買い物と襲撃
オークションが終わった翌々日の朝。
アンジェリカは私の腕の中にいなかった。
状況を認識できるようになるまでしばらくぼーっとして、そして次の瞬間、私はバネ仕掛けの人形のように寝台から跳び起きた。
「アンジェッ!?」
「は、はい、ご主人さま?」
悲鳴を上げた私を驚いたように振り返るアンジェを見て、思わず安堵のあまり全身から力が抜ける。
彼女は部屋の片隅でただ身だしなみを整えているだけだった。アンジェの目の前にはぼんやりとした空気の渦、そそしてキラキラと光る鏡。いや、光の塊だ。
これは彼女の使う魔法。風魔法で空気の溜まりを作り、光魔法で反射させて、鏡を作り出す『風の娘よ、光の子と戯れてあれ』。
魔法を使っているアンジェの背中からは、服を透過して光の翅が。そして、頭上には光輪が輝いている。天使族が魔法を使う時にはこの翅と光輪が現出するのだという。初めて会ったときは魔法封じの措置をされていたから出なかったが。
わあ、ほんとに天使なんだ、と、これを教えてもらった時は感動したものだった。「アンジェリカ」って名前も天使そのものだし。異世界なのになんで元の世界と同じ語源? と思うことは思うが。
二属性の魔法を同時に使いこなすのは大変だし、いっぱい練習しなきゃいけないんですよ、とアンジェは幾つかの魔法を見せてくれながら、ちょっと得意そうに言っていた。くそっ可愛い奴め。
「アンジェ、こっち来なさい」
「は、はい?」
きょとんとした顔で寄ってくるアンジェをいきなり抱き締める。
「ご、ご主人さま!?」
「私が起きるまで、私の側から離れちゃだめ」
「で、でも、ご主人さまに寝顔を見せるなんて、奴隷としては良くないことだと……」
「だめ。ずっと私と一緒にいなきゃだめ」
駄々っ子か私。いやでも。ほんとに怖かったんだもん。彼女がいなくなったのかと思って。トラウマがね。いやいいんだけどね。昔の話だ。
「……はい、わかりました」
アンジェははにかんだように笑う。
「本当は、私もずっと、ご主人さまに抱きしめられていたかったですから」
――この子はどうしてこう、隙あらば私を殺そうとしてくるのか。
私は今、アンジェリカをアンジェと呼んでいる。彼女の家族が呼んでいた愛称らしい。アンジェは私にも、そう呼んで欲しいと頼んできた。おねだりしてきたというか。もちろんおねだりされましたが。
オークションが終わった後、私たちは聖殿に行き、誓刻をアンジェに打ってもらった。彼女の胸元には、小さな小さな、しかし確かなタトゥのような刻印がある。アンジェの美しい肌に、微かとはいえ傷をつけるのはややためらいを感じもしたが、アンジェ本人が嬉しそうにしていたのでまあいいか。痛みもないそうだし、刻印のデザイン自体も美しいものだ。
これで、私とアンジェは正式な主従となったのである。
聖殿の客殿に帰って、その後のことを詳述はしない。
しないが、ただ一つ言えることはですね。
ありがとう、ESスキル『性技・極:特級Lv10』さん。本当にありがとう!
