測量士・浦島太郎物語 〜山の現場で谷に滑り落ちたら竜宮城だった〜
本作は、測量士という職業を題材に、「もし浦島太郎が現代の技術者だったら」という発想から生まれました。
文章制作には生成AIを活用し、構成・推敲は人の手で行っています。
四十歳、バツイチ。現場歴十八年。
それが、測量士・浦島太郎の現在地だった。
梅雨明け直後の山は、ぬめるように湿っていた。公共工事の事前測量。三脚を据え、トータルステーションを覗き込みながら、太郎はひとり愚痴をこぼす。
「人生も、こんな斜面だったらな」
角度も距離も、数値で出せる。どこで間違えたか、座標で示せる。だが現実は、誤差だらけだ。
そのとき、足元の土が崩れた。
「うわっ——!」
視界が反転し、身体は谷へと滑り落ちる。木の枝を掴もうとしても空を切る。やがて、水音とともに衝撃が全身を打った。
冷たいはずの水は、なぜか温かかった。
目を開けると、そこは青く透き通る水中だった。だが苦しくない。泡の向こうから、色鮮やかな魚たちが群れをなして泳いでくる。
「ようこそ、浦島太郎様」
鈴のような声。振り向くと、長い黒髪の美女が立っていた。作業着の泥は消え、代わりに絹の衣をまとっている。
「ここは、竜宮城」
美女は微笑み、太郎の手を取った。
そこは豪奢な宮殿だった。床は貝殻のように光り、天井には揺らめく水の紋様。疲れも、痛みも、不安も消えていく。酒は甘く、料理は海の香りをまとい、笑い声が絶えない。
女は太郎を、広間の奥にある回廊へと連れていった。水の膜のような壁の向こうで、光る魚群が星座のように巡っている。
「ここでは、重さがありません」
女はそう言って、太郎のヘルメットの跡が残る額に、そっと指先を触れた。
その瞬間、胸の奥に沈んでいた疲労が溶けていく。毎朝の通勤渋滞も、現場での叱責も、養育費の振込通知も、すべてが遠ざかる。
「あなたは、ずっと何かを背負っていました」
図星だった。
太郎は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「測量士ですからね。重い機材を担ぐのは慣れてます」
「いいえ」
女は首を振る。
「機材ではなく、後悔を」
その言葉に、太郎の喉が詰まる。
女は彼の手を取り、掌をひらいた。荒れた皮膚。節くれだった指。
「この手は、たくさんの距離を測ってきた手です。でも——」
彼女は、そっと自分の胸にその手を当てた。
「自分と誰かとの距離は、測れなかったのですね」
鼓動が伝わる。
温かく、ゆっくりとしたリズム。
太郎の目尻が熱を帯びる。
「……ここにいれば、測らなくていいのか」
「はい」
女は微笑んだ。
「ここでは、失敗も誤差もありません。あなたは、ただ在るだけでいい」
その夜、太郎は初めて深く眠った。
夢も見なかった。
責める声も、催促の通知音もない、空白の眠りだった。
翌朝、目覚めると、女はすでに彼の隣に座っていた。
「おはようございます、太郎様」
その呼び方が、胸の奥をくすぐる。
誰かに「様」と呼ばれることなど、現実では一度もなかった。
彼は、知らぬ間に思っていた。
——帰らなくてもいいのではないか。
日々の離婚調停も、養育費の振込日も、誰にも必要とされない夜も、遠い泡のように消えた。
どれほど過ごしたのか分からない。数日か、数か月か。
だがある日、太郎はふと胸の奥に引っかかるものを感じた。
「現場……」
あの山。途中で終わった測量。上司の怒鳴り声。未提出のデータ。
「帰らなくては」
女は一瞬だけ寂しげな顔をし、小さな箱を差し出した。
「決して、開けてはなりません」
太郎は頷き、水面へと押し上げられた。
次の瞬間、彼は谷底に横たわっていた。濡れた作業着。砕けた機材。上空には、見慣れた空。
助かったのだ。
だが、山道に見覚えがなかった。舗装され、見知らぬ標識が立っている。スマートフォンの電源を入れると、表示された日付に息が止まった。
二〇四六年。
二十年、経っていた。
会社はとっくに倒産し、実家は売却され、元妻は再婚。娘は海外に移住し、連絡先も分からない。戸籍上、彼は「失踪者」だった。
アパートも、貯金も、人間関係も、何もかも消えている。
夜の公園で、太郎はベンチに腰掛けた。膝の上には、あの箱。
「開けるな、か……」
失うものなど、もうない。
蓋を開けた瞬間、白い煙が溢れ出した。身体が熱を帯び、視界が霞む。手の甲はしわだらけになり、背が曲がる。
鏡のような水たまりに映ったのは、八十を超えた老人だった。
測量士は、正確に距離を測る。
だが、自分が失った時間の長さだけは、どうしても測れなかった。
山の風が吹く。
それは、竜宮城の潮の香りに、少しだけ似ていた。




