下の血統ということも、光芒剣のことも」

「いいのよ、アンジェ。あんなクソジジイのボケの入ったたわごとなんか真に受けなくても」

「あはは……ラツキさん口悪いです」


 ラフィーネさんは力なく笑ってから、しかし真面目な口調になる。


「とはいえ、真実かどうかはともかく、男爵自身はそれを信じている、というのは確かなのでしょう。そこが面倒な部分ですね」

「……でもまあ、とにかく今日は疲れましたし、当分はこの問題は忘れてゆっくりしましょう」


 私はアンジェとラフィーネさんの背に手を回し、聖殿の中へやや強引に導きながら、心にもない言葉を吐いた。二人はきょとんとしている。まあ彼女たちは男爵の持っている力を知らないからね。あの、聖遺物の力を。


 男爵の手に持っていた杖の頭に嵌めこまれていた大きな宝石。あれが男爵の力の正体だ。これ見よがしに見せびらかしてくれていたので、こちらとしても『アナライズ』のスキルを遠慮なく使わせてもらいました。


 聖遺物『龍の醒眼』。希少価値が高く、ほとんど60階層以上でしか取得できない聖遺物だが、非常に稀に、45階層を超えたあたりで得られることもあるという。そう、例えば47階層などで。いわゆる小数点以下の確率で、ってやつね。


 それは室内外に関わらず任意の場所の光景と音声を映し出す能力を持つ。効果範囲は半径1・5kmとなかなかのものだが、その分、非常に魔法には弱く、ごく初歩的な結界や魔法防御も突破できない。聖殿や塔には当然のように強力な魔法結界が張られているので、聖殿や塔に入ってしまえば男爵の目は届かないのだ。

 加えて、使用者にかなり多大な負担を強いる。そのため長時間の継続的な使用は困難で、日がな一日そこらじゅうを覗きまくっているというわけにもいかないようだ。男爵のあの亡霊のような姿は、これを長年使ってきたことの反動なのだろう。

 

 だが、それをアンジェとラフィーネさんにどこまで話していいものかが、また迷う部分。全部説明すると、今度はなんで私がそれ知ってるの、ってことになっちゃうし。

 一応、聖殿に入ってから、「様々な噂を聞くと、男爵はおそらく何らかの魔法で遠隔視を行っている可能性があるから、大事な話は場所を選ぼう」というくらいのことをささやくと、二人とも少し強張った顔で頷いてくれた。


 さて、相手の意図と手の内はだいたい分かった。しかし、私の方からの仕掛けはむしろこれからが本番だ。

 私は、新たに入手してきたEXスキル――『ディレイ・サイト』と『ディレイ・ヴォイス』を、相手方に「置いて」来ている。「付けてきた」と言ってもいい。

 これらは、いわば盗撮カメラと盗聴機のスキルだ。男爵個人に付きまとい、彼の言動を私に転送する。彼の聖遺物とは異なり、私に負担はかからず、魔法防御も無効化し、距離も問わず、持続時間も解除するまで無制限。


 ただし、これも『パーソナル・リサーチ』などと同じように、相手側の防衛意識が強いと付けられない。一旦付けてしまえばあとは機能し続けるのだが。なので、起動させるときだけは多少相手の自意識の壁をぐらつかせる必要があった。例えば、……「すごーく怒って我を忘れちゃう」とか、ね。


 そう、だから私は、なるべく男爵を怒らせたかった。結果としてそれは成功したけれど、ただ、アンジェを幾度も襲い、またラフィーネさんを侮蔑したことに対して、私が心底ムカついていたのも事実。だから、あの場でのやり取りは、必ずしも計算だけのものではなかった。


 ……いやまあ、実際にはその前、男爵が武器について語りまくりテンション上げ上げの時にも、多分思いっきり我を忘れてただろうから、付けられたとは思うんだけど。でもあの時は私自身が度肝を抜かれてしまって、それどころではなかった……。


 と、とにかく。男爵の行動を監視できるようになったからと言って、すぐさま相手の弱みを握れるというわけでもないだろうし、ある程度はじっくり腰を据えてかからなければならないだろうけれど。ただ、相手がこちらに不意打ち的に攻撃を加えてくる可能性は、ある程度潰せたと言っていいだろう。とりあえずはそれで良しとしようかな。


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