――そういうことです。
あの清楚で可憐で健気なアンジェが。
あんな表情で。
あんな声で。
あんな姿態を。
……思い出しただけで、今もまたいろいろストッパーが外れそうになってしまうのを、必死で抑える。
――実際、昨日一日はまるまる抑え効かなかったし。
初めて一緒の朝を迎えた時の、消え入りそうなまでに恥じらった、でもうるうると目を潤ませて嬉しそうに見つめてくるアンジェの表情とかさ、そういうの見たらさ、またいろいろと止まんなくなるじゃない? なるのよ。なった。
……ただ、言えることは。
私はこれまで、アンジェを自分の頭の中の偶像――いわば理想化した姿で認識していたと言っていい。
だが、共に過ごした狂おしい久遠の刹那の中、私はアンジェの肌の柔らかさ、肉の重み、汗のにおい、喘ぐ声を聞いた。震える舌にまとわりつく唾液を味わった。誰も触れたことのなかった場所の熱さと溢れる蜜、指を締めつける蠢きを感じた。悶え、跳ね、反り返る肉体。それは生々しくも疑いようない、命を持ったアンジェの姿だった。
私はそのアンジェの生命を自分の中で味わい、そして一つとなって、彼女の存在に改めて出会ったのである。偶像ではなく、確固たる命の温もりに、美しい命の脈動に。
夜を共にするということは、そういうことだった。
とはいえ、いつまでも「いろいろなこと」をしているわけにはいかない。
私はあくまで登攀者として、『神々の塔』を征服するためにこの世界に来たのだから。
……というのが建前で、本音はそろそろ財布が寂しいから何かしなきゃ、というところだが。
私が持っていた資産が、オークション前の時点で金貨252枚と銀貨23枚、銅貨20枚。そこからオークション参加費として金貨1枚、アンジェを落札するために金貨250枚、また聖殿内客殿への宿泊費二日分に銀貨8枚。そのほか食費や雑費でもう銅貨10枚は使ってしまったから、現在の所持金は金貨1枚と銀貨15枚、銅貨10枚。金貨一枚で庶民一か月分の生活費だとは言うが、事実上そろそろお尻に火が付きかけている。これから登攀者としての身支度を整えるためにさらなる出費があるわけだし。
まあ、せめて高価な客殿に泊らなきゃよかったのにと言われてしまうとその通りなのだが、だって。せっかくのアンジェとの初めての夜を、その辺の安宿で過ごしたくはなかったんだもの。高級ホテルのスイートルームで迎えたかったんだよう。
……それに、この客殿はさすがに高級だけあって防音設備もしっかりしていたから。いろんな声とか音とかしても、外には聞こえなかった、と思う。あんまり。
まあとにかく、今日は塔に登るための支度だ。
……塔か。
「ねえアンジェ」
「はい、ご主人さま」
アンジェに髪を梳かしてもらいながら、私は言う。
「私は、塔の頂点を極めたい。登攀者のほとんどは、そこそこ上層階まで登ってお金を稼ぐことだけを目的にしている人たちだって聞くわね。でも私はそれだけじゃなく、あの塔の一番上まで行きたいの。無理だと思う?」
アンジェは手を止めないまま、しかし少し考えているようだった。
「ご主人さまならできます、などと軽々に断じてしまうのは、かえって無責任で失礼かとも思います。かつての聖王陛下でさえ為し得なかったことですから。けれど、その志の高さは、私は尊くて美しいものだと思います」
「ありがとう」
私は微笑した。単純な気休めの言葉を使わないのは生真面目なアンジェらしい。
「でも、そのためには、私だけじゃ無理。あなたにも頑張ってもらう必要があるわ」
「はい、もちろんです! この身に掛けて、ご主人さまをお支えいたします!」
ピン、と背筋を伸ばして気合を入れたのが背中越しにも伝わり、微笑ましい。
私は振り向いてアンジェと向かい合うと、彼女の眼を覗きこんだ。
「じゃあ、アンジェは強くなりたいと思うのね? もっと強く、もっといろいろなスキル……いえ、技術を覚えて、そうして私の力になりたいと思ってくれるのね?」
「はい、ご主人さま!」
言質を取った格好になる。ちょっと気が咎めるが、これでスキル起動条件は成就した。
「じゃあ、ちょっと眼を閉じて。お祈りしましょう、私たちの成功を」
素直に目を閉じ、手を組みあわせて祈り始めたアンジェに対し、私はスキルを起動した。
EXスキル『スキルコピー』。これは相手のスキルを私に複写するだけでなく、私の持つスキルを他人に複写することもできる。ただしそのためには、相手の承諾もしくは意識の低下が必要だが。
アンジェのスキル一覧を展開してみる。
天使族の種族固有スキルは、魔力強化の効果を持つ『光翅』と、精神集中強化の効果を持つ『光輪』。そして自由選択スキルには『一般生活』『一般運動』『一般言語』のNスキルの他、『風魔法・初級Lv9』『光魔法・初級Lv8』『聖魔法・初級Lv8』『刺突剣・初級Lv7』『高等教養・中級Lv3』『礼儀作法・中級Lv8』『舞踏・中級Lv3』が並んでいる。壮観だなあ。改めて、大した子だ。そりゃ値もつり上がるよ。
……いや、もう一つあった。
『性技・入門Lv 3』。
――えーと。
これは、この二日間のいろんなアレとかアレで付いちゃったのか。しかも一番ランク下の『入門』級とはいえ、もうLv3になってる。そんなにいきなり経験値上がるようなことしたかな。……したな。はいしました。ごめんなさい。
と、とにかくだ。天使族のスキルブランクは12。今アンジェは11埋まっているから、あと一つしかつけられない。危ないところだった。
だからまず複写すべきは、取得スキルの上限を解除する『リミットレス・キャパシティ』だよね。
ただ、ちょっと問題はある。
アンジェが多数のスキルを取得したとして、それを他ならぬアンジェ自身が不審に思うかもしれないということだ。だが今後のことを考えれば、アンジェにスキルを多く持ってもらった方がいいのも確かだし。
この世界の人にはスキルというデジタルな概念はないから、ある程度は個人差、たまたま器用なんだとかたまたま物覚えがいいんだで誤魔化せるかもしれないが、度を過ごすとまずいかもしれない。かといってアンジェに事情を話すわけにはいかないし。
うーん。その辺の調整ができるスキルが何かあればいいのだが。あとでクソ電飾のところに行ってみるか。
それと、スキルの成長を促進する『ラーニング・エンハンス』。これもなあ、絶対必要ではあるのだが、やっぱりアンジェ自身が不思議に思いそうだよねえ。
ただ、こっちに関しては多少融通が効くか。私はユーゼルクの存在を思い出す。彼はまだ若かった。おそらく20代半ばくらいだろう。つまり、何十年も修行してあれほどの境地に達したわけではない。若くともあれだけの技量に手が届くほど、成長が早かったということだ。まあその分修羅場をめちゃくちゃくぐり抜けてきたのかもしれないが、とにかく、この世界にも成長が早い人間はいるというのは確かだろう。希少かつ稀有であっても。
だから、いざとなれば、アンジェもそのたぐいの人間だったということにすればいい。天才だったと。まあそれでも本人の自覚がない分、首は捻るだろうが、実際にそういう人間が存在している以上、『あり得ないこと』ではないわけだ。
では、リミットレス・キャパシティをつけてスキルブランクを拡張し、ラーニング・エンハンスをつけて、あとはまあ、おいおいでいいか。忘れてはいけないが、現状でもアンジェは十分すぎるほど優秀な人材なのだから。
……と。
あれ、これは何だ。
アンジェのスキル一覧を眺めているうち、私は妙なものに気付いた。
種族固有スキルでもない、自由選択スキルでもない。
『家系固有スキル』……?
なにそれ。そんなもの知らないんだけど。慌てて情報検索してみたが、ヒットしない。
どういうことだ。考え込みかけた時、アンジェが身じろぎした。おっと、時間かけすぎたか。アンジェのこの不思議なスキルに関してはまた後で調べてみるしかないか。
とりあえず名前だけ覚えておこう。家系固有スキル――「光芒剣」か。
「ずいぶん長いお祈りでしたね」
純粋な視線につい罪悪感が。
「え、ええ。いっぱいお祈りしたわ、私たち二人のことをね。――さて、今日は塔に登るための装備を整えに行きましょう。私はこの武器と防具でいいけど、アンジェには何もないしね。それに武器以外にもいろいろ必要でしょうし」
「はい」
二人で部屋を出ようとした時、アンジェが何かもじもじとしているのに気づく。
「どうかした?」
「い、いえ。あの、あのですね。いえ、なんでもありません」
「なあに? 黙っていられるの、嫌いだな。言いたいことあるなら言って?」
少しだけ意地悪な目を向ける。アンジェはちょっとしゅんとして、答えた。
「申し訳ありません。私は奴隷ですから、望んではいけないことでした。お忘れください」
「ア・ン・ジェ」
可愛い鼻の頭をちょんと突っつく。
「そういう言い方は無し。ね? 言いなさい」
「あう……」
わたわたとしていたアンジェは、やがて意を決したように口を開いた。
「お、お手を……その……」
「手?」
きょとんとして私は自分の手を見る。それからアンジェの手を。そしてもう一度アンジェの顔を。
あー。もしかして。
「……手、繋ぎたいの?」
ものすごい勢いでアンジェの白い肌が真っ赤に染まった。ものも言えない様子でこくんと頷く。なんだこの可愛い生き物。
「でも、変な噂になっちゃうかもしれないわよ」
「まあ、素敵。噂になれるんですか?」
顔を上げ、にっこりとほほ笑むアンジェに、私は確信した。この子、天使であると同時に小悪魔だと。
「ほんと、悪い子」
苦笑しながら、私はアンジェの細く可憐な指に、自分の指を絡めていった。
いつもながら賑わっている聖都の街並を、雑踏をかき分け歩く。まあ、はぐれないようにするという意味では、手を繋ぐのも妥当な措置ではあったかも。
さて、いざ登攀者のための装備を整えると言っても、私もアンジェも塔に登ったことは一度もないという完全素人なのだった。ざっと情報検索で概略くらいは調べてあるけどね。
塔は広大であり、しかも「守護獣」と呼ばれるモンスターが現れるため、一階層を踏破するごとに必要な日数は、短くても二日や三日はかかるものらしい。つまり、武器や防具などという勇壮な装備だけではなく、いわばアウトドア用品が必要だということになる。
これも凝り始めればきりがないわけだが、今の私達には予算も限られていることでもあり、またさすがに一階層目ではそれほど厳しい環境ではないらしいということもあって、最低限の装備でいいと思う。もちろん軽視することもできないけどね。守護獣に倒されるのではなく、遭難のような形で命を落とす登攀者も多いようだし。
まず仕立て屋さんをちょっと覗く。この世界には既製服、いわゆるつるしの服屋さんはほとんどない。衣服は原則として注文を受け、寸法を測っての受注生産だ。もっとも庶民はたいてい自分で縫ったり、または古着屋さんで買ったりするようだが。
聖殿に近い仕立て屋さんに、一昨日、アンジェを競り落としてから彼女の服を注文してあったのだが、さすがにまだできてはいないらしい。なるべく急いでくれるようには言ってあるが、半月ほどはかかるという。そうするとアンジェはしばらく古着か。まあこの世界では古着が普通らしいのでアンジェ本人も全然気にしていないようだったけど、個人的にはアンジェには新しい服着せてあげたいなとも思う。こんなちょっとしたことでも、世界が違うと感覚も違うものだ。
しかし、考えてみれば、塔の中で着るための服なら、汚れや破損が前提になるのだろうし、むしろ古着の方か正解か。綺麗な新品の服を塔の中に着こんで行っても仕方ない。そういうのは二人で街にお出かけするときとかのために取っておきましょう。
古着と靴を何点か買った後、道具屋さんへ。さすがに登攀者のお膝元だけあり、新人登攀者なんですけど、と言ったら、ご主人がいろいろとアドバイスをしてくれた。
背嚢と数日分の携帯食、水筒。火打石と火打金、火口。火に関しては私の聖剣・陽炎のフレイムオーラを使えばいいのだが、うかつには人に見せられないのよね。炎系の魔法が使えれば早いのだが、アンジェが使えるのは光・風・聖魔法なので、残念ながら範囲外だ。炎系の魔法使いというと赤毛の聖務官さんことラフィーネさんがいたけど。
その代わりアンジェは聖魔法、つまり治療系の魔法が使えるので、薬はあまり多く持って行かずに済む。もちろんアンジェ自身が怪我したり病気になったりした時のために、皆無というわけにはいかないが。
地面に敷くシートと掛け布も大事らしい。地面に体温を吸われると体力の低下を招くためだ。
安眠や熟睡とは言わずとも、少なくともある程度は十分な睡眠を取らないと、やはり体力を消耗してしまう。そのために、と言ってご主人が見せてくれたのが30cmくらいの棒。使い捨て型の簡易魔法結界が張れるんだって。と言っても、もちろんそんなに強力なものではない。せいぜい虫や小動物を追い払うくらいだというが、虫に悩まされず眠れるって何気に凄い発明だと思うよ。やっぱこの世界侮れない。
そのほか細々としたものも買いこむと結構かさばるし重くもなる。登攀者用の背嚢は、紐やフックが胸元で結合するようになっているものが多く、これはいざという時にさっと紐を解いたりフックを外したりすると、すぐに背嚢が地面に落ち、身軽になって戦えるようにだという。確かに重い荷物背負ったままじゃ戦えないよね。
一通り道具をそろえた後はいよいよ武器と防具に移る。
「アンジェ、あなたには主に魔法を使った支援や遠距離攻撃の役割をお願いしたいのだけど、いいかしら」
「はい、私もどちらかと言えば魔法の方が得意ですし」
アンジェは剣も魔法も使えるが、前衛は私一人で十分だろう。アンジェには後衛としてのはっきりした意識を持ってもらった方が役割分担が明確になる。
そうなると、必然的にアンジェが使う武具の種類も決まる。防具は厚いキルティングを施した刺し子の胴着か、革のもの。武器は木の杖だ。卑金属は魔力集中の妨げになるらしく、魔法使いは貴金属や魔法金属といった特殊な素材のもの以外は、金属製の武器防具はあまり身につけたがらないという。
アンジェは防具に刺し子の胴着を選んだ。天使族は魔法を発動する際に背中から光翅を出現させるが、革ではこれがやや透過しづらいらしい。
で、最後に武器だ。お店のご主人が見せてくれたのは硬い木の杖が二種類。ちょっと触ってみたが、ほんとにカチカチだ。高級な木刀などに使われる赤樫みたいな素材っぽい。これくらいなら、いざという時に十分近接武器にも使えるな。
二種類の杖のうち、黒っぽいものには魔力増大の補助効果が付与され、白っぽいものには集中力強化の補助効果があるという。集中力強化は魔法発動のタイムラグを短縮させるものだ。まあ市販品だし、それほど大規模な効果はないけどね。両方使うってのはダメなのかと聞いてみたが、相互の効果が干渉し合って打ち消してしまうので無理だって。ちぇ。
「どっちがいい? あなたの好きな方でいいわよ」
「えっと。そうですね……」
考え込むアンジェ。つまり一発のデカさを取るか、速射・連射性を取るかということになる。アンジェの性格なら多分、と私は予想してちょっと楽しむ。
「こちらの白い方の杖をいただきたいと思います」
やっぱり。堅実というか着実なダメージを当てていく方が生真面目なアンジェの好みよね。私みたいな性格だったら、多分強力な一発の方を取っただろうけど。
ただ実際問題、アンジェに育ってほしいと考えるなら白で正解だろう。一発でも多く、一発でも早く撃つことで少しでも多く経験が積める。ましてやラーニング・エンハンスのスキルがある以上、とにかく数を撃った方が早く育つのではないだろうか。
この場合重要なのは、私の戦闘力が事実上過剰ともいえるほどにあるということ。「一撃のデカさ」は、私がいる以上、アンジェには求められていないのよね。少なくとも低階層では。アンジェも、自分の好みだけではなく、そういったチームバランスを考慮の上で決定したのかもしれない。威力を強化するといっても、銀貨数枚で買える程度のものだし、もとよりそんなに期待はできないけど。
帰り道。聖殿から五点鐘が聞こえてくる。日本時間的に言うと午後2時くらいかな。もうお昼もだいぶ過ぎてしまった。今から塔に入るより、明朝からの方がいいだろう。
アンジェは杖が気に入ったらしく、歩きながら時折軽く杖を振ってみてはニコニコとしている。おもちゃを買ってもらった子供か。可愛い生き物め。
しかし、色々と買いこんで、相当の出費になった。盗賊の塒で奪った銀食器を売ったけど、大して足しにはならなかったし。
「ごめんねアンジェ」
「はい?」
「客殿に泊れるのは今夜までだと思うわ。次からはもっと安い宿に移らないと」
アンジェは目を見張ってふるふると首を振った。
「そんな。むしろ、私のせいです。私を落札するために、ご主人さまがいっぱいお金を使ってしまったから……申し訳ありません」
「あなたが側にいてくれるなら、あの十倍でも私は払うと思うな」
笑いかける私に、アンジェは頬を染めて嬉しそうにうつむいた。
その彼女の姿に私の胸もふわりと暖かくなり、そして、
――そして、舌打ちする。
こうやって人がラブラブしてイチャイチャして甘甘しているところに。
空気読まないにもほどがある。
「あら、今夜からもう他の宿にお泊まりになるのですか?」
聖殿へ帰る道から外れたと気付いたアンジェが不思議そうな声をかける。
その彼女の手を握り、私はささやくように言った。
「アンジェ。あなたの荷物貸して。私が持つわ。顔を動かさないで。声も上げないで」
「え……」
「後をつけられてる」
息を飲むアンジェ。しかし私に言われたとおり、不審な挙動をしないまま歩き続け、さりげなく荷物を私に渡した。意外にというかやはりというか、この子は結構肝が座っている。
そう、今朝聖殿を出た時から、もう尾行は付いていたようだ。『気配察知』をアクティヴに切り替えつつ、素知らぬ顔をして買い物を続けたが、相手も根気強くいつまでも付きまとい、今に至る。さすがに街中では襲ってきたりはしなかったが、かといっていつまでも周りをうろつかれてはいい加減鬱陶しい。
私はすでに『ワールド・リサーチ』を起動し、地図を広げてルートを検索している。人気のない、都合のよさそうな場所へ。――私が彼らを始末するのに都合のいい場所へだ。
「次の角を曲がったら全力で走ってその先の空地へ。私が相手をするからアンジェは自分を守ることだけを優先して。私を気遣う必要はない。いいわね?」
「はい。余計な動きをしたらかえってご主人さまの邪魔になる。それは理解しています」
青ざめた顔で、それでもきっぱりと答えるアンジェに、私は微笑んだ。状況判断は適切。賢い子だ。
「いい子ね。じゃ、いくわよ。1、2、……3!」
細い路地に入り込んだ瞬間、私たちは猛然と駆けだした。
約200mを全力で駆け抜けて、人気のない空き地に入り込む。他の場所に通じる道はなく、前から通じる一本のみの袋地だ。
二人分の荷物を抱えてこれだけの距離をダッシュしても、汗一つかかない『身体能力強化』のスキルには恐れ入る。これならアンジェをお姫様抱っこして私が走ってさえ大丈夫だったかも。
というかアンジェも、結構息を荒げてはいるが、身ごなしには問題なさそう。彼女は剣の修行もしているし、それなりに身体も鍛えているわけか。大したものだ。私の学生時代なんて、200m全力ダッシュなんてしたら、貧血でブッ倒れて保健室直行だったよ。
前から悠然と歩いてくる人数は、7人……いや8人か。御大層な事だ。歩きぶりにはゆとりが伺えるが、たぶん自分たちが私をここに追い込んだと思っているのだろう、けどね。
「一日中うろうろと、御苦労さまだったわね。よほどお仕事がなくてお暇なのかしら」
冷えた視線と声を投げつける。相手は立ち止まり、嫌味ったらしく手を広げて苦笑を洩らした。
「これはこれは手厳しい。仕事ですか、本当なら何日も前に私の仕事は終わっていたはずなのですが、なぜか二度も不首尾に終わりましてな。ええ……なぜか、ね」
耳障りなやや甲高い声。細い顎に細い髭。
あの、フードの男だった。